落語声劇「ねずみ」
落語声劇「ねずみ」
台本化:霧夜シオン@吟醸亭喃咄
所要時間:約30分
必要演者数:最低4名
(0:0:4)
(4:0:0)
※当台本は落語を声劇台本として書き起こしたものです。
よって性別は全て不問とさせていただきます。
(創作落語や合作などの落語声劇台本はその限りではありません。)
※当台本は元となった落語を声劇として成立させるために大筋は元の作品
に沿っていますが、セリフの追加及び改変が随所にあります。
それでも良い方は演じてみていただければ幸いです。
●登場人物
左甚五郎:京都にて左官を朝廷から頂戴した当代一の大工・彫刻師。
1600年の20~30年前後に活躍した人物。
日光東照宮の眠り猫を彫るなど多くの逸話があるが、
歌舞伎や講談など、それらの逸話が独り歩きし、複数の人物像
が重なって左甚五郎という人物が生まれたのではないかという
説もある。
この噺の他にも「三井の大黒」、「竹の水仙」、「叩き蟹」
にも登場する。
政五郎:神田竪大工町の大工の棟梁。二代目。
甚五郎が後見となっている。
鼠屋:鼠屋卯兵衛。本来ははす向かいの虎屋の亭主、虎屋卯兵衛だったが
、酔った客が暴れたのに巻き込まれ、腰を打って立てなくなってし
まう。
それから番頭と後妻のお紺に店は乗っ取られるわ、息子の卯之吉も
彼らのせいで辛い思いをしていたなど、弱り目に祟り目状態だった
が、甚五郎が泊まったことで潮目が良い方向に変わり始める。
卯之吉:鼠屋卯兵衛の息子。
十二歳ながら、親想いでとてもよく気の利く子供。
生駒屋:卯兵衛の家から四、五軒先の生駒屋の主。
卯兵衛とは幼いころからの喧嘩友達。
丑蔵:虎屋の番頭。卯兵衛の弱り目に付け込んで、虎屋を乗っ取ってし
まう。けど、悪い事は出来ないものである。
鼠:甚五郎が心魂込めて彫り上げた鼠。
動き回るし、話の最後だけだが喋る。
茂左衛門:仙台の民その1。
吾作:仙台の民その2。
語り:雰囲気を大事に。
●配役例
甚五郎・吾作:
鼠屋・鼠:
卯之吉・丑蔵・政五郎:
生駒屋・茂左衛門・語り
※枕は誰かが適宜兼ねてください。
枕:世の中には、後世に名前を残したという方が数多くいらっしゃるよう
で。例えば自分で建てた寄席を自分で潰して名前を…これはちょっと
残し方が違いますけども。
大工さんの方で、それも彫り物・細工物の分野で名を残した方に、
ご案内の通り、甚五郎利勝と言う方がいらっしゃいます。
この方はたいそう旅好きだったそうでございます。
卯之吉:おじさん、あの、そこのおじさん!
甚五郎:なんだい坊や。
卯之吉:おじさんは旅の人ですか?
甚五郎:坊や、おじさんのこのなりをごらん。
手甲脚絆に草鞋履き、肩に小さな振り分け荷物。
おじさんは旅の者だよ。
卯之吉:そうですよね。
今晩は仙台にお泊まりですか?
甚五郎:うん、そのつもりだよ。
卯之吉:できたら、あたいの家に泊まってくれませんか?
甚五郎:坊やは宿の客引きさんかい?
卯之吉:そうじゃないんですけれど、おじさんが家に泊まってくれると、
あたいもおとっつぁんも大層助かるんです。
甚五郎:ふむ、どこへ泊まるのも同じだ。
まあこれもご縁だ。
じゃあ今夜一晩、坊やのところに厄介になろう。
卯之吉:ありがとうございます!
ただ…おじさん、あの、家は汚いですよ。
甚五郎:あぁ、家なんざ汚くったって構わないよ。
旅をしてるとな、たまに野宿という事もある。
雨露がしのげればそれでいいよ。
卯之吉:あの…部屋も狭いんです。
甚五郎:あぁ、部屋なんぞ狭くったって構わないよ。
立って半畳、寝て一畳だ。
今さっきも言った、雨露さえしのげりゃそれでいいよ。
卯之吉:あ!それと…おじさんは夜寝る時、布団を使いますか?
甚五郎:坊やは時々、妙な事を言うな。
人間、寝る時に布団を引いたり掛けたりするな。
卯之吉:じゃあ、すいませんけども先に、二十文だけくれませんか?
甚五郎:うん?二十文だけ前払いかい?
