番犬
土日のカフェ「ハーモニー」には、鋼鉄の番犬がいる。
庭の手入れをしていることもあれば、トレーを持っていることもある。
番犬の仕事ぶりは常連たちの秘かな楽しみなのだが、犬自体はそれに気がついていない。
「どさくさに紛れて睦美ちゃんの手を握るなっ!」
ちいさなおばあちゃんが一人でやっていた喫茶店が改装して、今風の店になった時から睦美さんはアイドルだ。
白いシャツはいつも清潔で、優しい声とほんわかした笑顔に癒されるために、カウンターに座りたがる人は多い。
番犬は気が気じゃない。
大切なご主人さまを守るために、そこにいるのだ。
手を握って見せるとか、営業後の食事に誘うとか、誰も本気なわけじゃない。
番犬が吠えるのを楽しみに聞いているだけだ。
ここは、先月までつきあってた女の子と何回か来たことがある。
睦美さんはにこにこして僕たちを見てただけだったけど、別れた後に一人で行った時に、紅茶に小さなお菓子が添えられていた。
その日は雨で、公園の葉っぱはびしょびしょで、客は僕一人だった。
「今日はトクベツ。ナイショよ?」
何にも言わなくても、わかってるんだ。僕が彼女に思いっきりフラれて、落ち込んでること。
黙ってカウンターの中で作業をしている睦美さんと、黙って外を眺める僕。
とても穏やかで安心できる場所にいるようで、僕はずっと雨を見ていた。
僕はカウンターには滅多に座らない。
睦美さんが常連のお客さんと世間話をしたり、僕と同じくらいの女の子の相談に乗ってやったりしているのを聞いている。
一人で喫茶店に通うのはおかしいかなと、友達を何人か誘ったりもした。
カフェにしては食べるものに力を入れているので、男を誘っても苦情は来ない。
いつも睦美さんはにこにこ迎えてくれるだけだけど。
土曜日の五時過ぎ、散歩帰りの親子連れが何人か帰り、番犬が洗い物をしてる。
番犬さえいなければ、今の時間は睦美さんと僕だけになるのに。
「誠司君、せっかく休みなんだから、好きなことしてていいんだよ?お客さんも薄くなってきたし」
そうだよ、番犬。ご主人さまもそうおっしゃってる。
「だめ。そいつがいるから」
番犬は失礼にも僕を指差した。
「他の客ならともかく、そいつがいる限りはここにいる」
「誠司君っ!お客様にそいつって!」
睦美さんが番犬の指を握って喰ってかかるのと、番犬が僕に向かって声を発したのは、ほぼ同時。
吠えたんじゃなくて、静かな声だったけど。
「睦美ちゃんに気があったって、ダメ。俺のだもん。客なら歓迎だけど、ガキの失恋になんか立ち会いたくねえし」
言葉は雑だけど、優しい口調だった。
「他の客にからかわれるのは、両方わかっててやってることだから。でも、あんたは違うでしょ。本気になる前にやめとけ」
睦美さんは戸惑った顔で、僕と番犬を見較べていた。
「そんな訳ないじゃない!高校生の男の子よ!失礼だわ!」
弾かれたように睦美さんが大声を出す。
「睦美ちゃん、高校生でも男は男だよ。な?」
番犬は僕に向かってニヤっと笑ってみせた。
敵わないな、と思った。番犬はご主人さまの異変をちゃんと察知するのだ。
先払い方式なので、立ち上がるだけでいい。
カウンターにまわって、睦美さんに「ご馳走様でした」と挨拶する。
「誠司君が失礼して、ごめんなさいね。また来て」
「来ます。それに、失礼じゃありませんでした」
ドアを開けて公園まわりで帰る途中、植え込みの間から「ハーモニー」を振り返った。
暗くなった公園から、まだ明るい店の中が見える。
睦美さんが笑顔で番犬に何か話しかけてる。
僕に向ける顔じゃなくて、子供みたいな可愛い顔で。
あ、他人に見えるところでキスなんかするんじゃない!番犬のクセにっ!
ふと顔をあげた番犬が、僕に向かって親指をあげて見せた。
明るい場所からここなんて、見えるわけないのに。
ああ、敵わないな。行動まで読まれちゃってる僕の負けだ。
番犬は番犬であることをちゃんと自覚してる。
睦美さんの笑顔は、守られてるってわかっているから。
僕も、いつか誰かを守れるようになる時が来るのかな。
勢いをつけて蹴りつけたケヤキの木から、残った葉が僕に降りかかってきた。
fin.