028.シーゴーストの強襲 【挿絵アリ】
◇
『おいで……いっしょにおいで……』
『海の底は静かだよ』
『どうして死んでくれないの?』
静かに、恨みがましいささやき声が、しかし脳髄に滴り落ちるように溶け行って来る。
精神をかき乱す怨嗟の声。
直感的に、ザラメはこれが単なる通常のモンスターとは似て非なるものだと感じた。
――津波だ。
三日前、異変の日にはじまりの港では津波により多数の死者が出たとされている。それは単なるNPCに過ぎないとザラメは軽視していたが、今ここで対峙するハメになったのだ。
『誘いましょう、水底へ』
『手折りましょう、手折りましょう』
『ねぇ、苦しもうよ』
白い腕が、ザラメの首に伸びる。
逃げ場のない狭い船内の寝室を三体の亡霊が渦巻き、四方八方からザラメの首、腕、脚を掴んで離そうとしない。
「かはっ……あ、ぐっ」
呼吸ができない。首を締められた圧迫感。息を吸おうとするとまるで海水を飲み込んでしまったかのように、肺に異物が入ってくる感覚に襲われた。
(ダメ、死ぬ――!)
ザラメは船の中で溺死しかけていた。
時間がとてもゆるやかに、泥のように粘って淀んで流れが遅くなって感じられた。
徐々に精神が蝕まれていく。
ザラメの意識に刻みつけられるのは津波で死んだであろう犠牲者の無念、死の間際の光景、やり残したこと。
それはゲームの単なるエネミーが与える恐怖としては説明がつかなかった。
シンギュラリティ。
魔物とて、幽霊とて、本来の仕様にはない深みや奥行きを得て克明になりすぎた結果、その本来の役割を越えて、ゲームとしては過剰なまでに亡霊らしくあろうとしていた。
(息が、苦しい……っ、もう、ダメ……)
誰の声も聴こえない。
真っ暗闇の、水の底。
(詩織も、こんな風に死んでいったのかな……)
きっと孤独だったはずだ。
とっさにザラメのことを守り、犠牲になった彼女は、きっと後悔したはずだ。
詩織がいかに心優しくても、あの瞬間、死ぬ覚悟なんてできていたはずがない。
ただ闇雲に、親友を助けようとして、訳もわからないうちに水底へ引きずり込まれた。
(あんなの、理不尽すぎる……!)
一瞬、あきらめかけたザラメに怒りによって己を奮い立たせようとした。
そして激情で恐怖に抗いつつ、冷静にある事実に気づく。
ザラメは息苦しくはなっても、まだ生きている。本当に溺死するような状況下であれば、もうとっくに意識を失い、怒りも悲しみも心に抱く余裕がないはずだ。
それでも、思考できている。
なぜか。
【刀狩りのウォーターローブ[61000DM]】
【分類:軽装非金属。防御力:中 斬撃耐性:大。水氷耐性:大。火炎弱点:小。魔法耐性:小。魔法強化:小。水中適性:中】
理由を考えた時、これしかなかった。シーゴーストの溺死攻撃に耐性や適性が働き、絞殺や拘束にも純粋な防御力の向上のおかげで耐えきれているのだ。
おそらく精神攻撃めいたもので一時的に正気を失いかけたが、それも克服した。
依然として死の淵にあるが、ザラメは無力に殺されるのではなく、反撃するだけの機会を得ることができていた。
己の力で、抗う覚悟を決めて。
【小火の術式】を、至近距離でシーゴーストへ直撃させた。
シーゴーストは炎熱によって胴体部が爆ぜ、蒸発する。その一撃だけで倒すには不十分であったものの、首を締めていた腕を引きはがすことができた。
それだけで今はいい。
ザラメは耐えきったのだ。
「――消え去れ」
黒剣一閃。
漆黒の重騎士が一刀両断に船幽霊を斬り捨てた。
さらに次の瞬間、重厚な盾を豪快に叩きつけて二体まとめて粉砕してしまった。
船幽霊が、強烈すぎる衝撃によって水風船を割ったように水飛沫へと還り、四散する。
怨恨の叫びをものともせず、黒騎士は三体の船幽霊を撃滅せしめた。
「ザラメ!」
そしてすぐさま駆け寄り、ふらつくザラメを抱き止めた。
抱きしめられたとて、水濡れた鋼鉄の鎧越しでは冷たくて仕方ないというのに。
(なんだか、あたたかい気がする……)
黒騎士はわずらわしそうに鉄仮面を脱ぎ捨て、なにやら「すまない」等と不覚を取ったことを詫びるが、ザラメにしてみれば結果たった6割HPを削られて[呪い]の状態異常をかけられただけで済んでいる。むしろ感謝すべきだ。シンギュラリティの度合い次第では、ザラメは本当に水底へ連れていかれてしまい、“死亡”状態に陥らずとも“戦闘不能”状態のまま水中で脱出不能に陥ることまで考えられた。
「あ、やまら…けふ、けふ。おかげで、たすかったんです、げほっ、はぁはぁ」
「ごめん! 私がもっとしっかりしてれば……!」
完全に取り乱して黒騎士キャラを忘れてしまっている。