卯之吉:そうじゃないんです。
布団屋さんに借りがあるんです。
だからお足を持っていかないと、布団が借りられないんです。
おじさん風邪を引きたくなかったら、二十文出した方が身の為で
す。
甚五郎:なるほど、これは面白いな。
坊やはものをはっきり言う正直者だ。
二十文でいいのかい?
よし、ちょいと待ってな。
【二拍】
さ、坊や、二十文渡すから、これで布団屋さんへ行ってきておく
れ。頼んだよ。
卯之吉:どうもすいません。
それからですね、おじさんを家へ案内してから布団屋さんへ行く
と遅くなってしまって、良い布団が借りられないんです。
すいませんけれども、一足先に行っててくれませんか?
場所はすぐにわかりますから。
甚五郎:そうか、じゃあどう行けばいいかな?
卯之吉:この街道をまっすぐ行きますと、すぐに宿場に入ります。
入ったら右側を見てってください。宿場の中ほどで虎屋と言う、
大きな旅籠があるんです。
甚五郎:ほう、宿場の中ほどで虎屋さんか。
そこが坊やの家かい?
卯之吉:…ううん、あたいのうちは、そのはす向かいの鼠屋って言うんで
す。
もう小さいから、気を付けて見てったって見落とす家なんです。
こないだこれだけ教えても松前藩のあたりまで行った人がいるん
です。
だからその、虎屋さんを目当てに行ってください。
甚五郎:そうか、虎屋さんのはす向かいで鼠屋さんか、よしわかった。
じゃ、おじさんは一足先に行ってるから、布団屋さんの方を頼ん
だよ。
語り:「旅人は 雪呉竹の 村雀 止まりては発ち 止まりては発ち」
と言う事を申します。
現代の旅行と違いまして、昔の旅で頼るものと言えば己の足一つ、
苦しい事があった半面、風情もあったようでございます。
甚五郎:はぁ~、さすがに伊達様の仙台六十二万石のご城下だ。
たいそうなご繁盛ぶりだな。
たしか、宿場の中ほどで右側…あぁこれかい、虎屋さんてのは。
ほお…立派な建物だ。
誰が建てたか知らないが、腕のいい大工がいるんだな。
江戸へ持ってきても、こらぁ決して引けを取らないぞ。
いや、立派なものだ。
そうそう、このはす向かいと言ってたな。
鼠屋……これかい…?なるほど小さな家だ。
名は体を表すとはうまい事を言ったもんだよ。
鼠は鼠でもこれはハツカネズミだろうな。いや面白い。
…ごめんくださいよ。
鼠屋:おいでなさいまし!
おぉ、お客様でいらっしゃいますか!
ようこそおいでをいただきまして…!
すぐにおすすぎのお支度なぞをしなくてはならないのですが…
あいにく手前、腰が抜けてて立てませんでして。
甚五郎:なんだい、話の分かる大人は腰が抜けてるのかい。
鼠屋:恐れ入りますが、裏に小さな川が流れております。
そこでひとつ、お御足などを洗っていただきとう存じます。
手桶も、履き替えの下駄も揃えてございますんで。
甚五郎:ご亭主、履き替えの下駄ってのはこれかい?
片っぽの鼻緒が切れてんね。
鼠屋:でしたら片っぽでぴょんぴょん飛んでいただいて…
甚五郎:まるで兎だね。
まぁ分かったよ。
【二拍】
あぁ実に良い心持ちだった。
いや、ご亭主の前だけどね、湯だか水だか分からないようなもの
で足を洗ったり手を洗ったりするよりも、ああいう冷たくて綺麗な
水で洗った方が、その日の疲れがスーッと抜けていくような気が
するよ。それにしても綺麗な川だね。
鼠屋:ありがとう存じます。
広瀬川に流れが落ち込んでおりまして、
朝夕の間詰め刻には、ヤマメの影が走る川でございます。
甚五郎:そうか、道理で綺麗だと思ったよ。
ああいう所の方が、洗うのに気持ちがいい。
卯之吉:あ、おじさん、間違えずに着いてますね。
甚五郎:おぉ坊やか。
布団屋へ行ってきてくれたかい、ご苦労様。
卯之吉:…あのですね、おじさん。
これから夕餉の支度をすると遅くなりますから、お寿司でも買っ
てきましょうか?
甚五郎:寿司か。
たまにはいいだろう、頼もうか。
卯之吉:五人前も頼みましょうか?
