第33話 異世界の星空
奈落の入り口まであとわずかの距離に迫った荒野。
私たちは馬車を止め、最後の野営を行っていた。
焚き火のパチパチとはぜる音が響く中、リックは早々にいびきをかいて眠りこけ、ボブはランタンの明かりで魔導書をめくっている。
私は少し離れた岩場に腰を下ろし、手作りの天体望遠鏡を夜空に向けていた。珪砂から精製した高純度のガラスレンズを組み合わせた代物だ。
「レイ様……まだ起きているんですか?」
背後から、毛布を羽織ったアリスが小走りで近づいてきた。
いよいよ明日から未知のデス・ゾーンへ潜るというプレッシャーからか、その足取りはどこか落ち着かない。
「ああ。この世界の星空のデータを取っておきたくてね」
「レイ様の故郷の星は、ここから見えるんですか?」
アリスの問いに、私は望遠鏡から目を離し、夜空を見上げた。
「残念ながら見えないよ。星座の配置が、僕の知っている地球の夜空とは全く違う。北極星もオリオン座もない。僕の故郷は、絶望的なほど遠い場所にあるらしい」
「絶望的、ですか……」
アリスがふいっと俯き、毛布をきゅっと握りしめる。
彼女の不確定なマナが、不安に呼応するように微かに揺らいでいるのが見えた。
「……アリス、ちょっとここを覗いてごらん」
私は望遠鏡の接眼レンズを指差した。
「え?は、はい」
アリスが恐る恐る顔を近づける。
私は彼女の背後に立ち、望遠鏡の筒に手を添えて角度を微調整した。
「もう少し右だ。焦点を合わせるから、動かないで」
「ひゃうっ……ち、近いですレイ様……!」
アリスの肩がビクッと跳ねた。
私の顔が彼女の頬のすぐそばにあるせいか、彼女の体温が急上昇し、耳まで真っ赤に染まっているのが夜の闇でもはっきりと分かった。彼女の不確定性魔法が、ラブコメ的な意味で暴走し始めているが、私は気にせずに続ける。
「落ち着け。星の光の『色』を見るんだ。分光器を通しているから、光が虹色に分解されているのが分かるだろう?」
「あ……はい。なんだか、全体的に少し赤っぽく見えます」
「その通り。よく観測できているぞ」
私はアリスから少し離れ、地面の砂に木の枝で数式を書きなぐった。
Z=(Observed-Base)/Base
「これは赤方偏移を求める式だ」
「おぶざーぶど……?」
「Observedは『観測された光』、Baseは『本来の光』だ。引き算をして元の数値で割ることで、光がどれくらいズレているか(Z)が分かる」
私は夜空を指差した。
「遠ざかる星の光は、波長が引き伸ばされて赤い方へずれて見える。この宇宙が膨張しているという、物理法則が完璧に機能している証拠だ」
「宇宙が、膨張……?」
「ああ。星の配置が違っても、光の速度も空間の膨張も、地球と全く同じルールで動いている。ここは魔法に支配された別次元なんかじゃない。僕の故郷から途方もなく離れただけの、同じ宇宙の一部だ」
私の声を聞きつけ、ボブも魔導書を閉じて近づいてきた。
「つまり、ここは地続きの現実だと言いたいんだね」
「その通りだ。神の奇跡も魔物の呪いも、すべて計算可能な物理現象の枠内に収まっている。僕たちの武器は、奈落の底でも必ず通用する」
私はアリスの頭にポンと手を置いた。
「だから安心しろ。不確定な未来でも、僕がしっかり観測してやる」
「レイ様……っ!」
アリスの瞳にパァッと光が宿り、不安げな揺らぎが完全に消え去った。
彼女は両手で頬を包み込み、えへへとだらしない笑顔を浮かべている。精神的支柱としては十分に機能したようだ。
そして夜が明け、私たちはついにすり鉢状の巨大な縦穴、奈落の縁へと到着した。
眼下に広がる漆黒の闇を見下ろした瞬間、私の視界に信じられない光景が飛び込んできた。
量子もつれの糸が、底から上空へ向かって凄まじい勢いで吹き上げている。
「マナが溜まっているんじゃない。底から吐き出されているんだ」
「どういうことだい、レイ君?」
ボブが眼鏡を押し上げる。
「ここは、ブラックホールに吸い込まれたエネルギーの出口……ホワイトホールだ」
世界の裏側とも言える特異点の実態を前に、私たちは決意と共に一歩を踏み出した。
(続く)









