8話 軋む心
「じゃあ仕事の後、また迎えに来るから……」
食堂から薬局まで送ってくれたルーファウスは、そう言い残して詰所へと戻っていった。その後ろ姿を呆然と見送り、今更ながらに不安に心が揺れる。
(どうしよう……怒っているのかも……)
食堂を後にしてから別れの言葉を告げるまで、二人の間に会話らしい会話はなかった。今思えば恋人でもない間柄のヒースクリフと二人だけで食事に行ったのはよくなかったかもしれない。
けれど話したい事があると言われて、行かないという選択肢はなかった。何故ならそれは絶対にあの夜の出来事に関することだからだ。
「……でもそんなのとても説明できないわ……」
あの夜に起きたことは、ルーファウス自身にも秘密にすると決めていた。真面目で優しい彼の事だから、いくら媚薬のせいとはいえ、きっと自分を許せなくなるだろう。だからこそ全てを飲み込むと決めたのだ。
そうして不安な心のまま午後の時間を何とかやり過ごし、ようやく終わった一日の仕事。約束通りルーファウスは外で待っていてくれた。
「ルーファウス様……お疲れさまです」
「フィオナさん………」
私が声をかければ、どこか安堵した様子で表情を緩める彼。そしてどちらからともなく手を取り合えば、自然とその距離は近づいていく。
「ごめん……昼の態度、良くなかったよな。自分でもびっくりするほど不機嫌になってしまって……フィオナさんに嫌われたかと思うと、仕事にも集中できなくて……」
「そんな……私の方こそ、勝手に他の男の人と食事になんて行って……本当にごめんなさい……無神経でした」
「いや……ヒースクリフみたいな強面の騎士に詰め寄られたら、誰だって断れないだろう?フィオナさんのせいじゃないよ」
「でも……」
「いいんだ。いつかこうなるとは思っていたから。あいつやたらとこっちの動向を気にしてたからさ。きっとフィオナさんと二人きりで話す機会を狙ってたんだ」
そう言って悔し気に語る様子は、それでも親友への信頼がどこかにあるように思えた。それが何だか微笑ましくてくすりと笑みを浮かべれば、ルーファウスがきょとんとした表情を見せる。
「え?どうかした?」
「いえ……なんだかんだでお互いを信頼し合っているなって思って……ルーファウス様とヒースクリフ様」
「え?僕たちが?」
「えぇ。あぁして厳しい言葉を言い合えるのも、そこに信頼があるからでしょう?今日、お二人の様子を見ていて、そう思ったんです。本当のことを言い合える人がいるのって、うらやましいなって……」
その言葉にルーファウスは目を見開いてこちらを見つめる。嘘偽りのない本心で、彼らは語っていたのだろう。だからこそ、その言葉の一つ一つは私の心に深く刻まれることになった。
──お前が全てを話してそれでも彼女が一緒にいることを決められるならばそれでいい。だがそうでないことをお前が一番よくわかっているはずだ。そうすれば傷つくのは誰だ?お前か?そうじゃないだろう?──
──俺は忠告に来たんだ。これ以上彼女が傷つく前に、離れた方が良いと…………それが彼女の為だ──
この関係が一時の夢でしかないのを、ヒースクリフも、ルーファウスも、そして誰よりもこの私が良くわかっている。そしてそれを承知した上で、私は彼といることを選択したのだ。
「フィオナ……君は……」
私の言葉の奥にある諦めに似た覚悟に気が付いたのだろう。彼はいつもとは違って私を呼び捨てにすると、呆然とこちらを見つめた。縋るようなその眼差しは、私を抗えなくするものだったから、それを避けるように顔を背けて目を閉じたのだが──
「フィオナっ……!」
自分から目を背けるのを許さないとでもいうように、強く彼に抱きしめられた。そして──
「来て──」
力強いその腕に抱かれたまま歩き出す。どこか焦ったように先を急ぐ彼に、促されるままについていく。
そしてたどり着いたのは、歓楽街にある高級な宿の一つだった。一つ部屋を取り、そこにつくや否や、彼は再び私をその腕の中に抱いた。
「ごめん、フィオナっ……君が離れていくのかと思うと、僕は気が狂いそうになる……君が怖がることはしたくないのに……それでも離すことはできない……」
「ルーファウス様……」
「今夜は一緒にいて欲しい……だけど絶対に手は出さないと誓う」
「え?でも……」
こうして宿に来たからには、そういうことがあるかもしれないと覚悟していたのに、ルーファウスは首を横に振って否定した。
「君を大事にしたいんだ……こんな一時の感情で奪いたくない……ごめん、我がままだけど……本当に君との将来を考えているから……」
「ルーファウス様……」
彼の真っすぐな眼差しに言葉を失った。
ルーファウスは私との将来を真剣に考えてくれていたのだ。だからこそ一時の夢でしかないとどこかで諦めている私に気が付いて焦ったのだろう。その事実に申し訳なくなるとともに、大切にされていると知って胸がいっぱいになる。
「確かにまだ君に言えていないことがあるのは事実だ……けど、それを知って君が離れていくのが怖い……臆病なんだよ僕は……だから君が離れていかないように必死なんだ」
「うん……」
「もう少し待ってほしい……こんなことお願いできる立場じゃないかもしれないが、それでも君との将来の為に、時間が欲しいんだ……」
そう告げたルーファウスの目は真剣そのものだ。そこに一つも偽りがないのが分かる。そしてその事実は、私の心の奥を軋ませた。
(真摯に向き合ってくれる彼に対して……私は嘘をついているんだわ……)
あの夜のことを告げられない自分は、彼に対して酷く不誠実に思えた。
けれど全てを明らかにした時のことを思うと、とてもじゃないけど真実を口にする気にはなれない。嘘を吐き続ける罪悪感と、彼が負うであろう苦しみを天秤にかければ、自ずと答えは出てくる。
(不誠実だと罵られようとも、彼が傷つく方がよっぽど辛い……それなら私一人が耐えればいいだけだわ)
例えこの先、二人の関係がどうなろうとしても、これだけは絶対に譲れないと誓う。優しいこの人に、そんな重荷を背負わせたくはない。
そんな想いを胸に、私は彼の腕の中で眠りに落ちたのだった──