第一部
「……ん?」
クロードアンシェルは生い茂った森の中、ふと誰かの声を聞いたような気がして立ち止まった。周りを見渡すが、当たり前のように気や草が生えているだけである。
「気のせいか?」
遠くで獣が鳴いたのかもしれない。気を取り直し、また進み始める。が、すぐに足を止めた。確かに声は聞こえてくる。頭の上の方からだ。
「おや」
見上げたクロードアンシェルは、驚きと、おかしさで思わず笑ってしまった。それはとても意外で、あり得ないような光景でもある。
「何をしておいでです?」
問いかける。と、小さな声で『下ろして』と言っているようだった。
「ちょっと待ってください」
クロードアンシェルはひょい、と荷物を下ろすと長い黒髪を紐で結わえ、軽い足取りで目の前の大木に登っていった。
「これ、魔物用の網ですよ?」
くす、と笑いながら紐を解いてやる。と、彼女はするりと網を抜け、クロードアンシェルの目の前に浮かんで見せた。
『はぁ~、やっと出られたわっ』
小さな、少女の姿を取った彼女はしかし、実体を持たないもの……そう、守護神である。しかし……使い手は?
この世には「術師」と呼ばれる特別な力を持つ人間が存在する。そしてその中でも選ばれし者は守護神に護られる。守護神とはいわば自然が生み出す神の化身とでもいうのか、とにかく人間にはあり得ない不思議な力が使える存在なのだ。守護神を持つ術師というのは稀で、数えられる程度しか存在しない。彼らは世界の宝であり、全ての術師はその生活を拘束され、宮仕えとなる。だが、その数は一つの国につき一人と定められていた。それでも術師を持てない国の方がまだ多いのだ。
守護神と術師の間には、目には見えない、耳には聞こえない契約のようなものが結ばれていて、互いの存在を認め合った瞬間から死ぬまで離れることはないのだと聞く。常に行動を共にし、術師は守護神を、守護神は術師を護りながら生きていくのだ。
目の前に現れた少女。これは間違いなく守護神である。しかし、周りを見渡しても使い手である術師がいなかった。クロードアンシェルは首を傾げた。
「失礼ですが、使い手の方は?」
クロードアンシェルの言葉に、少女は今にも泣きそうな顔をして見せる。唇をへの字に歪め、目には涙を溜め、拳を握り締めていた。
「……あの、」
相手が守護神とはいえ、女の子を泣かせるのはクロードアンシェルとしても避けたいことだ。何とか落ちつかせようと話題を逸らす。
「あ、えーと、お名前は?」
少女は大きく息を吐き出し呼吸を整えると、涙を堪えて言った。
『……チト』
「チト、ですか。可愛い名ですね」
にこっ、と笑う。まるで迷子の子供相手に話しているようだ。……あながち間違いでもないが。
「チト、下に降りてもいいですか?」
片手で地上を差しながら、クロードアンシェル。チトは小さく頷き、地上へと舞い降りた。クロードアンシェルもそれに続き、パッと手を離すとアクロバティックなジャンプを見せたのである。
『わぉ、素敵!』
チトが笑顔を見せる。
『とても身軽なのね。もしかして、あなた術師なの?』
「いいえ。違いますよ」
パンパン、と体に付いたゴミを払い、改めて少女に向き直る。と、貴族の挨拶……片膝を折り頭を垂れ名を名乗った。
「私の名はクロードアンシェル。大陸カナディアから使いとしてリクトの村へ向かう途中でございます。身軽なのは、私が半獣だからでしょう」
半獣。昼は人間、夜になるとその姿を獣に変える種の者なのだ。今ではその数も激減している。一般人からしてみれば、多少恐れもあるのだろう。あまり公言しないようにしていたのだが相手が守護神なら構うまい。
『クロードアンシェル……』
「で、チト、何があったのです?」
大分落ちついたと見えて、今度は取り乱す様子もなく、だがとても悲しそうな目をして語り始めた。
『……迷子になったの』