甚五郎:いや、おじさん一人でそんなに食べられない。
まぁ、一人前というのもなんだからな、二人前取って来てもらお
うか。
卯之吉:実は…あたいもおとっつぁんも寿司は大好きなんです。
甚五郎:…そうか。
じゃあ坊や、おじさんの紙入れを渡すから、これを持ってって
好きなだけお寿司を買って来るといい。
それからな、他に坊やの好きなものがあったら、
買って来てもかまわないぞ。
卯之吉:えっ、い、いいんですか!?
甚五郎:いいから行ってきなさい。
あ、それから済まないがな、帰りに酒屋さんへ寄って、
酒を二升買ってきておくれ。
卯之吉:あの、あたいもおとっつぁんも酒は呑まないんです。
甚五郎:いや、お前達に呑ませるんじゃない。
おじさんが呑むんだ。
それじゃ、頼んだよ。
卯之吉:はい、行ってきます!
【二拍】
甚五郎:ご亭主、元気な倅さんだね。
いくつだい?
鼠屋:はい、十二才になりましてございます。
甚五郎:まぁ…旅の風来坊がこんな事を言うのは失礼かもしれないが、
ご亭主がその身体、跡を取る倅さんが十二。
せめて女中の一人も置いた方が、商売しやすいんじゃないのかい?
鼠屋:おっしゃる通りではございますが、これには深いわけがございまし
て。
初めてのお客様にこのような事を話すのは何でございますが、
支度ができるまでの年寄りの愚痴、独り言だと思ってお耳だけでも
お貸しを願いとう存じます。
何を隠しましょう。手前、元は前の虎屋の主でございました。
甚五郎:えっ、ご亭主が、あの、虎屋の?
鼠屋:はい。
申し遅れました、手前、卯兵衛と申します。
早くに女房に死に別れまして、後添えを持ったらどうかと
人に勧められました。
あちらこちらとあたるも帯に短したすきに長し、なかなか良い方に
お目にかかる事ができませんでした。
その当時、手前どもの店でお紺と言う女中頭がおりました。
これを後添えに迎え、手前はほっとしておりましたが…
…あれは、三年前の七夕の晩でございました。
失礼ですが、お客様は仙台の七夕をご存じでいらっしゃいますか?
もう大変な賑わいでございまして、この時期の前後は旅のお客様に
土地のお方で、どこもかしこも大入り満員になりますので。
手前どもも朝から上を下への大騒ぎをしておりましたが、夜に
二階のお客様同士がお酒の上から喧嘩を始めました。
甚五郎:【つぶやくように】
酒の喧嘩ねえ、だから静かじゃない宿は嫌いなんだ。
鼠屋:どちらにお怪我があってもいけませんで、手前が止めに入りました
。
一生懸命に止めておりましたがどなたに突かれたか、ダーンと胸を
突かれて二階からはしご段を下までもんどりうって落ちました。
腰をしたたかに土間に打ち付けてしまい、すぐに帳場の脇に布団を
ひいてもらって手当てをしたのですが、いっこうに良くなりません
でした。
動けない手前の代わりにお紺が一生懸命やってくれまして、
その間、あっちの医者にこっちの薬、しまいに加持祈祷まで
いたしましたが、それでも治りませんでした。
手前の家から四、五軒先に生駒屋という家がございます。
ここの主と手前は子供の家からの喧嘩友達でございまして、
それである日の事、生駒屋が手前どものところへ血相変えて
飛び込んで参りました。
生駒屋:おい卯兵衛、お前が二階から落ちて腰打って、立てなくなったの
は知っている。
けどな、目ん玉まで節穴になってしまったのか?
自分の可愛い倅の身体をいっぺんでも見てやったことがあるのか
、このバカ野郎ッ!
鼠屋:そう手前を怒鳴りつけて表へ飛び出していきました。
はて、妙な事を言うぞと気になっております所へ、倅が手習いから
戻って参りましたので、これ倅、おとっつぁんの前で着物を脱いで
みろと、そう言いました。
するともじもじもじもじしておりますので、何をぐずぐずしている
んだ、早く着物を脱がないかと強く責めたんでございます。
するとしぶしぶ着物を脱ぎましたが、なんと身体じゅう生傷だらけ
、手前は仰天しました。
わけを聞いたのですが、
卯之吉:近所の子供と喧嘩してできたんだ。
鼠屋:としか言いません。
しかしどう見ても子供同士の喧嘩でできる傷ではない。
バカを言うんじゃない、正直に言わないか!そう責めました。
すると倅は、
卯之吉:うっ、うぅっ…うわぁぁぁーーーん!!!
鼠屋:手前の首にかじりつくといきなり泣き出したんでございます。
卯之吉:おとっつぁん、おっかさんはなぜ死んだんだい!
