第32話 運動量保存則の盾
拠点街を出発し、私たちはさらに険しい山脈の奥地へと馬車を進めていた。
S級冒険者たちから譲り受けた奈落のマップによれば、この峡谷を抜けた先に大迷宮の入り口があるはずだ。
リックが御者台で手綱を握り、私とアリス、ボブは荷台で作戦会議を行っていた。
「上層から中層にかけては、重力異常地帯が広がっているらしい。アリスは風の指向性を維持することに集中してくれ。ボブは常に空間の歪みを演算し、安全なルートをナビゲートするんだ」
「了解したよ。でもレイ君、ダンジョンの心配をする前に、まずは目の前の厄介事を片付けた方が良さそうだよ」
ボブが魔導書から顔を上げ、眼鏡の奥で目を細めた。
彼の多世界解釈による演算が、数秒先の未来を捉えたのだ。
「……上だ。右の崖上から来るよ」
ボブの警告とほぼ同時だった。
「ひぃっ!?なんだっ!?」
御者台のリックが悲鳴を上げた。
空気を裂く鋭い風切り音が響き、馬車の周囲の地面に無数の矢が突き刺さった。
「野盗か!?こんな所にまで出やがるのかよ!」
「止まるなリック!馬車を止めれば完全な的になる。等速直線運動を維持して駆け抜けろ!」
私は立ち上がり、崖の上を見上げた。
岩陰に身を隠し、クロスボウのような武器を構えた黒ずくめの男たちが十数人、こちらに狙いを定めている。ただの野盗ではない。統率の取れた動き、殺意の向け方。訓練された暗殺部隊だ。
「レイ様!迎撃しますか!?」
アリスが八木・アンテナ杖を構える。
私は首を振った。
「いや、僕たちの魔力は極力温存するんだ。彼ら自身の力を利用させてもらおう。ボブ、矢の軌道と着弾座標をすべて予測しろ!」
「終わっているよ。次の斉射、馬車の中心座標に向けて三十本の矢が同時に着弾する。到達まで残り三秒」
「よし。アリス、ボブの指定した座標の空中に、風の防壁を展開しろ。ただし、矢を『止める』んじゃない」
私はアリスの背中に手を当て、空間の密度を調整する補助を行った。
「風の壁をトランポリンのように張るんだ。入射してくる矢の運動量ベクトルを、弾性衝突によって180度反転させる。撃ち込まれた力を、そのままの速度でお返ししてやれ」
「は、はいっ!空気の壁、展開します!」
アリスが杖を振るうと、馬車の頭上に局所的な高気圧のドームが形成された。
直後、崖の上から放たれた三十本の矢が、一斉にアリスの防壁に激突した。
矢は風の壁に突き刺さることなく、弾けるような破裂音と共に、飛んできた時と全く同じ速度で崖の上へと逆流していった。
頭上からくぐもった悲鳴が降り注ぐ。自分たちが放った矢によって、暗殺者たちが次々と崖から転落していく。
「すごい……!本当に跳ね返りました!」
アリスが驚きの声を上げるが、全てを弾き返せたわけではない。
数本の矢が防壁の端をすり抜け、御者台のリックへと迫っていた。
「リック!防壁から漏れた矢は、お前のセラミック装備で弾き落とせ!だが正面から受けるな!」
私は御者台に向かって叫んだ。
「剣の腹を、矢の軌道に対して30度の浅い角度で傾けて置くんだ!摩擦ゼロのセラミック表面で矢を滑らせて、運動エネルギーを逸らすんだよ!」
「さ、30度!?」
「そうだ!客の理不尽な値引き要求やクレームを、のらりくらりと右から左へ受け流す時の要領だ!まともに相手にするな!」
「おう!クレーム処理なら任せとけ!」
リックがニヤリと笑い、セラミック・コーティングされた剣を斜めに構えた。
迫り来る矢が剣の表面に接触する。
通常なら刃こぼれするか、衝撃で腕が痺れるところだが、30度の浅い入射角と摩擦係数ゼロの表面により、矢はツルリと滑って軌道を変え、明後日の方向へと飛んでいった。
「っしゃあ!ざっとこんなもんだ!」
リックが得意げに叫ぶ。
私の指揮と仲間の連携により、馬車は無傷のまま峡谷の包囲網を突破した。
背後には、自滅して呻き声を上げる暗殺者たちだけが残された。
峡谷を抜け、安全圏に達したところで馬車を止めた。
リックが崖から転落して気絶している襲撃者の一人を引きずってきて、その懐を探った。
「おいレイ、こいつらただの盗賊じゃねぇぞ。見ろよこれ」
リックが放り投げたのは、一枚の金貨だった。
だが、流通している通常のプランク貨ではない。表面に複雑な幾何学模様が刻まれた、エーテル教団の聖印入り金貨だ。
「……教団の手の者か」
私はその金貨を拾い上げ、冷ややかに見つめた。
異端審問の段階はとうに過ぎている。彼らは明確な殺意を持って、私たちを物理的に排除しようとしているのだ。
「どうやら、僕たちの暗殺依頼が裏社会に出回っているらしい」
「最悪だね。奈落の魔物だけじゃなく、背後からの刺客にも警戒しなきゃならないなんて」
ボブがため息をつく。
「構わないさ。物理法則は、魔物にも狂信者にも平等に働く。計算通りに処理するだけだ」
私は金貨を工具袋に放り込み、前方を見据えた。
地平線の先に、巨大なすり鉢状のクレーターのようなものが見え始めている。
いよいよ、世界の深淵への入り口だ。
(続く)