肩まで伸びた金色の捲毛。人間の歳で言うと十歳くらいだろうか? 愛らしい、丸い瞳は鮮やかなブルー。人形のように繊細で端整な顔立ち。例外なく、守護神というのは驚くほどの美しさを放っている。チトも幼いながら全身に光を纏っているかのようだった。将来が楽しみである。
「使い手の方は? 迷子になる、って言っても守護神は使い手の命がなければ離れられないでしょう?」
『言っておくけど、迷子になったのはあたしじゃないわよっ。……あたしだって好きで離れたんじゃないわ。シェスタがここで待て、って言うから仕方なく……』
「シェスタ?」
クロードアンシェルが眉間にしわを寄せ、呟いた。その名前は聞いたことがある。そう、確か……、
「……もしかして、リクトの村のシェスタ・カルナ?」
『知ってるのっ?』
チトが大きな目を更に大きく開いた。
クロードアンシェルは頭に手をあて、天を仰ぐ。想像もしていなかった二つの出来事に頭を抱えているのだ。一つは、今回の旅の目的である妹夫婦に厄介事が起きているということ。そしてもう一つは、甥であるシェスタが、守護神付きの術師になっていたということ……。
「チト、申し訳ありませんが始めから詳しく話を聞かせていただけますか?」
チトはこくりと頷くと、順序立てて事のあらましを話し始めた。
『あの日は、森に山菜を摘みに来てたの』
晴れ渡った空。
美味しい空気。
大陸カナディアの西の外れにある街、ホゼ。更にその街の外れに位置する森に囲まれた村、リクト。広がるのは丘の緑。そして青い空。
「シェスタ! どこに行こうって? 今日は先生が見える日だって知ってるだろう?」
頭に角を生やして怒ってるのはシェスタの母親、リレィ。すらりと高い身長と勝気な瞳。黒く艶やかな髪を無造作に束ねて腰に手をあてている。男勝りでヒステリックなのが玉にキズだが、村一番の美人なのがシェスタの自慢だ。
「ほんのちょっと出掛けるだけだよ。森に山菜を取りに行くんだ。先生に出すお昼ご飯さっ。いいでしょ?」
甘えん坊の十一歳、薄茶色のふわふわした髪と緑色の瞳は父親譲りだ。体も華奢で小さく、女の子のように可愛らしい顔立ちをしていることから、友達の間では『お嬢ちゃん』などと呼ばれていた。
「またそんなこと言って、サボる気なのだろう?」
「やだなぁ、母さん、頭に角生えてるよ?」
「失礼なっ! 角なんて生えてない!」
「だってチトがそう言ってるもんっ」
わー、と奇声をあげながら走り出すシェスタ。リレィは腕を組み、溜息をついて走り去る息子の後ろ姿を眺めていた。と、家の中から寝ぼけた顔でマシュが出てくる。シェスタの父親。つまり、リレィの夫である。
「なんだ? 朝から騒がしいなぁ」
「何を言ってるっ。マシュが呑気にしてるからシェスタだって自分の事を真剣に考えないんだっ。どうする気だ? 守護神まで付いちゃったってのに」
そう。シェスタに術師としての力が出始めたのはまだ最近のことである。幼い頃からシェスタの周りでは不思議なことがよく起きていたのだが、それも術師としての彼の力だったのかもしれない、と今になって思う。いつだったかまだシェスタがヨチヨチ歩きだった頃、彼は二階のベランダから落ちたことがあるのだ。その時リレィははっきりと見た。落ちゆくシェスタを、蔓が受け止めたのを。シェスタが落ちた瞬間、網目状に絡まり合い地面すれすれでシェスタをキャッチした。あのまま落ちていたらいくら体の柔らかい子供とはいえ無傷というわけにはいかなかっただろう。打ち所が悪ければ死んでいたかもしれないのだ。その蔓は家の壁を伝っているカララというマノリ科の落葉性つる植物で、その後調べてみたがカララ自体には何の能力もないのだ。突然動き出し、シェスタを救ったのは彼自身の力だったということになる。
「今はまだ村の人たち以外どこにもばれてないからいいけど、街の人の耳にでも入ったら間違いなく連れて行かるんだぞ? まだ十一歳。何も学んでいないのに知らない土地で宮仕えなんて、出来る筈がないだろ?」
