キンモクセイの記憶
ちりりんと可愛らしいドアベルの音と共に、黄金色の秋の香りが店内に流れ込む。
その香りは、もう会わない人を思い起こさせた。
あの人は、幸せでいるだろうか。
ただただひっそりと、微笑んでいるような人だった。
僕はとても若くて我儘で、傲慢だった。
いくつか年下だった筈の彼女は、今から思えば僕よりもとても大人で、優しかった。
だから、僕は彼女を見縊っていた。
何人かの女との情事は、隠しているつもりだった。
仕事のトラブルで荒れたときには、お前みたいに気楽な仕事はしていないんだと、あたった。
風邪をひいたと聞けば、日頃の摂生が良くないのだと嘲った。
彼女が悲しい顔のときは辛気臭い女だと言ったくせに、自分が辛い時には平気で部屋に呼びつけた。
僕は、本当に勝手だった。
疲れた彼女が他の男に癒しを求めたことを、どうして責めることができたんだろう。
二度と顔を見せるなと言った時、彼女が言ったアリガトウの意味は、開放された喜びだったのかも知れない。
確かめることもできない過去。
愚かで情けない、消してしまいたい僕自身の記憶だ。
もう一度、ドアベルが鳴る。
「ごめんなさい、ちょっと遅れました」
向かい側の席に座る人は、軽く息を切らしている。
「そんなに待ってないよ。それよりも、自転車でそんなにスピードを出しちゃいけない。事故に遭ってしまうよ」
ああ、彼女と待ち合わせた時は、僕は必ず三十分以上遅れていたんだ。
それが自分の権利ででもあるかのように。
「外は、キンモクセイの香りでいっぱいです」
向かい側の席の人が微笑む。
「うん。君がお茶を飲み終えたら、公園を一周して、それを楽しむことにしようか」
僕も視線を返して、これから過ごす時間についての提案をする。
これから感情のやりとりをはじめるだろう人の、今これからの気持ちを、僕は考える。
彼女の気持ちを少しでも汲むことができれば、彼女を失うことなどなかっただろうから。
睦美さんに挨拶をして、店を出た。
街は今、秋の香りだ。
fin.