18話 ある決心
真実が暴かれたあの朝から数日が経過していた。
ルーファウスはあれからすぐ、騎士団の遠征部隊の一員として王都を出立していった。遠征は数か月に及ぶらしく、その間は街中で偶然でも彼と会うことはなくなる。
付き合っていた時は遠征で離ればなれになることが寂しく思っていたのに、今はこの状況に安堵している自分がいるから何とも皮肉なものだ。
勿論彼の方はもう二度と私に会うつもりはないのだし、私の方もこんな精神状態ではとてもじゃないけど彼を目の前にして普通でいられる自信がない。だから彼がいない今の状況は、私にとってはありがたいものだった。
けれどそんな私の心を乱すようにして、別の人物がやって来た。
「ごきげんよう、フィオナさん」
「貴女は……」
以前、私を訪ねてきた貴族の女性。相変わらず豪奢な衣装に身を包み、侍従と護衛を従え薬局へと入ってくる。
「お時間よろしくて?」
艶やかな笑みで薬局のカウンター越しに声をかけられる。一緒にいた薬局の店主は、相手が明らかな貴族ということで慌てて私を休憩に入れた。
薬局を出れば先日と同じようにして豪華な馬車が待ち構えている。それに乗りこめば、すぐにどこかへと出発した。
どこへ行くのかと不思議に思い窓の外を流れる景色を見ていれば、目の前に座る女性がくすりと笑みを零す。
「街中を適当に回るだけよ。誰かに聞かれると困る話だから」
その言葉にごくりと唾を飲み込む。
ルーファウスとの関係は数日前に完全に破綻したわけだが、それ以外に何かあるとすれば私が妊娠していることだろう。朝の早い時間とはいえ、街中の庭園でのあの騒ぎだ。噂になっていてもおかしくはない。
「貴女、妊娠しているんですってね」
「…………はい」
「そう……一応調べはついているけど、直接貴女の口から聞きたかったの。勿論、ルーファウス様の子ではないのよね?」
「…………」
その問いにはどう答えていいかわからなかった。ルーファウスには信じてもらえず、ヘンリーには降りかかる危険を考慮しろと注意された。
だからと言って、いまこのお腹に宿っている命を、その本当の父親の存在を否定したくはない。信じてもらえなくても、他の誰にも望まれていなくても、この子の父親は確かにあの人なのだから。
私が黙り続けていると、目の前の女性は自分の都合のいいように解釈したのか、満足げに頷いた。
「あっけなく嘘がバレて、情けない気持ちなのでしょうけど、でもそれでよかったのだわ。もし嘘を吐いてそのお腹の子があの方の子供だなんて言いふらしていたら、親子ともども命を落とす羽目になったでしょうしね」
「っ……それ、は……」
信じられないような言葉に、思わず女性を凝視する。けれど揶揄うような様子は一切なく、女性は痛まし気に眉を寄せ、真っすぐにこちらを見つめていた。
「あの方はとても高貴な血を引いているの。これまでは色々と問題があって表へと出ることが叶わなかったけれど、それももう終わり。もうすぐ全てがあるべき場所へと戻されるわ。……だから貴女はもう彼と関わらない方がいい。自分とそのお腹の子の命が大事ならね」
「…………」
「まぁ、その辺は貴女の相手……その子の父親の方がよくわかるかもしれないわね。曲がりなりにも貴族のようだから」
そう言って女性は言葉を切った。窓の外に視線を移し、感情の見えない美しい顔で流れる景色を見つめている。
彼女の話を聞くだけで、何もかもが最初から間違っていたのだと思い知らされる。ただの憧れだけで済んでいればよかったのに、下手に近づいて想いを打ち明けて──未来がある関係ではないとわかっていたはずなのに。
「……もう関わるつもりはありません……元々離れるつもりだったので……」
「そう……ならいいのよ。それが貴女の為だわ」
窓の外から再び視線を車内に戻した女性は、どこかほっとした様子で頷いた。僅かでもルーファウスの為にならないものを排除できて、安心したのだろう。これが私に向けられた優しさではないことは、十分に承知している。
その後は特に会話もなく、暫くすると馬車が再び薬局の前へと戻ってきた。
馬車から降り、振り向いて一礼する。しかしもう用はないとでもいうように、扉を閉められた馬車はあっという間に通りの奥に走り去っていった。
──そしてその日の夜、私は改めて自分の行く末について考えた。
(……このまま王都にいたら、危ないかもしれない……ルーファウス様は信じなかったけど、ヒースクリフ様はあの夜のことを知っている…………私があの時初めてだったことも…………)
わざわざその身に危険が及ぶ可能性を示唆してまで、あの貴族女性から釘を刺されたのだ。もしあの夜のことが公になれば、どうなるかわかったものではない。
今はもう、ルーファウスにあの夜の真実を伝えようという気持ちはない。
例え彼に恨まれようとも、この子が父親の存在を知ることが無くなったとしても、生き延びることの方がよっぽど重要だ。
けれど、その為には王都を離れなければならない。住む場所も、仕事も失ってしまう。知り合いに頼ることもできないだろう。何かあれば巻き込むかもしれないし、居場所を知られてしまうかもしれない。
だから行く先は誰にも告げずに行く。
たった一人で、この命を抱えて。
でも──
「……怖い…………怖いよ……っ」
行き先の見えない恐ろしさに、凍えたように体が震える。手を胸の前で握り目を閉じてじっと心を落ち着かせようとした。
全てを投げ出したい──そんな思いが何度も胸に去来する。けれど頼れる人がどこにもいなくとも、どんなに苦しい想いをしても、嘆いたところで何一つ変わらないのだ。
生きていかなければならない。
この命を育んでいくと決めたからには──
決意を新たに、再び目を開ける。薄暗い部屋に、月の柔らかな光が窓から差し込んでいる。
満ちかけの月の優しい光。それはまるで私の決断を、微笑んで見守ってくれているように見えた。
「…………大丈夫…………きっと、生きていける…………」
そしてその夜から一週間後────
全ての準備を整えた私は、誰にも本当の行先を告げることなく、二度と戻ることはない王都を後にしたのだった────