「ま、な。でも、だからって自由に遊ぶこともままならないほど勉強させるのもどうかと思うよ?」
「マシュ! 無知であるということは罪なんだ。特にシェスタのように人にはない力を持つ者にとっては。正しい判断が出来るようにしてやらなきゃ、あの子が辛くなるだろ?」
守護神付きの術師は世界共通の所有物なのである。つまり、その存在には国籍などなく、全ての国に属する者として認められるわけだ。
「あの子を一人前にするまでは、絶対秘密にしなくちゃならないんだ」
厳しい口調で、しかし寂しそうな瞳でリレィが呟いた。可愛い息子を手放す日は、そう遠くない。それでも世の仕組みには逆らえないこと、誰よりも一番よく知っていた。……自分もまた、そうして生きてきたのだから。
マシュと出会えた事、そしてこの地で生活出来る事は偶然とはいえとても幸運だった。世の中から弾き出された者は一所に落ちつけず、放浪を続けるのが常なのだから。自分のような者が子を成し、夫と共に安住の地で暮らせるのはこの上なく幸せな事なのだと、いつも心で繰り返す。
「あの子にだけは、辛い思いはさせたくないんだ……」
特別な力を持つ者に対して、世の中の目は厳しい。仕事を成し得なければ責められ、やり過ぎてしまえば恐れられ、迫害される。その微妙なバランスの中で生きていくというのは至難の技だ。
「……ああ、そうだな」
マシュが優しくリレィの肩を抱いた。
「うわ、こんなに沢山!」
シェスタが喜びの声をあげ、目的の山菜を摘み始めた。
『いいの? リレィ、怒ってたわよ?』
プチプチと山菜を摘むシェスタを見下ろし、チト。
「なんだよ、今が摘み頃だ、って教えてくれたのはチトだろう?」
少し不機嫌そうに、シェスタ。
『だって、摘みに来るのは今日じゃなくたってよかったじゃない。勉強がイヤだから摘みに行こうって言ったんでしょ?』
「大正解! ……だってさ、ちゃんと学校に行ってるのに、休みの日にまで勉強したくないよ」
チトが現れた頃から、それまでは放任主義だった母親が急にうるさくなり始めたのだ。「術師」と呼ばれている自分の力を、シェスタはまだ理解出来ずにいた。
『でもね、シェスタ、勉強は大切なことなのよ?』
チトがたしなめる。と、むっとしたシェスタは手にしていた山菜をチトに投げつけた。
「チトまでそんなこと言うのかよっ」
『……だって……』
チトは知っている。守護神が付いてしまった術師は宮仕えになるのだ。シェスタに選択権はない。政治、産業、経済、あらゆる知識を身に付け、その国の為に働かなくてはいけない。だからリレィは口うるさく勉強をさせようとするのだ。
『……あたしのせいね』
ポツリ、チトが呟く。
「え?」
振り返ると、チトが泣いていた。シェスタは自分の我侭に気付き、チトを傷つけてしまったことを反省した。
「ごめん、チト。僕が悪かったよ。別にチトのせいだなんて思ってないさ。僕らが出会ったのは運命なんだ。死ぬまで一緒だって、ちゃんと約束しただろ?」
守護神がどうやって自分の使い手を選ぶのか、それは未だ謎である。守護神自身にも理由がわからないのだから。ただ、出会いから契約まではあっという間で、考えることもしない。つまり、出会ってしまえばそれ自体が契約なのかもしれない。シェスタはチトをはじめて見た時、一目で気に入った。チトも同じ気持ちだったという。そして、もうずっと前から決められていた当たり前のことであるかのように、二人の生活は始まったのだ。
『だけどシェスタ、あたしと一緒に生きるってことは、自由がなくなるっていうことと同じなのよ?』
「宮仕えになるから?」
『……そう』
「そんなの、断るもん」
あっけらかんと言ってのけるシェスタ。チトは力を込めて否定する。
『断れるわけないじゃないっ』
