第44話:ランダム・ウォーク
暗殺部隊の前に放り出されたアリスは、パニックになりながらも両手でしっかりとアンテナ杖を握りしめた。
「ええいっ!もうどうにでもなれですぅ!」
その瞬間、彼女の固有魔法であるシュレディンガーの猫、すなわち不確定性魔法が全開になった。
普段であれば、アリスが引き起こすデタラメな事象に対し、私が精緻な座標を指定して観測を行うことで、望む結果、つまり有益な魔法だけを確定させている。
しかし今回、私はあえて一切の観測を行わず、アリスの引き起こす不確定性を完全に野放しにした。
アリスの周囲の空間が、量子の重なり合いの状態となる。彼女の姿が幾つものブレ像として視認され、世界そのものがノイズに包まれたように揺らぎ始めた。
暗殺者の放った黒塗りの短剣が、アリスの急所に突き刺さる。
だが、観測されるまで結果が確定しないため、短剣が刺さったという結果と、何もないところで転んで偶然躱したという結果が、この空間に同時に存在する異常な状態となった。
「……ッ!?」
感情を消していたはずの暗殺者たちの目に、初めて明らかな動揺が走った。
彼らの脳内にラプラス枢機卿から送られてくる、唯一絶対の未来予測。それが、アリスの不確定な挙動のせいで致命的なエラーを吐き出し始めたのだ。
何もないところで派手につまずくアリス。明後日の方向に暴発する突風の魔法。
古典力学をベースにしたラプラスの決定論的システムは、この純度百パーセントの量子力学的なノイズを処理しきれない。
予測データが矛盾を引き起こし、暗殺者たちの脳内ネットワークがパンクする。そこにいるはずのない味方を攻撃しかけたり、予測と現実のズレに脳が追いつかず動きが完全にフリーズしたりと、彼らの完璧な連携が物理的にバグを起こして崩壊していく。
「すごい!ラプラスの悪魔の予測リンクが切断された!」
ボブが興奮した声で叫んだ。
私はニヤリと笑い、白衣を翻して一歩前に出る。
「計算高いシステムほど、想定外のエラーには脆い。そして、あやふやな量子状態は、強烈な観測によって一つの結果に収縮する!」
私はバグを起こして動きが止まった暗殺者たちに対し、重力の糸を展開した。
不確定な空間の中で、ここだと力学的に観測し、対象を捕捉する。
一瞬にして超高重力が発生し、暗殺者たちを床へと激しく縫い付けた。
「いっくぜえええっ!」
完全に身動きがとれなくなった敵の隙を突き、リックが飛び出した。
重力に縛られた暗殺者たちの間を縫うように駆け込み、アモルファス合金のナイフの柄を使って、次々と彼らの後頭部を的確に殴り飛ばしていった。
鈍い音が響き、教団の恐るべき暗殺部隊である静寂の刃は、完全に意識を刈り取られて床に転がった。
「ふぅ、なんとかなったな。やるじゃねぇか、アリスちゃん」
リックがナイフをしまいながら息を吐く。
「ひゃうぅ……膝、すりむいちゃいました……」
私は敵が完全に無力化されたのを確認した瞬間、すぐさまアリスへと視線を向け、不確定に揺らいでいた無数のアリスの可能性の中から、「何もないところで転んで短剣を躱した」という座標をピンポイントで指定し、その結果だけを現実として強制的に収束させる。
当のアリスは、自分が一つ間違えれば短剣に刺される結果に収束していた可能性など露知らず、床に座り込んで涙目で膝をさすっていた。
「よくやった、お前たち。これでようやく、ミスリルコイルの加工に移れる」
私が安堵の息をつき、工作機械へと向き直ろうとした、まさにその矢先だった。
ドンッ、ドンッ、ドンッ!
研究室の扉が、外から乱暴に叩かれた。
「若旦那!開けてください、若旦那ぁっ!」
扉の外から聞こえたのは、ファイン商会の部下の悲痛な叫び声だった。
リックが慌てて閂を外すと、血相を変えた若い男が転がり込んでくる。
「どうした!こんな夜更けに何があった!」
「大変です!教団が、旦那様とファイン商会に対して、異端認定の圧力をかけてきました!商会の全口座は凍結され、王都に出入りする物資の流通網もすべて封鎖されました!」
「……なんだと!?」
リックの顔色が一瞬にして青ざめた。
教団は物理的な暗殺が通じないと悟るや否や、次なる手として、私たちの資金と物資を完全に断つ、経済の兵糧攻めを仕掛けてきたのだ。
加速器組み立て用の部品はおろか、明日の食料すら買えなくなる。
最強の暗殺部隊を退けた直後、私たちは国家権力による絶対的な暴力である経済封鎖という、かつてない絶体絶命の窮地に立たされていた。
(続く)









