じいちゃんが子供の頃の話:村上春樹風 reated by ChatGPT
「ねえ、じいちゃん、じいちゃん」
「うん?」
「昔の話、してよ」
「突然どうした?」
「学校の宿題でね、お父さんとお母さんの子供のころの話を聞いてこいって」
「なるほど。それで聞いたのかい?」
「うん。でも二人ともスマホもパソコンもあったって言うし、今と大して変わらなくて、なんかつまんないんだよね」
「それで僕に頼んできたってわけだ」
「うん。お母さんが、じいちゃんの子供のころは今とぜんぜん違ってたって言ってた」
「まあ、違ってたね。そういえば、昔、お前のお父さんが同じような宿題を持ってきたことがあったよ。僕が話してやったら、椅子から転げ落ちそうなくらい仰天していたな」
「ぎょうてん?」
「びっくり、ってことさ」
「そっか」
それで、僕は昔話を始めることにした。
思い出というのは、いつも静かに、けれども確かに時の底から浮かび上がってくるものだ。
まずは電話の話から始めようか。お前が言ってたスマホとは、まあ対極にある存在だね。
僕の実家の玄関の脇に、農協電話ってやつがあった。真っ黒で重たいやつだ。横に小さなハンドルが付いていて、それをぐるぐる回すと「交換手のお姉さん」が出る。「どちらにおつなぎしましょうか?」ってね。電話番号は4桁。局番なんて気の利いたものはなかった。たとえば近所の雑貨屋は、番号が「1」だった。
お姉さんは、まるで古いアナログ・シンセサイザーみたいなスイッチボードで、こちらと相手を繋いでくれる。それがどんな機械だったのか僕にはわからない。音楽を鳴らす代わりに、人の声をつないでいたってわけだ。
110番や119番がその頃どう機能していたかは、正直言って僕にもよくわからない。
パソコンの話?
ないよ。存在しなかった。パーソナル・コンピューターという概念自体がなかった。だから代わりにテレビの話をしよう。
昔のテレビはね、今みたいにペラペラじゃなかった。厚かった。頑丈だった。重たかった。そして、足が4本付いていた。まるで家具だった。画面は観音開きの扉の奥にあって、しかもその扉には布が貼ってあった。
ブラウン管って知ってる? それで映してたんだ。最初は白黒だった。東京オリンピックの頃から、カラー放送が始まったらしい。1964年。でも我が家にカラーが来たのは、たぶんそれよりずっと後だったと思う。
テレビのチャンネルは「回す」ものだった。ダイヤル式で、カチカチ音がした。あとで「ボタン式」が登場して、「すごい!」と思ったけど、まだリモコンはなかった。
僕の家では「コンバーター」っていう外付けの機械があって、テレビ本体のチャンネルは使わなかった。お弁当箱みたいなやつで、つまみをくるくる回してチャンネルを変える。意味はよくわからなかったけど、きっと田舎だから電波が弱かったんだろう。
風呂もずいぶん違ってた。外にある焚口に薪をくべて、湯を沸かしていた。五右衛門ぶろではなかったけど、近いものはあったかもしれない。
風呂場はタイル張りで、床は小さな丸いタイル、壁は大きな四角いタイル。浴槽は細かいタイルでできていて、焚口からの熱い湯が、壁の下の方からじんわりと出てくる。
水は井戸水だった。ポンプがついていて、蛇口をひねると「ウィーン」と音がして水が出てきた。冬は温かくて、夏は冷たかった。スイカを冷やすのには最高だったし、その水はほんとうに美味しかった。
ご飯を炊く場所には「おくどうさん」と呼ばれる竈が3つ並んでいた。時代劇に出てくるのと同じだ。燃料はやっぱり薪だった。
炊事場の床は土間で、片隅には地下室につながる階段があった。普段は木の板で塞がれていて、子供が落ちないようにしていた。地下室は自然採光で、奥の方は暗かったから、あまり使われていなかった。
かわりに、ちいさな蔵があった。梅干しや沢庵はそこに置かれていた。味噌や醤油はさすがに自作していなかった。僕の家は農家じゃなかったから。
洗濯機も今とちょっと違ってた。形は似ていたけれど、脱水はローラー式だった。洗濯物をローラーに挟んで、ハンドルをくるくる回して絞る。子供の僕にとっては、ちょっとしたアトラクションみたいだった。
バスは「ボンネットバス」だった。知ってるかい?
そう、君が好きなあのアニメに出てくる「猫バス」みたいな形をしてた。
床は木製で、運転席のすぐ後ろの席が僕のお気に入りだった。というのも、方向指示器が見えたからだ。今みたいな黄色いランプじゃなくて、赤くて細長い「靴べら」みたいなのが、ペロンと横に飛び出す。それが、妙に好きだった。
子供心に、それをつかまえようとして、母親に叱られたこともある。
原付――原動機付き自転車――ってのも、今とは違っていた。今の原付は小さなバイクのような形をしてるけれど、昔はほんとうに自転車にエンジンを後付けしていた。ペダルもついていたし、見た目はほぼ自転車だった。
教室の床が板張りだった時代、僕たちは糸の先に磁石をつけて、木のすき間に落としこんで金属片を釣って遊んだ。特に意味はなかったけど、なんとなく楽しかった。
今では見かけないけれど、昔は国民の休日には、玄関先に日の丸の旗を掲げるのが普通だった。家族の中で誰かがちゃんと旗を出して、それが終わったら丁寧にたたんでしまう。そういう静かな習慣があった。
だいたいそんなところかな。
面白かったかい?