鼠屋:そう言われました時に、手前はハッと目が覚めたんでございます。
あぁえらい事をした、こりゃきっとお紺の継母いじめだ。
自分の事ばかり考えていて、可愛い倅の事を
なに一つ考えてやらなかったと。
すぐに番頭丑蔵という者を呼びまして、
我々親子は前の物置へ移るからと、そう告げたんでございます。
番頭も、
丑蔵:連日連夜お客様が大入り満員、たとえ一部屋でも多く使いたいとこ
ろでございました。
旦那様がその気でしたら、さっそく物置を掃除して、中を整えまし
ょう。
鼠屋:そうして手前と倅は、それまで物置だったここへ
移ったんでございます。
三度三度の食事は前の虎屋から運ばせておりましたが、
三度のものが二度になり、二度のものが一度になり、しまいには
いっぺんも届かなくなりました。
倅を取りに行かせますと、
丑蔵:なに、飯?
客が立て込んで忙しいさなかに、病人の面倒なぞ見ていられるかッ
!!
鼠屋:そう言って倅の頭を殴ったとか。
…腹が立ちました。
腹が立ちましたが、腰が立ちませんでした…。
我慢をいたしておりますと、生駒屋がこれを聞いたのでございまし
ょう。
我々親子の面倒を見てくれたんでございます。
ところがある日の事、また生駒屋が血相変えてやってきて、
生駒屋:おい卯兵衛、お前いつの間に虎屋を番頭の丑蔵に譲ったんだ!?
鼠屋:そう言うんでございます。
いや、そんなバカな事をした覚えはない!
そう手前が言いますと、
生駒屋:俺はな、あいつのやり口があんまりひどすぎるんで、
店に怒鳴り込んでいったんだ。
そしたらあの野郎、なんて言ったと思う?
丑蔵:【嫌味たっぷり煽るように】
生駒屋さん、手前どもと前の虎屋の主とは、
もう何の関わり合いもございません。
どうぞ、これをご覧ください。
生駒屋:そう言って見せられたのが店の譲り渡しの証文だ。
卯兵衛お前、印形をどうした?
鼠屋:!しまった、お紺に預けっぱなしだった…!!
ああ、もう後の祭りだ…。
生駒屋:お紺と丑蔵が企んでのっとってしまったってことだな。
それだけじゃねえ。
こんな話をお前の耳に入れたかねえが、あの二人は最初から
デキてたんだ。ただお前が見て見ねえふりをしているんだと
思ってた。
そしてお紺に後添えの白羽の矢が立って、丑蔵はあの通りだ、
お紺の引き袖を引いた。最初はお紺も袖にしていたが、
お前が二階から落っこって腰が抜けてしまったら、
男と女、やけぼっくいに火がついちまった。
お前の印形が捺してある以上、役人に訴え出てもどうにもなら
ねえ。
どうする?
鼠屋:……。
生駒屋の…すまねえが、卯之吉を引き取ってくれねえか…?
生駒屋:…お前、良からぬ事を考えてるな?
バカな事はするな。死んで花実は咲かねえぞ。
卯兵衛、この浮世、悪い事ばかりじゃない。
必ず良い事があるから、決して短気な真似はするなよ。
お前達の面倒は俺が見るからな。
鼠屋:それからも生駒屋の恩情にすがっておりました。
ですが倅が申しますのには、
卯之吉:おとっつぁん、ただこうやって食べ物を恵んでもらっていたので
は犬猫同然、狭くて汚いとこだけど、上に二間、下に二間の部屋
がある。
たとえ一人でもお二人でもお客様が泊まってくれたら、
おとっつぁんが食うには困らないから。
鼠屋:倅はそう言ってそれから宿場外れに出まして、
お客様方にご迷惑をお掛けしていると、こういったような次第で
ございまして。
甚五郎:うーむ、世の中には酷い奴があるものだ。
時にご亭主、この鼠屋と言う屋号はどこから付けたんだい?
鼠屋:はい、前の虎屋は番頭の丑蔵に乗っ取られました。
ここは物置でございましたんで、鼠が沢山住んでおりました。
手前と倅がその鼠から、ここを乗っ取ったような具合になりました
ので、義理を立てまして鼠屋という名前にしたのでございます。
甚五郎:…なるほど、こらァ面白いな。
そうだ、どうだろう。
私がたとえ、一人でも二人でも多くのお客が泊まるように、
店の名前にちなんで鼠を一匹、彫ろうじゃないか。
鼠屋:えっ、お客様は彫り物をなさるので?
