第6話 不確定性の少女
ヒルベルト魔導学院での授業は、予想通り「退屈」の一言に尽きた。
教室に集められた新入生たちは、教師の指導の下、基礎的な魔力制御の訓練を行っている。
「次は、アリス・ボーアさん。前へ」
教師に名を呼ばれ、教室の隅で震えていた小柄な少女が、ビクッと肩を跳ねさせた。
アリス・ボーア。
透き通るような銀髪に、少し大きめの制服。
そして何より目を引くのは、右目が赤、左目が青というオッドアイだ。
「は、はいぃ……」
彼女は今にも泣き出しそうな顔で、教壇の前へと歩み出た。
教室中から、クスクスという忍び笑いが漏れる。
「見ろよ、『爆発令嬢』だ」
「また失敗するぜ」
「名門ボーア家の面汚しだよな」
悪意ある囁き。アリスは顔を真っ赤にして俯いている。
私は頬杖をつきながら、興味なさげにその様子を眺めていた――はずだった。
「ではアリスさん。基本魔法『ウォーターボール(水生成)』を」
「は、はい……いきます……!」
アリスが杖を構え、震える声で詠唱を始めた。
彼女の周囲のマナ(金色の糸)が揺らぎ始める。
その瞬間。
私の目は釘付けになった。
(……なんだ、あの揺らぎは?)
通常、魔法を発動する際、糸は規則的な波形を描いて収束する。
だが、彼女の糸は違った。
激しく振動し、絡み合い、あるいは霧散し、「形が定まっていない」のだ。
まるで、可能性の雲がそこに漂っているかのような。
「出ろぉぉぉ……!」
アリスが悲痛な叫びと共に杖を振った。
ボシュッ!!
次の瞬間、彼女の杖の先から噴き出したのは、水ではなかった。
熱湯のような蒸気と、氷の礫、そして泥水が入り混じった、混沌とした物質のカクテルが暴発し、教師の顔面に直撃したのだ。
「ぶべらっ!?」
教師が吹き飛び、教室は爆笑の渦に包まれた。
「やった! また暴発だ!」
「水魔法なのに熱湯が出たぞ!」
「才能ないんじゃないのー?」
アリスは真っ青になってへたり込んだ。
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
だが、私は笑わなかった。
いや、笑えなかった。
今、私の目の前で起きた現象は、魔法の失敗などというチャチなものではない。
水(液体)、蒸気(気体)、氷(固体)。
これらが同時に発生した?
三重点でもない常温常圧の環境下で?
(ありえない。彼女の魔力は、発射されるその瞬間まで、状態が確定していなかったのか?)
私は思わず席を立ち、アリスの元へと歩み寄っていた。
彼女は私を見上げ、怯えたように身を縮める。また馬鹿にされると思ったのだろう。
「あ、あの……わ、私……」
「素晴らしい」
私は彼女の手を取り、その瞳を覗き込んだ。
「え?」
「君の魔力は失敗なんかじゃない。『シュレディンガーの猫』状態だ!」
「しゅ、しゅれ……ねこ……?」
アリスが目を白黒させる。
私は興奮を抑えきれずにまくし立てた。
「いいかい、君のマナは波動関数が収束していないんだ! 観測されるその瞬間まで、成功と失敗、水と氷、あらゆる可能性が重ね合わせの状態にある。だから結果がランダムになる!」
周囲の生徒たちが「あいつ何言ってんだ?」「レイも変人だからな」と囁き合っているが、どうでもいい。
私は原石を見つけたのだ。
「き、君! 私が馬鹿にされてるわけじゃ……ないの?」
「馬鹿にする? ナンセンスだ。君は稀代の才能の持ち主だよ」
私は彼女の杖を握る手を、優しく、しかし力強く支えた。
「もう一度やってごらん。今度は僕が『観測』する」
「か、観測……?」
「そう。僕が君の魔法を『成功する』と定義し、凝視し続ける。観測者が介在することで、君のあやふやな波動関数を、強制的に一つの結果へと収束させるんだ」
私は瞳に力を込め、彼女の周囲に漂う不確定な糸を睨みつけた。
ゆらぐ可能性の雲を、視線という名のアンカーで縫い止める。
(状態定義。H2O、液相。温度25度。球体形状へ収束せよ!)
「さあ、撃て! アリス!」
「は、はいぃっ!!」
アリスが半信半疑のまま杖を振る。
ポワン。
先ほどのカオスが嘘のように、杖の先には、完璧な球形をした美しい「水球」が浮かんでいた。
不純物なし。温度一定。教科書のお手本のようなウォーターボールだ。
「え……嘘……できた……」
アリスが自分の魔法を見つめ、涙ぐむ。
教室が静まり返った。
「成功だ。Q.E.D.」
私は満足げに頷いた。
彼女の不確定性は、適切な観測者がいれば、あらゆる物理法則を確率的にすり抜ける「奇跡」へと昇華する可能性がある。
「あ、あの……っ!」
アリスが潤んだ瞳で私を見上げた。その頬は朱に染まっている。
「あ、ありがとうございます……! 私、初めて……魔法がちゃんと……」
「礼には及ばないよ。君は貴重な研究対象だからね」
私は素直な感想を述べたのだが、なぜかアリスはさらに顔を赤くし、モジモジと指を絡ませた。
「研究……私のこと、ずっと見ててくれるってことですか……?」
「もちろん。君の観測は僕にしかできない」
私が断言すると、彼女は「ふぁうっ」と奇妙な声を上げて湯気を出し、その場に倒れてしまった。
……おや? エネルギー切れか?
不確定性の維持にはカロリーを使うらしい。次は角砂糖でも用意しておこう。
こうして、私は「資金源」に続き、「最強の不確定要素」を手に入れた。
役者は揃いつつある。
(第6話 完)




