王女の涙③
アシュリーを抱きしめたまま指を鳴らすと、ノックもなしにジゼルが飛び込んできた。
ずっと扉の外で待っていたのだろう。らしくもない行動だが、彼女の悲愴な顔を見れば咎める気にもならない。
「アシュリー様は」
「安心しろ、寝ているだけだ」
意識のないアシュリーに気づいて青褪めるジゼルに苦笑する。
ナイトドレスが真っ赤に染まっているのだから仕方のないことだが、ジゼルの動揺は可哀想なくらいだった。
「……すぐにお召し替えとお掃除をいたします」
「ああ、頼む」
ロランの指示だろう。ジゼルは替えの服と掃除道具を持参していた。
アシュリーをソファにそっと寝かせ、ジゼルに後を任せてクローゼットを開けて上着を取る。
「少し仕事が残っているから出るが、急がなくていい」
「かしこまりました」
早速絨毯に染み込んだ血の処理に取り掛かりながらジゼルが頷く。
「……アーキンズ様、お背中から血が」
「うん?……ああ」
上着を着ようとしたところで言われて、首をひねって自分の背を見る。
アシュリーが爪を立てていた場所だろう。肩の下あたりにうっすらと血が滲んでいた。
「手当てをいたしましょうか」
「いや、どうでもいい」
薄く笑って上着を羽織る。
アシュリーはもっと痛い目に遭わされていたのに、泣くこともできず一人耐えてきたのだ。
それを思えば、こんな小さな傷に治癒魔法を使う気はおきなかった。
「終わり次第アシュリー様を起こしてお部屋へお連れしますか?」
「いや……」
問われて少し考える。
疲れ切っているのを起こすのは可哀想だ。
それに今はアシュリーを一人にしたくない。
何より、俺自身がアシュリーのそばにいたかった。
「俺のベッドに寝かせておけ」
「えっ」
「昼間の拷問はまだ有効だろう。ご満足いただけなかったようだしな」
笑いながら言う。
アシュリーが提案した恋人ごっこの期限は丸一日。
条件提示からまだ半日しか経っていない。
「か、かしこまりました……」
微かに頬を染めながらジゼルが了承する。
彼女が何を想像したのかは分からないが、言い訳もせず最後にアシュリーの寝顔を目に焼き付けて自室を出た。
これから自分がどうすべきかは明確だった。
執務室にはロランが待っていて、すでに必要な書類が揃っていた。
「陛下にはすでに面会の許可を取ってあります」
もう深夜に近い時間だ。こんな時間に陛下の目通りが叶うなんて、普段ならばありえない。
よほど上手く秘書官を言いくるめたらしい。
「随分手回しがいいな」
呆れ半分で感心すると、ロランが得意げな顔で笑った。
「閣下の考えなどお見通しです」
「有能な部下に恵まれて嬉しいよ」
「次回の査定は期待してますね」
調子のいいことを言っているが、その笑顔には妙な凄みがある。
きっと自分と同等程度にはアシュリーに対する仕打ちに腹を据えかねているのだろう。
「上手くいきますかね」
「面倒ごとは全て俺がなんとかする」
ロランの用意した書類をかき集めながら頷く。
これまでアシュリーが託してくれた情報の全てと、その裏取りと。
これだけの情報があれば国は動かせる。
あとはどうして今までこれらの情報を隠していたかという言い訳を、俺がするだけだ。
「さあ行こう」
「ええ。全力で」
カラプタリアを完膚なきまでに叩き潰す。
強い意志を込めて言えば、全てを了解したらしいロランが不敵な笑みを浮かべた。
アストラリス国王との話し合いは朝方近くまで及んだ。
盛大なお叱りと嫌味に耐えて、自室に戻る頃にはもうへとへとだった。
別れ際に「身から出た錆ですね」と嗤ったロランの顔は一生忘れないだろう。
寝間着に着替えて、自分のベッドで眠るアシュリーの寝顔をしばし眺める。
それだけで今日一日の疲れが全て溶けて消えていくようだった。
起こさないようにそっとベッドに潜り込み、つい先ほど侵攻開始を決断したとは思えないほど穏やかな気持ちで眠りについた。