この仙台にも有名な彫り物の先生がいらっしゃいますが…、
あ、これは不調法いたしました。一人で喋っておりまして…。
お役所がやかましゅうございますんで、宿帳を付けさしていただ
きます。
どうぞ、ご生国とお名前だけでもお願いいたします。
甚五郎:お、そうかい。
じゃ、筆をーー
鼠屋:【↑の語尾に喰い気味に】
ぃいえいえ、手前、腰は立ちませんが筆は立ちますので。
大丈夫でございます。
では、お聞かせくださいまし。
甚五郎:生まれは飛騨だね。
鼠屋:えっ、では飛騨からこの奥州へ?
甚五郎:いや、そうじゃないんだ。
もうだいぶ前に江戸に出ててね、そこへは江戸は日本橋花町、
大工政五郎うち、甚五郎と記してくれればいいよ。
鼠屋:さようでございますか。
うち、甚五郎……。
あの、間違えましたらなにとぞご容赦のほどを。
飛騨の甚五郎様と言うと、あの高名な左甚五郎先生で…!?
甚五郎:いや、先生じゃない。普通の人間だ。ほっぽっといておくれよ。
それからご亭主のところに、木端はあるかい?
鼠屋:河童でございますか。
なんでも広瀬川の上流で出たという話がーー
甚五郎:ああいや、河童じゃない、木端、端な木れはあるかい?
鼠屋:はい、鼻紙でございましたらいくらでも。
甚五郎:いや鼻紙じゃない、端な切れ、柱や板の切れっ端だ。
鼠屋:ああ、それでしたら元が物置ですので、縁の下にいくらでもござい
ます。
甚五郎:そうかい、じゃ、二階をお借りするよ。
私はいま、無性にこしらえたいものがあるんだ。
夜っぴてやるからうるさいかもしれないが、そこは勘弁してくれ
。寿司やなんかはそっちで呑んで食ってくれて構わない。
ただ、誰も上がってこないようにしてくれ。いいかい?
鼠屋:わ、わかりました。
語り:金をいくら積まれても、気が乗らねば引き受けない。
甚五郎先生、コツコツカリカリコツコツカリカリ心魂傾けて、
明くる日の朝までに、小さな鼠一匹彫り上げました。
甚五郎:ご亭主、坊や、起きてるかい?
卯之吉:あ、おはようございます、おじさん。
鼠屋:どうも、おはようございます。
昨日はお休みにならなかったようでございますが…。
甚五郎:ああ、ちょいと一晩かけてね、こしらえ物をしてたんだ。
うるさくて眠れなかっただろう?
卯之吉:おじさん、あたい、あんなにお寿司食べたの初めてなんです。
あの、大人の言うこと合ってます。
お腹の皮が突っ張ったら目の皮がたるんだんです。
さっきまでずっと寝てました。
おとっつぁんも、おじさんが泊まってくれたのがうれしかった
みたいで、普段呑まないのに珍しくお酒を呑んでて、
さっきまで頭が痛い頭が痛いって言ってました。
甚五郎:ははは、そうかい。
実はね、こんな物をこしらえてみたんだ。
鼠屋:はぁぁこれは…小さくも可愛らしい鼠でございますな。
卯之吉:一晩かけてこれを作ったの?
甚五郎:この鼠を置き土産において行くよ。
鼠屋:えっ、名人のこしらえ物を、私どもにいただけるので…!?
甚五郎:鼠屋だから屋号にちなんで鼠をこしらえてみた。
それでな、ちょいと趣向があるんだ。
坊や、そこにあるタライ、使ってるのかい?
卯之吉:いいえ、使ってないですよ。
甚五郎:そうか、だったらそのタライを表へ出してな、何か台の上に
乗せるんだ。
あとご亭主、筆と硯を貸してくれ。
鼠屋:あの、書き物でしたら手前がーー
甚五郎:いや、私が書かなければならないから、こっちに貸しておくれ。
鼠屋:は、はぁ、わかりました。
どうぞ。
甚五郎:これこれこう書いて、と……。
鼠を入れて、上に竹の網をかぶせれば…
できた。
こっちの木札にはこれこう書いて、ぶる下げて…。
これでよし。
ご亭主、世話になったね。
ご縁があったら、また会いましょう。
鼠屋:もうお発ちですか?
どうも、ありがとうございました…!
道中、どうぞお気をつけてお出かけ下さいまし…!
卯之吉:おじさん、ありがとうございました!
語り:こうして甚五郎は親子に見送られ、鼠屋を後にしたのでございます
。
それから少ししたある日。
仙台の民達が世間話をしながら歩いていました。
吾作:おい、茂左衛門。
茂左衛門:なんだぁ、吾作。
吾作:ちょっくら鼠屋さんの前見ろ。
なんか木札が下がってるな。
茂左衛門:どれ…おぉ、確かに木札があるな。
売りに出たのかね?
