第7話 この後、ばにらのゲーム配信は18時から!(後編)
喫茶店から歩いて15分ほど。
事務所から10分ほどの位置にそのマンションはあった。
5階建ての各階2部屋。
コンクリート打ちっぱなしの壁面に10平米ほどの苔むした庭が中央にある。通りに面した壁には窓はなく、庭に向かって掃き出し窓とベランダがあるだけ。
なんとも奇抜なデザイナーマンション。
そこの3階。302号室の前。
表札に名前が書かれていない扉をずんだ先輩が引く。
「すぐ事務所に連絡してアンタの配信用データを、私宛に送るように言って。その間に、PCの最低限のセットアップをしておくから」
「あ、あの! ちょっと待ってください!」
「待ってる時間なんない! あと15分! 急いで!」
「ひゃ、ひゃい!」
玄関に入るや、靴も脱がずに私は事務所に電話をかける。
スタッフさんに事情を説明し、すぐに配信用データを送る手はずは整った。
ただ、なぜ「ずんだ先輩」宛てなのかは怪しまれたが。
私も分かんないから、笑って誤魔化すしかなかった。
「ちょっと! なに、ぼさっとしてるの! 早くこっち来なさい!」
「え? ど、どこですか、ずんだ先輩!」
「こっちよ! こっち!」
暗くて長い廊下には五つの扉。
タイル張りになった玄関の先には、外壁と同じコンクリート打ちっぱなしの壁と学校や病院のような光沢がかった廊下が続いている。
なんだかゲームの世界に迷い込んだ気分だ。
そんな私を、扉から出たずんだ先輩の手が招く。
玄関から三番目の扉だ。
今更「失礼します!」と言って靴を脱ぐと、いつの間にか置いてあったスリッパを履いてそこへと向かう。しっかりワックスがかかった床は油断すると転びそう。
なんとかこけずに部屋にたどり着くと――そこは廊下からは考えられないほど、鮮やかな光で彩られていた。
虹色に発光するゲーミングPC。
艶やかに輝くPUレザーのゲーミングチェア。
昇降機能つきのデスクに曲面のウルトラワイドモニタ。
サイドテーブルにはノートパソコンが置かれている。
フレキシブルアームに取りつけられたマイクは、同期のしのぎが「配信するならこのマイク!」と太鼓判を押した高性能な一品。
さらに、私が愛用しているBoseの有線ヘッドホン。
間違いない。
ここは配信部屋。
けれど、なによりすごいのは――。
「すごい! ずんだ先輩、これって!」
「そう、うちの配信部屋。驚くようなことなんてある。どこもこんなものでしょ」
「どうして同じ構成の配信設備が二つもあるんです⁉」
「…………そっちか」
扉から正面に一つ。
さらに、扉から入ってすぐ左手にもう一つ。
二つの配信設備がこの部屋にはあった。
「簡単な話よ。急に配信設備が壊れて配信できなくなったら困るでしょ。だから、予備の配信設備をまるっと一式揃えたの」
「すごいです! 全然こんなの思いつかなかった! 壊れたらどうしようって、いつも思ってたのに――そっか、二つ揃えればよかったんだ!」
「驚きすぎよ」
「あと、ハブが見当たらないってことは、もしかして回線も二つ引き込んでます?」
「当たり前でしょ。回線の不調が一番怖いのよ。フレッツ光とau光を引き込んであるわ。わざわざオーナーに引き込みの許可まで取ったんだから」
「そこまでしますか! うわぁ、ちょっと引きます!」
「……アンタね、自分がどういう立場か分かってるの?」
しまった。
ずんだ先輩の配信部屋があまりにクオリティが高くて思わず限界化しちゃった。
けど、こんな配信者のよくばりハッピーセットを見せられたら、テンションがどうにかならない方がVTuberとしてはおかしいよ。
そして、ようやく私は気がついた――。
「ずんだ先輩! もしかして!」
「そういうこと。私の配信設備を貸してあげるからここで配信しなさい。さっき事務所から届いた配信用データも設定してあげたから――」
「ここってずんだ先輩の家だったんですね!」
ずんだ先輩の部屋に来ちゃった。
DStarsの「氷の女王」で、一部のメンバーを除いて心を閉ざしていて、私生活がミステリアスで、でもでもとんでもなく配信者として尊敬している。
憧れのずんだ先輩の部屋に――今、私はいるんだ。
いいんだろうか!
こんな幸せなことがあって!
その時――ずんだ先輩が何もないのにずっこけた。
どうして?
「だから! アンタはなんでそうちょいちょい発想がおかしいのよ! 驚く所はそこじゃないでしょ!」
「……驚く所、他にありましたっけ?」
「あぁもういいわよ! それよりほら、18時まであと5分! 私も準備しなくちゃだから! 早くスタンバイして!」
「は、はい! そうでしたね!」
よかった、ずんだ先輩のおかげでなんとか今日の配信は間に合いそうだ。
金盾配信といい今日といいお世話になりっぱなしだよ。
神様、仏様、ずんださまだ。
これはなんとしてでも「百合営業」の件はお断りしなくっちゃ。
これ以上の迷惑をずんだ先輩にかけることなんてできない。
私は固く決意した。
そして、また気がついた――。
「……ずんだ先輩」
「今度はなに! まさか怖じ気づいたんじゃないでしょうね! 配信環境が変わったから配信できないなんて、寝ぼけたこと言わせないわよ!」
「いえ、その、そうじゃなくてですね」
「はっきり言いなさいよ! オドオドオドと! アンタ、うちの看板VTuberでしょ! 日本一のVTuberなんでしょ!」
「けど、配信するものがなかったら、何もできませんよね……?」
「……ぁ」
小さな小さな私の手提げ鞄。
その中には最低限のものしか入ってない。
白色の長財布。社会人時代に使っていた化粧道具。打ち合わせでメモを取るためのノート。スケジュールが書き込まれた手帳。そしてスマホ。
ゲーム機なんて入っていない。
「今日の配信で使うゲーム機、持ってきてないバニ」
「くそがぁっ!!!!!!」
私の代わりにずんだ先輩が髪を掻きむしって吼える。
綺麗な黒髪がまるで綿飴のように膨らんだ。
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強引に押しかけられるのも・連れ込まれるのもいいよね! 先輩・後輩のこの微妙なやり取りに期待していただけたなら、どうか評価お願いいたします。m(__)m