第43話:見えざる刃
夜の闇に沈む第4廃校舎の研究室。
静寂を破る音など一切なかった。ただ、極限まで研ぎ澄まされた純粋な殺意だけが、ぬるりとした冷気となって私たちの肌を撫でた。
教団の暗殺部隊『静寂の刃』。黒装束に身を包んだ彼らは、まるで闇そのものが実体を持ったかのように、一切の予備動作なく私たちへと襲い掛かってきた。
「…………っ!」
私は即座に視覚を切り替え、空間に満ちる金色の糸を捉えた。先頭を走る三人の足元の座標をピンポイントで指定し、重力定数を局所的に引き上げてその場に押し潰そうとする。
だが、私の眼の前で、あり得ない現象が起きた。
私が重力の糸を操作して魔法を発動する数秒前には、彼らは既に重力異常が発生する座標から、まるで散歩でもするかのように滑らかなステップで安全圏へと踏み出していたのだ。
魔法が躱されたのではない。魔法を撃つことすら、事前に見透かされていた。
「くそっ!剣がねぇ!」
咄嗟に反撃に出ようとしたリックが腰を探るが、彼の愛用していたファイン・セラミックスの剣は、奈落の底でサイクロプス号の残骸と共に燃え尽きてしまっている。
「おいレイ!あのアル、アモ……なんだっけ、とりあえずあのナイフ貸してくれ!」
私が白衣のポケットから素早く投げ渡したアモルファス合金製のナイフを空中で掴み取り、リックが獣のような雄叫びを上げて先頭の暗殺者へと斬りかかる。
商人の息子でしかないリックに、洗練された剣術などあるはずもない。しかし、素人の喧嘩殺法だが、こと体術においては眼を見張るものがものがある。
だが、暗殺者たちはそのリックのフェイントを織り交ぜた一撃すらも、まるで止まっている案山子を避けるかのように、紙一重の最小動作で躱してみせた。リックの筋力やナイフの軌道、さらには空気抵抗によるタイムラグすらも完全に計算し尽くしている動きだ。
そのままリックの死角へ回り込み、黒塗りの短剣が一切の迷いなく彼の急所を狙い撃ってくる。
「うおおっ!?なんだこいつら、全部見透かしてやがる!」
リックが間一髪で体を捻って致命傷を避けるが、頬を浅く切り裂かれ、ツーッと赤い線が走る。
おかしい。私たちの攻撃が、まるで台本を読まれているかのようにすべて事前に対応されている。
「駄目だ!彼らはただの訓練された暗殺者じゃない。外部から強力な演算支援を受けている!」
ボブが顔に滝のような汗を浮かべながら、自身の魔法である多世界解釈の並列演算をフル稼働させて叫んだ。
彼の腕の中で、分厚い魔導書のページが猛烈な風に煽られたようにバタバタと音を立ててめくれ続けている。
「彼らの脳は教団のネットワーク、おそらくラプラス枢機卿の演算と直接繋がり、リアルタイムで未来予知の共有を受けているんだ!」
ボブの解析結果を聞き、私は背筋が凍るような、それでいてひどく知的な興奮を覚えた。
現在の全原子の位置と運動量を完全に把握し、古典力学的に未来を完全予測する決定論的システム。
それはかつて地球の物理学者が提唱し、量子力学の台頭によって否定された思考実験の極致。
すなわち、ラプラスの悪魔だ。
「僕が並列演算で、奴らの予測を上回る最適な回避ルートを弾き出す!」
ボブは眼鏡を光らせ、無数の分岐世界を同時にシミュレーションし始めた。
私たちが右へ避ける未来、左へ反撃する未来、防御に徹する未来。ありとあらゆる可能性の枝葉を伸ばし、生存のルートを模索する。
しかし、数秒後。
ボブは絶望に満ちた声で呻き、ガクンと膝を突いた。
「……無理だ。どれだけ並列処理で可能性を探っても、すべてのルートが『死』という結果に収束してしまう!」
「どういうことだ、ボブ!」
リックが血の滲む頬を拭いながら叫ぶ。
「ラプラスの悪魔が初期条件から導き出す、唯一絶対の未来の精度が極めて高いんだ!僕がどの可能性を選択して行動しようと、その行動の起点すらも計算の範疇に収められていて、完全に先回りされてしまう!」
多世界解釈による無数の可能性を、ただ一つの絶対的な決定論が完全に封殺していく。
並列演算の処理限界に追い込まれ、ボブが顔を歪めてガクリと膝をつく。
暗殺者たちの刃が、無駄の一切ない最適化された完璧な軌道で、今度は私の首筋へと音もなく迫ってくる。
死の未来は確定し、回避する術は存在しない。物理法則の枠内にいる限り、この決定論を覆すことは不可能だ。
だが、絶体絶命の状況下にあっても、私は不思議なほど冷静だった。
目前に迫る黒塗りの短剣の軌道を見つめながら、私は彼らの機械的に最適化された動きの弱点を論理的に導き出していた。
「……古典的な決定論に依存した計算高いシステムほど、予測不能なノイズ、つまり致命的なバグに弱いものだ」
私は回避も防御も放棄し、背後で怯えていたアリスの両肩を強く掴んだ。
そのまま彼女の華奢な体を、迫り来る暗殺者たちと私の間、すなわち最前列へと力強く押し出す。
「ひゃうっ!?れ、レイ様!?なんで私を……!?」
突然前に突き出され、涙目で震えるアリス。
私はその背中越しに、決定された未来を粉砕するための冷酷な指示を飛ばした。
「盾じゃない。お前が最悪のマルウェアだ。お前の不確定性魔法で、奴らの綺麗な計算式をメチャクチャにぶっ壊してこい」
「えええっ!?そ、そんなこと言われても、私、魔法のコントロールなんて……!」
「だからいいんだ!シュレディンガーの猫、全開で暴れろ!」
ラプラスの悪魔が描く完璧な決定論に対し、私がぶつけたのは、宇宙で最も計算不能なヒロインによる量子的な確率論だった。
完璧な暗殺部隊の刃がアリスに届く直前、彼女の左右で色が違うオッドアイが、暗闇の中でカッと怪しく光を放った。
(続く)