吾作:いやぁ、若竹ではねえから売りには出ねえだろ。
茂左衛門:なにか書いてあるぞ。
なになに…甚五郎作・福鼠…?
吾作:甚五郎と言えば、あの有名な左甚五郎先生か?
茂左衛門:ここの家と関わりあるのかね?
吾作:ちょっくら聞いてみようか。
ごめんくださいよ。
鼠屋:おぉ、ご精が出ますな。
どうぞお入りください、お茶でも入れましょう。
茂左衛門:いやあ、そうもしていられねえんだ。
吾作:まだ野良仕事が残ってるからな。
茂左衛門:それで、表に甚五郎作・福鼠とあるけど、
なんだいありゃ。
鼠屋:実は、その名人甚五郎先生がお泊まりになって、
屋号にちなんだ鼠を彫ってくれたので。
吾作:あの名人がかい!?
へえぇ、たいしたもんだ!
茂左衛門:おめえが家の宝だなぁそれは。
見せてもらうわけにはいかないかい?
鼠屋:えぇいいですよ。
そこのタライの中に入ってますから。
吾作:そうかい。
見せてもらおう、名人の彫り物の出来の良さを。
茂左衛門:だなぁ、目の保養だ。
名人が彫った鼠だからな。
【二拍】
ほぉ~、いるよ。
木で彫った鼠だからな。鼠色ってわけにはいかねえけど、
鼠の色の違いが、出来の良し悪しの決定的差でないしな。
ちっけぇ鼠がタライの真ん中にちょこんと座ってるよ。
おもしれえな。
吾作:おお、可愛らしい鼠だな……ぁッ!!?
お、おぃッ!!
茂左衛門:なんだ吾作。
どうした?
吾作:【声を落として】
こ、これ見ろ。
この鼠、動くぞ…!
茂左衛門:バカ言うな。
木で彫った物が動くわけねえ。
首が変な向きをするもんだから、動いたように見えるんだろ。
どいてみろ、木で彫った鼠がーーー動くぞこいつ…!
吾作:はぁぁ、名人の彫り物は化け物か!?
茂左衛門:認めたくないもんだな。
自分自身の、勘違いゆえの過ちというものを。
吾作:あれ、タライの底にも何か書いてあるぞ。
なになに、「この鼠をご覧になった方は、旅の者土地の者を問わず
、この鼠屋にお泊まりを願いたい。甚五郎」
…茂左衛門、俺たち二人、今晩はここへ泊まらねえと駄目だ。
茂左衛門:冗談じゃないぞ。
泊まらなければ駄目だって言ったって、俺たちの家はここから
三町と離れてねえんだ。
吾作:いや、三町だろうが五町だろうが駄目だよ。
名人が見たら泊まれって、そう書いてあるんだから。
ご亭主、今晩二人で厄介になるから!
茂左衛門:はぁ、困ったな…。
鼠屋:ありがとう存じます!
どうぞ、ごゆっくりお過ごしください。
語り:またたく間に噂はパーっと広がり、お客がわんさと押し
掛ける。
ご案内の通り上が二間、下が二間しか無いのに、
鼠見たさに寿司詰めで、四十七人も泊まるのもザラです。
あげくには便所でもいいから泊めてくれ、なんてのが日常茶飯事
、それで裏の空き地にどんどん建て増し致しまして、
日一日と鼠屋は立派になるばかりでございました。
さらに悪事千里を走るとはよく言ったもの、虎屋の悪評も広まり
、それまで定宿にしていたお客もどんどん足が遠のき、
しまいにはぴたっと途絶えてしまう有様。
三十人からの奉公人を抱えていましたが、一人辞め、五人辞めして
、ついには丑蔵とお紺だけになってしまいました。
丑蔵:くそっ、なんでこんな事に…!
とにかく、あの動く鼠に負けないものが無いと…。
そうだ、仙台にも飯田丹下という有名な人がいるじゃないか。
虎屋の屋号にちなんで、でっかい虎を彫ってもらおう!
語り:身から出た錆という言葉がありますが、そういう人間に限って
腐れる己自身と漂う腐臭に気づかぬものでございます。
依頼を聞いた飯田丹下、初めは断わり気味であったが、相手が以前
御前勝負で敗れた左甚五郎と聞いて、考えを変えます。
かくして虎屋の二階に、二抱えもある立派な虎の彫り物が出現しま
した。ちょうど眼下に鼠屋を睨まえている格好です。
すると不思議な事に、その虎が据えられた日から甚五郎の彫った
鼠が、ぴたっと動かなくなってしまったのでございます。
卯之吉:おとっつぁん!おとっつぁん!
