039.甲板上の悪夢
◇
霧の海。
白く薄ぼんやりとした視界の中、妖しく揺らめく細長いソレは人の腕に見えた。
水難事故で亡くなった無念の魂がゆらゆらと手招きしている。
ザラメは自分に言い聞かせる。これはゲームだ。死者は実在しない。亡霊を象った偽物のアトラクションにすぎないのだと。
しかしこれが遊園地のアトラクションだとしても、それは無人の寂れた廃墟でひとりでにまわるメリーゴーランドのように不気味で薄ら寒いものだった。
人体を鷲掴みにできるほど巨大な白い腕がいくつもゆらゆらとうごめいている。
それは手招きをしてみえた。
『おいで』
『おいで』
『水底へ』
十数の海より這い出る白腕。
その中心に在るのは妖艶にして美しく儚げな、白いワンピースに日傘を差した亡霊少女。
討伐すべき怪物としてはいささか醜悪さに欠けていた。
物悲しげな表情の麗人はザラメを見やる。
そして幽かに微笑んで、誘惑するのだ。
『お嬢さん、あそびましょ? 静かな水底で、いっしょに、いつまでも』
[Lv.8 オキノムラサ】の表記が乱れ、変異する。
[Lv.X ■キ◆▽ラ■】。
赤黒い色が少しずつ白いワンピースに溶け合い、不気味な紋様を描いていく。
本来の仕様を逸脱した、壊れた殺人遊具と化していく。
「……あの時と、同じ」
ザラメは鮮明に恐怖を呼び起こされてしまう。異変直後の、黄昏の悲劇を。
親友を失った絶望を。
今すぐそばに佇んでいる親友の亡骸が如実に物語る。敗北の意味を。
「……いえ、もっと最悪、かな」
甲板上は死屍累々であった。
霧の向こう側に潜む、もうひとりのXシフター。
【Lv.X ル■▽】
白い霧の中、金属の打ち鳴りあう音がその凶行を告げていた。
銀剣の殺人鬼――。
甲板に到着するまでにさらに五人目の犠牲者が出たをザラメは観測者に告げられる。
本来十人もいたはずの冒険者パーティ二組、その半数ずつが殺害されていた。
レイドボス、オキノムラサ戦の開始を告げる霧が立ち込めてきた時を皮切りにして、それまでの交戦で傷つき疲弊していた冒険者を突如として銀剣の殺人鬼が襲ったのだ。
戦闘不能になりかけていた剣士とその手当をする回復術師を、二人諸共に斬り殺したのだ。入念に、そう、確実に死んだと思えるまで執拗に。
つづけざまに混乱する状況下で、やはり守りの手薄な攻撃魔法の使い手を背後から銀剣の殺人鬼は斬り伏せ、そしてトドメを刺した。
銀剣の殺人鬼はそこで一度何食わぬ顔して冒険者一行と同じことを言った。
「一体だれがこんな惨いことを!」
「今度は俺が殺してやる! 出てこい! 卑怯者!!」
「ウソ、さやや、返事して……!」
銀剣の殺人鬼は息を潜めて、それまで通りに冒険者になりすました。
そうしてしばらく嘆き悲しみ、巧妙に演技して、犯人探しをのらりくらりとかわしているうちに霧の中から白い腕がいくつも出現した。
船幽霊の大半は片付いていたが、最悪のタイミングで出現したレイドボス オキノムラサへの対応に甲板の冒険者七名が苦慮したのは言うまでもない。
なにせ、巨大な敵との戦いの最中、背後からの仲間の不意打ちを気にかけねばならないのだから無理難題だ。
そして一人、もう一人とついに銀剣の殺人鬼は五人目を殺害せしめた。
ザラメ達が到着した時にはもう、その惨状だった。
一部始終を観測者を通じて断片的に知ることができたザラメは今、黒騎士、ユキチ、シオリンを伴って二体のXシフターと対峙している。
▽「霧の中の殺人鬼……まるで切り裂きジャックだな」
ザラメは観測者の語る名を知らない。でもわかる。きっとそいつは最低最悪だ。
霧の中、目を凝らして生存する冒険者を確認する。
大盾のガルグイユ。大鎧のドット。弓兵のセフィー。武闘家のネモフィラ。剣士のししゃも。
五人は互いに背を預けて、お互いを監視しながら白腕と応戦していた。
銀剣の殺人鬼はほんの数秒間だけ本性をあらわにして、それ以外は仲間のフリをしつづけるという狡猾な策を弄していた。
レイドボスであるオキノムラサの水流や呪霊による広範囲攻撃に乗じて隙を狙うのだ。
霧に閉ざされた視界でもなお無数の観測者の目撃情報から逃れつづけるのは難しい。
Xシフターへ変異する数秒を、だれかが見ている。
しかし――Xシフターは黒い小妖精を引き連れていたことをザラメはおぼえていた。
そしてその本当の恐ろしさを今、体感していた。
▼「ドットだ! あいつがマルセーユをぶっ殺すのを見たんだ!」
▽「は!? マルセーユが死んだ時ドットはセフィーを守ってただろ!?」
▼「ドットだ! あいつがマルセーユをぶっ殺すのを見たんだ!」
▼「ドットだ! あいつがマルセーユをぶっ殺すのを見たんだ!」
▼「ドットだ! あいつがマルセーユをぶっ殺すのを見たんだ!」
▽「おい何だこいつら……」
観測者のコメントの中に、コピー&ペーストされた扇動文が投下されていた。
これに限らず、混乱を助長するような発言が爆撃のように投下されていた。
黒い小妖精による妨害工作。
正体不明の黒い小妖精は銀剣の殺人鬼にアドバイスするだけが役割ではなかった。
コメントログとして冷静に読み返せば判別可能だが、妖精契約語で戦闘中で耳にする情報としては冒険者を十分に混乱させ、リアルタイムの会話進行を阻害するに十分だった。
▼「マルセーユはまだ生きてるだろアホか」
▼「そもそもゲームで死ねるとかねーよ、バカかよ」
ザラメへの妖精契約語のささやき声に明らかにノイズとなる黒いささやき声が交じる。
自動読み上げソフト的な平坦な語調までそのままなせいで聞き分けが難しい。
元々戦闘イベント時にはコメントが加速して落ち着いて聞き分けられないが、それを悪化させ、負担を強く掛けられてしまう。
ザラメの敵はレイドボス、銀剣の殺人鬼、そしてこの悪意の観測者達なわけだ。
まさに悪夢だ。
絶望的だ。
しかし戦っても戦わなくても否応がなく彼らはザラメを抹殺しにかかってくる。
絶望に打ちひしがれてあきらめる選択肢なんて、ない。
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