「どうして? だってチトのことを秘密にしてればいいんだろ? 守護神持ちじゃなければ宮仕えしなくて済むじゃないか」
『……あたしの存在をなかったことにするっていうの?』
愕然とした。もちろん、自由を失いたくないシェスタが自ら考え出した思いつきの計画であることはわかっていたが、守護神はその存在を否定されることを何よりも嫌う。誇りを傷つけられたも同然だからだ。
「そんなこと言ってないだろっ?」
シェスタが慌てて否定する。が、時既に遅し、である。
『ひどい、シェスタ!』
「チトはそんなに宮仕えがしたいのか?」
『そうじゃないっ! けど……』
黙りこむ、チト。と、
ガサガサッ
不意に向こうの茂みが揺れる。この辺の森には小動物も多く生息しているが、今の音は明らかにもっと大きな何か。多分、人間だ。
「チト、消えて!」
シェスタは小声で言うと落とした山菜を籠に拾い集めた。チトの姿は人に見せてはいけない。これは母からきつく言われていることの一つだ。
「おい、誰かいるぜ」
声は若い男のものだ。チトを隠して正解だった。この辺にはよく街からも山菜を取りに人が来るのだ。不用意に会話していたことを反省する。
ガサガサッ、
シェスタが山菜を籠に入れ終わるのと同時に、男は顔を見せた。
「おっ、なんだお前?」
男は、女を一人連れていた。とても派手なナリをした、若い女だ。二人とも、森には似つかわしくない出で立ち。そしてなにより、とてもイヤな感じがするのだ。
シェスタはペコリとお辞儀をすると、草々にその場を立ち去ろうとした。が、男はそんなシェスタの肩を掴んだのである。
「なんですかっ?」
振り払おうとするが、力の差は歴然としている。どう抵抗しても振りほどけないのだ。
「おい、クレア、上玉だぜ?」
ニヤニヤ笑いながら男が言う。
「そうね、悪くないわ」
クレア、と呼ばれた女はシェスタの顎をクイ、と持ち上げるとまじまじと顔を眺め、言った。
「放してくださいっ」
強い瞳で男を睨むシェスタ。と、パンッという音と、頬に衝撃が走った。殴られたのだ。
「ちょっとゲイル、大切な商品なんだから殴らないでよ」
クレアが止める。
「けっ、生意気なガキだぜ」
シェスタは殴られた痛みや怒りよりも、驚きの方が大きかった。彼らは人身売買の為に人を攫いにきているのだ。だが、通常取引されるのは小さな子供や綺麗な女性が多い。シェスタほどの年齢になってしまうと扱い辛いという理由から買い手が少なくなる為だ。
「今回の条件にはピッタリなのよ? 村まで行く手間が省けてよかったじゃない。早く帰りましょうよ」
「待てよクレア。あの村は小さいとはいえ上玉揃いなんだぜ? ちゃんと調べてある。こんなガキ一人連れ帰るだけじゃわざわざ出向いた甲斐がねぇよ」
「そりゃ、あんたの術を使えば簡単に何人でも連れて行けるのかもしれないけど、あんまりぞろぞろ連れて行くのはかえって危険じゃないの?」
(術?)
「……ったく心配性だな、じゃあお前こいつだけ連れて先に帰ってろよ」
ボウ、とゲイルの手から淡い光が出始める。
(こいつ、術師だ!)
シェスタは力一杯ゲイルの手を噛んだ。
「痛てぇっ」
シェスタを掴んでいた腕が離れる。脱兎のごとく走り出すシェスタ。
「あのヤローッ!」
シェスタは全速力で走った。勝手知ったる森である。追い付かれない自信はあった。走りながら、心の中で叫んだ。
(チト! 先に戻って、このことを父さんと母さんに伝えて!)
『どうしてよ! 一緒に帰りましょうよっ』
姿は見せず、直接シェスタの頭に話し掛けてくる。
(相手は術師だよ? 村で何をする気なのかわからないじゃないかっ。僕らの力だけでどうにかなるとも思えないし)
『二人でやっつけましょうよっ』
(駄目だよ。チトの姿を見られたらどうするんだよっ。半透明の人間がそばについてたら守護神だってばれちゃうだろっ?)