鼠屋:どうしたんだ、卯之吉。
卯之吉:おじさんの、おじさんの鼠が死んじゃった!
鼠屋:えッ、鼠が死んだ!!?
卯之吉:あぁっ!?
立った!
立った立った!おとっつぁんが、おとっつぁんが立った!
語り:実はとっくに腰は治っていた鼠屋卯兵衛。
ところが当人が立てないと思って立たなかったから立てなかったわ
けで、立とうと思って立ったら立ったという、舌を噛みそうな
ややこしい状態だったわけでございます。
とにかく卯兵衛親子、急いで事の次第を手紙にしたため、江戸へ
の飛脚に託します。
そしてやって参りました神田竪大工町、二代目政五郎宅。
政五郎:おじさん、仙台から飛脚が来てるぜ。
甚五郎:仙台…てことは、あの旅籠の親子かな?
…うん、そのようだね…って、なんだいこれは。
鼠屋:鼠の腰が抜けました。
私の腰が立ちました。
甚五郎:またおかしな書き出しだな…。
なになに、飯田丹下がこしらえた虎が、
虎屋の二階に据えられたら、鼠が動かなくなった…ふむ。
政五郎:どうするんだい、おじさん。
甚五郎:私の作ったものだからね。
出かける事にするよ。政坊も一緒に来るといい。
政五郎:おう、向こうの建物を見るいい機会だな。
語り:ということでさっそく、二人連れだって仙台までやって参りました。
ご城下までやってくると、向こうから誰かが甚五郎を呼びます。
卯之吉:おじさーん!おじさーん!
甚五郎:子供が呼んでるな。
誰だい!?
卯之吉:あたいです、卯之吉です!
甚五郎:!ああ坊やか!
しばらく見ないうちに大きくなったなぁ。
政坊、話していた鼠屋の倅の卯之吉だよ。
おとっつぁんは達者かい?
卯之吉:はい、おじさんがいつ来るんだろう、見てこい見てこいって、
いつもここへ立ってたんです。
甚五郎:そうかそうか、いま行くから先に戻って伝えててくれるかい。
卯之吉:はい!では一足お先に!
甚五郎:おぉい、あんまり急いで走るんじゃないよ…!
ははは、相変わらず元気な事だ。
それにしてもどうだい政坊、伊達様のご城下は。
立派なもんだろ。
政五郎:確かにだいぶ繁盛してるね。
あ、あれかい鼠屋ってのは。
ほぉ、いい塩梅の建物だ。
甚五郎:ああ。造作をして、離れもこさえてるよ。
いい繁盛ぶりだ。
ご亭主、いるかい?
鼠屋:ああ、こらぁ甚五郎先生!
来て下すって、ありがとう存じます!
甚五郎:久方ぶりだね…あぁいやいや、積もる話は後にしよう。
手紙は読んだよ。
さっそく見せてもらおうか、虎屋の二階の、虎の彫り物を。
鼠屋:は、はい、こちらへどうぞ。
…あれです、あの二階の虎です。
甚五郎:ほぉ、あれが飯田丹下の手になる虎か…。
……うーん、なるほどな…。
政坊、あの虎、あれをどう見る?
政五郎:え?どう思うってね…おじさんにはよく言われた。
本物を見とかなきゃいけねえぞって。
江戸近郊で本物と言われる物はずっと見てきて、
少ぉしは目が肥えた気がするんですがね。
あっしは大工だからこさえてみろってったってできやしねえが、
見るくらいならできるつもりだ。
話に聞く虎ってのは、獣の中じゃ一番強いってことになってる。
だいいち、年を取ってきてだんだん貫禄がついてくると、
頭のここんところに王の字の縞模様が出るって事を聞いてるよ。
けどあの虎にはそんな模様もねえし、何より眼が嫌だね。
甚五郎:眼?
政五郎:どうも恨みを持ってるような目つきをしてやがる。
あっしは、たいした出来だと思わないね。
甚五郎:ほお、お前もだいぶしっかりしてきたな。
私もそう思うんだ。
おい鼠、鼠!
鼠:あっ、どうも、ご無沙汰してます。
甚五郎:私はな、お前をこさえた時、
心を無にして性根を据え、
命がけでこさえたつもりだ。
なのにお前、あんな虎が怖いのか?
鼠:へっ?あれ、虎ですか!?
