幸せ?
別れた女が「カフェ」を出したと聞いて、ちょっと行ってみる気になったのは、見届けたかったからだ。
俺と結婚するよりも自分がやりたいことを優先すると言った女が、どれだけのことをしているのか確認したかった。
料理が上手なのは知っている。見かけほど甘い性格じゃないことも知っている。
だけど「カフェ」なんて商売は、やる気だけで上手く行くわけない。オンナノコの夢物語だけで、生活の根本を揺るがせたくない。
「俺と結婚するんなら、カフェを開くなんてバカな考えは捨てろよ」
そう言ったら、あいつは泣きながら食ってかかってきたんだ。
「あなたが結婚したいのは『私そのもの』なの?それとも『私であることを放棄したもの』なの?」
ただの夢物語にご大層な・・・そう思った。
お互いの両親を紹介しあって婚約指輪の話も出ていたのに、まさかそこで終わるとは正直思っていなかった。
「おまえが考え直すまで、結婚はお預けにしよう」
「考えなおしたりしないから、ここでお終いにする」
一晩話し合って泣き腫らした目でも、あいつは一歩も引かなかった。
俺も引く気はなかった。間違っているのは、あいつの方だ。
知り合いから貰った地図を頼りに、住宅地から木の多い公園に抜ける道の一番隅。
白い看板に「CAFE HARMONY」の文字がなければ、見落してしまいそうな地味な場所。
こんなところに客なんか入るわけがない。あのまま俺と結婚すれば、しなくても良かった苦労をしてるわけだ。
結婚したって聞いたけど、相手はよっぽど将来のことなんか考えてない奴なんだろう。
ドアを開けたら、記憶にある声が「いらっしゃいませ」と俺を迎えた。
やあ、と軽く手をあげる。
客はテーブルにふたり、カウンターには俺だけ。
これじゃ採算なんて取れないだろう。
「久しぶり。知らせなかったのに来てくれたのね」
カウンターに座った俺に水を出しながら、あいつは微笑む。
綺麗になった。それだけは認める。すごく綺麗になった。
「どう?その後」
「私?多分今まで生きてきた中で、一番充実してる。自分の可能性がもっと広がるんだって実感できる。あなたは?」
「変わらないよ。平穏で普通。それが一番幸せだから」
「私も平穏で普通よ?仕事して、生活して。多分、あなたの普通と私の普通は違うものなのね」
可愛い鈴の音と共に高校生が何人か、店に入ってきた。
「睦美ちゃーん、ねえ聞いてー!」
「こらっ!他のお客さんもいるのよ。今行くから待ってなさい」
あいつは俺に向き直った。
「忙しい時間帯になるわ。お構いできないけど、ごゆっくり」
しばらく、黙ってコーヒーを少しずつ飲んでいた。
客は入れ替わり、本を読んでいたりお喋りに興じていたりとそれぞれだが、共通点はある。
全員がリラックスした顔をしているということだ。
それはあいつが―睦美が―作り出している空気そのもの、なのだ。
あいつが楽しんで仕事をし、この空間を慈しんでいるのだと空気に伝えているのだ。
俺との生活だけに閉じ込めたら、あいつはこれを作れただろうか。
「ご馳走様。旨いコーヒーだった」
「ありがとうございました。また来てね」
良い笑顔は、何年か前と変わらない。優しい声も変わっていない。
「睦美、今、幸せ?」
「うん」
力強い答えだ。
「手応えのある仕事を持って、それを支えてくれるパートナーもいて、これ以上のことってない」
ああ、本当に綺麗になった。
店を出て、看板の下についているポストの名前を見た。
「小野誠司・福島睦美」
まったく同じ大きさで、同じ書体で並んでいる。
もしも、と俺は考える。
もしもあの頃俺が、会社員を辞めて何か新しい事業をするなんて言ったら、あいつはどう反応したんだろう。
会社員を辞めるなら結婚しない、なんて言っただろうか?
私道の角を曲がる前に、もう一度店を振り返った。
気がついたあいつが手を振る。
俺ね、来年結婚するんだ。おまえと違って、俺のこと大事にしてくれる子と。
言いそびれた言葉が口の中で苦い。
あいつが俺を大事にしてくれなかったんじゃなくて、俺があいつのことを大事にしてなかったな。
今度は間違えないでおこう。
幸せそうで、良かった。
駅に向かう道の途中に、空を仰いで溜息をついた。
fin.