『そりゃそうだけど……』
息が上がってくる。いくら慣れている道とはいえ、森の中を全速力で走るのはキツイ。ぱっと後ろを振り返る。追って来る様子はなかった。シェスタは立ち止まると、大きな樹の根元に身を寄せ呼吸を整えた。
「はぁっ、はぁっ、もぅ……いい…かな?」
『大丈夫?』
「まだ出ちゃ駄目だよ、チト。僕も後から追っかけるから、早く行って!」
『……わかった。早く来てね!』
ふっ、
チトの気配が消える。シェスタは身を屈めながら音を立てないように前に進んだ。
「すばしっこいわね、お前」
ビクッ
思わず肩を震わせる。まさか、という思いで振り向くとクレアが立っていた。しかも呼吸一つ乱れていない。一体どうやって追ってきたというのか。
「あっ、あんたも術師なのかっ?」
「まさか。私はまやかしの実を持っているだけ。あんた、気付かなかったでしょ?」
ガサ、と茂みが揺れ、ゲイルも顔を見せる。
「逃げてたつもりだろうけど、ほとんど動いてないぜ」
まやかしの実……。それは術師が創り出す「術」をカプセルに閉じ込めたもので、闇市で多く出回っていると聞く。つまり術師でない一般の人間がその実を使うことで、一度だけではあるが術を使える、というものだ。……幻覚を見せられていたというわけか。
「……くそっ、」
シェスタは小さく舌打ちをすると、気を高め始めた。仕方ない。みんなに協力してもらわなくては。
ザワザワザワ
周りの木々が揺れる。
枝が、葉が、シェスタの思いに答えようとする。シェスタの力。それは植物たちを操れる、というものなのだ。
「な、なにっ?」
クレアが尋常でない動きを始めた樹や草たちを見て、怯えた。
ガサガサッ
近くの大木から枝が伸び、クレアの体に絡みついた。
「きゃあああっ! ちょっと、なによっ!」
吊り上げられたクレアが叫んだ。
ゲイルは目の前で起きた光景にしばらくあっけに取られていた。
「……めっけもんだな、おい」
驚きの声は感歎の表情に変わってゆく。
「まさか術師のガキとはな」
くらんっ、
「え?」
突然シェスタの体から力が抜ける。
「……な…ん」
頭の奥が冷たくなる。何が起きたのか全くわからなかった。心の中でチトを呼ぶ。が、その声は彼女に届かない。意識が、薄れていくのを感じた。誰かが頭の中で何か言っている。
ネムリナサイ
抵抗は許されない、徹底した命令だった。
ネムリナサイ
シェスタは、その命に従うより他になかったのである。
『あたし、シェスタが呼んでるのはわかってたの。だけどこの網が外れなくて……』
魔物用の捕獲網。今でこそその姿を見ることはないが、ちょっと前まではどの地でも頻繁に魔物の被害に悩まされていた。その頃罠として使われていこの網が、そのまま放置されていたのだ。守護神は魔物と同じような体質である。力の強い者であれば実体を興して網を破ることも出来る。が、チトのようにまだ幼く、力の備わっていない守護神は実体を興せない。つまり、自分の力だけで網を破ることが出来ない。
『あの人達、術師かもしれない。変な術を使ってたの』
「術師ぃ?」
この上相手は術師だと? そう滅多に生まれないと言われている術師が、どうしてこんなに頻繁に現れるのか。クロードアンシェルの運がいいのか、悪いのか。
「で、シェスタは?」
『男の方は村に向かった。女はシェスタを連れてそのまま立ち去ったの』
「村へっ?」
ぱん、と膝を叩くとクロードアンシェルは頭を抱えた。
「なんてこった」
『あら、でも大丈夫よ。村から誰かが連れ去られた形跡はないし、』
「わかってます。リクト村には彼女がいるんですから」
わざと強調してみせる。
「私が心配しているのは、その術師が生きているかどうかですよ」
リレィ・カルナ。クロードアンシェルの妹である。が、彼女とは半分しか血が繋がっていない。母親が違うのだ。だから歳も同じ、二十八歳だった。リレィとはほとんど会話を交わしたことはない。いくら兄妹とはいえ、育った場所も環境も違うのだから。だが、リレィがどういう人物か、というのは嫌というほどよく知っていた。結婚して、子供も出来、今でこそ落ちついてはいるがなにしろ昔は相当な問題児だったのだから。
『相手は術師かもしれないのよ? 村の人たちの心配しないの?』
チトが不思議そうに言う。
「チトはまだリレィの本性を見ていないんですね。……行けばわかります。ついでに言うと、シェスタのこと、責められる覚悟をしておいてくださいよ」
『……それは…わかった』
守護神は使い手を護る義務がある。
どんな理由であれその義務を怠ったとあれば責められても仕方のないこと。チトはきゅっ、と唇を噛み締めシェスタの無事を祈った。
「こんなことになるなら他の誰かに頼めばよかったな」
懐の手紙に手を伸ばす。
差出人は父。
あちこちに女を作って遊び呆けていた父からの遺言書。クロードアンシェルには、知り得ているだけで十一人兄妹がいる。リレィもその一人なのだが、父は律儀にもその兄妹全員に遺言を残したらしいのだ。それを届け、ついでに可愛い甥の顔を見て帰れると思っていたクロードアンシェルは、自分の甘さに溜息をついた。
「リレィの周りにはトラブルが集まるように出来てるんだな、きっと」
ポツリ、呟くとチトを連れリクトの村へと急いだ。