ささのは、さらさら。
七夕は、旧暦が正解だ。
でないと、今年もほら、織姫と彦星は会えないじゃないの。
ハーモニーの軒先には小さな七夕飾りがあって、ささやかな願い事の短冊が飾られている。
カウンターの上に置かれた色紙の短冊を、手に取ってみて、また戻した。
「あら、どうぞお書きくださいな。お遊びですけど。」
『会いたい』と書いて、やっぱり握り潰した。
彼が転勤してしまってから、私の週末はぽかんと暇だ。
毎週会いに行くには、新幹線代はお財布に痛すぎる。
それに、会うと別れる時間が怖くて、最後に泣かないのが精いっぱいで。
彼が会いに来てくれても、新幹線のホームまで見送りに行けない。
だって、泣いちゃうもの。泣いて困らせちゃうもの。
改札で手を振るたびに、彼は寂しそうな顔をして、小さく「ごめんな」と言う。
だけど、まだ言ってはくれない。
一言おいでと言ってくれれば、彼の転勤先について行くつもりだった。
引っ越しギリギリになっても、彼は言ってくれなかった。
「今はまだ、二人分の生活を支えられないから」
そう言う彼に、連れて行ってくれとは言えなかった。
何度か訪れた彼の部屋には、いつも必要最低限の物しかなくて、知り合いもいない場所の心細さを思う。
暗い部屋に灯りをつけて、テレビ相手の一人の食卓だと言っていた。
その時、彼はどんな顔をしているんだろう。
「彼がね、転勤しちゃって、遠距離恋愛になっちゃって」
カウンターの中の睦美さんに聞いてもらいたくなったのは、彼女がいつも幸せそうだからだ。
「睦美さんはいいな、週末にはお店の手伝いまでしてくれる旦那様がいて」
同年代らしい彼女は、私にふんわり微笑んで見せた。
「まだ、入籍してないの。誠司君は就職したばかりだし、私はお店の改装の借金が残ってるし」
前のオーナーの一子さんと雰囲気が似てるから、てっきり身内かと思っていたら、違うらしい。
「転勤からは、戻ってくるの?」
「わからない。だけど、来いとも言ってくれない」
お店の中では、小さい子を連れたママさんが二人、お喋りに夢中になっている。
「ああ、来いとは言えないでしょうね。俺のために知らない生活に飛び込んでくれなんて、言えないよね」
彼がそう考えているのかも知れないと思ってはいたけれど、他人の口から聞くと、それが真実であるかのように聞こえる。
「行ってもいいと思う?」
勢い込んで聞いたのは、誰かに背中を押して欲しかったから。
「私は彼じゃないから、知らないわ」
睦美さんが笑う。
「でも、私の経験なら話せる。私ね、誠司君を私の博奕につきあわせたくなくて、ずっとジタバタしてたの。それでも誠司君は一緒に居たいって言ってくれて、このお店まで見つけてくれた」
それから照れくさそうな可愛らしい顔になって、一言つけ加えた。
「だから今、とっても幸せ。惚気てごめんね」
休みの日に見る睦美さんの旦那様は、お店を手伝いながら、とても楽しそうにしている。
私も、彼の横にいれば幸せ。
生活を支えられないなんて、私も一緒に生活を支えれば良いだけの話だったのに。
来いって言われなくたって、行こう。
短冊を見て溜息つくよりも、自分が動こう。
ささのは、さらさら。
お星さま、私の願い事を聞いてくださいな。
どうか彼が、今日下した私の決断を、喜んで迎えてくれますように。
―私、そっちで仕事を見つけて、良いかな。
メールを発信すると、通話で返事が戻った。
「来てくれるの?知り合いもいないし、楽はさせてやれないし」
「知り合いなら、誰よりもあなたがいるじゃない。会いたいと思い続けるより、傍で新しい仕事を覚える方が楽なの。そう思っちゃ、いけない?」
そう思ってくれると思わなかった、ありがとう。
彼の声は潤んでいた。
「来い」と言わないのは、「来るな」って意味じゃなかったね。
携帯を片手に、カーテンを開けて空を見上げる。
かろうじていくつかの星が見える。
織姫と彦星は雲の上で、年に一度の逢瀬中。
ささのは、さらさら。
私はこれから、彼と一緒に眠る夢を見る。
fin.