融解
姉の家に行く、と言ったら、母から渡されたものがある。
ばかでかい、コスモスの花束だ。
「睦美はコスモスが好きだから。よろしく言って頂戴」
母はまだ、姉の店に行ったことはない。
娘が水商売をするなんて、危なっかしくて見ていられないと言う。
水商売っていったって、酒を扱っているわけじゃないし、姉は頑固な上に手堅いから、博打みたいな真似はしないと思う。
大体店を開く前だって散々反対して、僕としては姉の方が心配だったくらいだ。
結局結婚して家を出た形になっているけど、姉の性格で、旦那の稼ぎをアテにした奥様趣味な商売なんて、してるわけがない。
僕自身も店に行くのは初めてだけれど、多分誠司さんは上手く使われていると思う。
一見優しくて頼りなげな姉が、中身はシビアな商売人だと知っているのは、一緒に育ってきたからだ。
母から見れば、料理上手で物腰の穏やかな姉は、胸を張って嫁に出せる人だったんだろう。
譲らない我の強さは、母や父から見れば、世間知らずの戯言にしか聞こえなかったらしい。
あの価値観は、会社員が終身安定だと思っている世代の人たちだから、仕方がない。
かく言う僕も会社員だし、人生に勝負をかけることも無いと思う。
少し恥ずかしい思いをしながら、花束を抱えて電車に乗った。
誠司さんが駅の改札で待っていてくれたので、ほっとする。
「わかりにくい場所なんですよ」
手に大きな袋をぶら下げていた。
「あ、食パンです。昨日から、トーストサラダ始めたんで」
「誠司さんもお店、手伝ってるんですか」
「土日はね、仕事ないから。俺だけ家に居てもねえ」
思った通り、使われているらしい。
住宅併設の店は、僕が考えているよりも今風に仕上がっていた。
母からだと花束を差し出すと、姉は嬉しそうに両手で受け取った。
「こんなにたくさん、花瓶が足りないわ。誠司君、どうしよう?」
「一子さんの置いてった傘立て、持ってくる」
店の中に客が居るのに、生活感丸出しの会話をしている。
誠司さんが大きい壷を外のシンクで洗って、店の中に運んできて、コスモスをその中に入れた。
「いきなり、秋の風が吹いたみたいね」
姉はほっこりと笑った。
「お母さん、私がコスモスを好きだからって言ったでしょう?」
「うん、昨日花屋に注文してたみたい」
「お母さんは、コスモスとかカスミソウとかが好きな娘を望んでたのよね」
カウンターの向かい側で、姉は家にいた時みたいに、茶葉を真剣に計った。
「そりゃ儚い花も好きだけど、私が一番好きなのは、子供の頃からツバキなのよ。だけど何回訂正しても、お母さんはそれを自分の望みとすり替えちゃう。それに沿おうとしなかった私は、親不孝だわね」
誠司さんは、黙って棚にカップを収めていた。
「いいんじゃない?姉ちゃんは頑張って自分のやりたいこと、自分の責任ではじめたんだから」
「でも、お母さんはまだ、開店してから一度も見に来てくれない」
姉がそんなことを気にしているとは、思わなかった。
たまに実家に来るときには、母の好きな菓子を携えて、にこにことお喋りに興じていたから。
そうか。姉はまだ、両親が望んだことから外れたことに、罪悪感を抱いていたのか。
姉から預かった手土産を持って帰宅した。
母は居間で、アイロンをかけていた。
「睦美、元気だった?」
「姉ちゃんは常にパワフルで元気だよ。たまには、顔見に行ってやれば?」
母は少し困った顔になって、人目を憚るような小声で言った。
「睦美がやつれるような反対の仕方しちゃったもの、今更」
「姉ちゃん、未だに反対されてると思ってるよ。一回顔出してやってよ」
そう言っているうちに父がゴルフの打ちっぱなしから帰宅して、母は姉とよく似た顔で、キッチンの茶葉を計り始めた。
「ねえ、来週は睦美のお店に行ってみようかしら」
「そうだな。誠司さんに我儘言って、手をかけているんじゃないか」
開店から何ヶ月経ったろう。
父と母が「ハーモニー」の扉を開けたら、姉はどんな顔するんだろう。
「ねえ、予告しないで行ったほうが、姉ちゃん喜ぶと思うよ。地図なら書くから」
その時の姉の顔を想像して、僕はちょっとだけ、姉と一緒に嬉しくなった。
fin.