あたしは猫だと思った。
終劇
参考にした落語口演の噺家演者様等(敬称略)
桂歌丸
三遊亭円楽(六代目)
※用語解説
左官:語源は宮中の営繕を行う職人に、土木部門を司る木工寮の属
(四等官の主典)として出入りを許したというものが巷間に広く
知られているが諸説ある。
神田竪大工町:現在の千代田区内神田三丁目13、17・18、22・23番、
鍛冶町一丁目を指す。
手甲脚絆:野外での農作業をする時などに、手の甲や足首や甲を怪我から
守るために着用していた。 また、江戸時代では旅の必需品と
して使用されていた。
立って半畳、寝て一畳:人が生活する上で必要なスペースを指す。
同じ意味の起きて半畳、寝て一畳より丁寧な表現。
これだけあれば十分でそれ以上を求めるのは贅沢であるとい
う、清貧の精神を表すことわざ。
二十文:一文=現在の価値で約32.5円。
なのでだいたい640円くらいであろうか。
宿場:江戸時代に五街道に設けられた、旅人を宿泊させたり、
人馬の継立を行うための設備が整えられた場所。宿駅とも呼ばれ、
古代から整備されてきた。五街道とは江戸と各地を結ぶ主要な街道
のことで、(東海道、中山道、奥州街道、甲州街道、日光街道)の
五つの街道を総称する。
旅籠:日本で昔からある旅人向けの宿泊施設を指す。現代では「旅館」や
「ホテル」と呼ぶものが一般的だが、「旅篭」は歴史的な文脈で
使われる言葉。また、旅籠の食事や旅籠の宿泊代などを指す場合も
ある。
松前藩:蝦夷地(現在の北海道)の松前周辺を領有した江戸時代の外様藩
。藩主は松前氏で、アイヌとの交易独占権を持つ為、他の藩とは
異なる財政基盤を持っていた。また領内に米を生産していなかっ
たため石高がなく、外様大名の中でも異色の存在。
間詰め刻:主に釣りに関する用語で、日の出や日没の前後、明るさが変化
していく時間帯を指す。特に魚の活性が高まりやすく、釣果が
期待できる時間帯を意味することが多い。
「旅人は 雪呉竹の 村雀 止まりては発ち 止まりては発ち」:
旅人は雀のようにとまっては飛びたち、とまっては飛びたち…宿に泊まっ
ては発ち、宿に泊まっては発つ。という意味だそうで、蜀山人の作とも
いわれている。
伊達様:ちょっと歴史をかじっている方ならすぐに分かる、奥州の独眼竜
、伊達政宗…の子孫であろうと時代的に思われる。
忠宗や綱宗のあたりではなかろうか。
六十二万石:仙台伊達家の石高。現在の価値にして約1878億円なり。
江戸時代の石高ランキング堂々の三位。
ちなみに一位は加賀百万石でお馴染み、前田家で、二位は
薩摩藩島津家の約72万石。トップ3のみならず上位は
ほとんど外様大名が占める。
おすすぎ:足を洗う事。
広瀬川:水源を奥羽山脈の関山峠付近に持ち、名取川と合流したのち
仙台湾に注ぎ込むまでの全流路が、仙台市域内で完結する都市内
河川。
紙入れ:財布の事。
二升:約3,6リットル。
加持祈祷:具体的には、印契を結び、真言を唱え、心を集中して
仏と繋がり、願いを届ける。
印形:ハンコの事。
焼けぼっくいに火が付く:、一度途絶えた関係や縁が、再び繋がりやすい
ことを表す言葉。特に男女関係において、
別れた後でもまた元の関係に戻りやすい状況
を指す。
若竹ではないから売りには出ない:その昔、昭和後期、寄席を作ろうと
した落語家がいました。その方が作っ
たのが若竹と言う寄席だったのであり
ますが、立地の悪さと他の悪条件が
重なり、数年で閉鎖されてしまう。
三町:一町は約109メートル。なのでだいたい300メートルちょい。
悪事千里を走る:悪い行いや悪い評判は、どれだけ隠そうとしてもすぐに
世間に知れ渡ってしまうということを意味する。
定宿:いつも決まって泊まる宿屋。
飯田丹下:本作品では仙台藩お抱えの彫り師。かつて甚五郎に敗北してい
る。どうも架空の人物のようである。
身から出た錆:自分の行為の結果として、災いが起こることを表すこと
わざ。自分のした行いによって、自分自身が苦しむという
意味合いで使われる。
飛脚:江戸時代に存在した速便の輸送手段であり、信書や貨物を速やかに
運ぶために使用された。リレー形式で、馬を乗り継いだり、歩いた
りして、手紙や荷物を目的地まで届けるサービス。