それがおかしくて、ザラメは窮地を脱した安心感もあってフッと笑った。
「色々おかしいですよ、黒騎士さん」
「え、あ、う……今のはナシだ! くそっ、七面倒くさい! ぐっ、お前とあいつのせいで全身びしょ濡れだ……わずらわしい」
黒騎士はそう言葉して、顔を服袖で拭おうとして、鋼鉄の篭手で顔面をこすった。
「痛っ!」
「あーもう、なにやってるんですか」
「うるさい! リアルのクセでついだよ! お前がいちいち心配させるのが悪い!」
「ぷふふ」
キャラがガタガタ。今しがた物凄い強さで自分を守ってくれた騎士様とは思えない。
「くそっ、あの方ならもっとうまく……」
しかしまぁザラメはガルト様とやらに対する黒騎士のこだわりはよくわからない。
▽「顔面すりおろしりんご」
▽「ザラメちゃん無事だった、よかった……」
▽「ああ、黒騎士様はライカンでいらっしゃるのね、お美しい……」
▽「黒騎士の観測登録なんか増えてる、今のはカッコよかったからなぁ」
▽「失態をどうにかリカバリーできたな」
▽「あの小僧まだ毛布かぶって震えてんな、だっさ」
状況が落ち着いてきたことでようやくザラメも観測者の言葉に耳を傾ける余裕ができた。
だれかに心配してもらえる。
その心強さは確実にザラメの心の支えになってくれている気がする。
同時に、観測者によって得られる情報は大きい。
「それにしても一体、何が……状況をだれか教えてください」
▽「冒険者パーティが二組、甲板でシーゴーストの群れと戦ってたみたい」
▽「あー、これまずいやつだ」
▽「敵いっぱい。半数が甲板、もう半数が船内に入ってきてる。甲板は足止め要員で船内が本命。次々と乗客のNPCや船員を襲ってるっぽい」
▽「こっちで俺の観てた二人がやられた! 救援に誰か来てくれ! 場所教える!」
▽「待て! こっちも危なかったんだぞ!」
▽「推しが死にそうなんだよ! 頼む!」
観測者同士のやりとりが加速して全部を拾いきれなくなってきた。
ザラメは要点を冷静に把握しようと目を閉じて、深呼吸する。
状況は錯綜している。
だれかになにか頼まれたり命じられたとしても、本当にそうすべきか最終的に自己判断することをザラメは求められている。
ザラメは命令を忠実に実行する兵士でもなければ、他者に与えられた使命もない。
重圧だ。
今しがた亡者の嘆きに溺れかけたザラメには事の深刻さがよくわかる。
『自分の安全を優先する』
『他者の救助を優先する』
どちらも異なる苦痛が伴い、ザラメを苦しめるだろう。
きっと後悔する。
どのみち後悔する。
せめて、より大きな後悔をせずに済む方を選ぼうとするだけのこと。
ザラメは決断を下すのは己自身でありたいと願い、考える。こればかりは観測者や黒騎士にも委ねるべきでない。
そして結論を得た。
「黒騎士さん、おひとりで救援に行ってあげてください。私は“彼”とここに隠れます。足手まといをふたり連れ立っているより、その方がずっと戦いやすいはずですから」
「ザラメ、お前……」
姑息だ。卑怯だ。なんて次元の話ではない。
これは生きるか死ぬかの瀬戸際。
かなり悔しいが、ザラメには自分が現状は足手まといだという劣等感をぐっと飲み込むだけの理知がある。そして生存本能としての正常な恐怖心が働いてもいた。
『自分の安全をまず確保しつつ、他者の救助をあきらめない』
その折衷案だ。
代償に、黒騎士不在の中でひとり襲撃を隠れて乗り切るという小さな危険を覚悟する。
(正直、不安でしょうがないけど……)
「安心してください! わたしには刀狩りのウォーターローブがありますし、本当に危ないときは観測者さん達が知らせてくれますから! 早く!」
「ホントに、お前といっしょだと七面倒くさいことばかりだなっ!」
黒騎士は苦々しげな表情をまた兜で覆い隠して、小妖精に導かれるまま廊下へ。
重たげな金属鎧を鳴らしながら走り、遠ざかっていく。
(……本当に行っちゃった)
天邪鬼なことに心の何処かで、ザラメは黒騎士にそばにいてほしいとも願っていたのだと自覚する。他人を見捨てようとも、ザラメの決断に反しようとも、だ。
「……なんて矛盾ですかね、やれ、やれ」
ザラメは客室を見回した。
謎の冒険者の少年、ベッドに寝かしつけられたシオリンの死体、消えないシーゴーストの残骸……。
これからどうやって襲撃をやり過ごすか。
「さぁ妖精さん、議論の時間です。議題は、どうすればわたしが生存可能か? です」
ザラメは白い獣耳を擦りつつ、観測者に問うてはアイディアを募ることにした。
毎度お読みいただきありがとうございます。
お楽しみいただけましたら、感想、評価、ブックマーク等格別のお引き立てをお願い申し上げます。