手首のタトゥー
俺の彼女は、手首に美しい花が咲いている。
「なんで心中って失敗するのかしらね。」
とっくに廃盤になった外国製の煙草を指に挟み、ベッドの正面にあるテレビ画面をソファ越しにぼんやり見つめながら、彼女は問うた。
テレビではお洒落なシティポップを歌うバンドが特集されていて、巷の女子高生に人気、と甲高い声のアナウンサーが話している。きつい紫煙の匂いが鼻を突き、タールを沢山含んだネズミ色が部屋に霧散して、魂のように消える。彼女は紫煙を吐き出すと、そのまま寝そべった。真っ赤な八重の花を描いた彫り物がある手首を器用に曲げ、ベッドサイドの古い紅茶の缶へ灰を落とす。
俺は、テレビの内容が鬱陶しくなって消すと、そのままソファでギターを手に取った。先程のバンドが絶対使わないだろうエフェクターを繋いで、ぎりぎりまで歪ませて、音を鳴らした。めちゃくちゃなリフとバッキングを繰り返して、それでも手癖でそれらしい旋律になっていると思う。少なくともその経験を積んで来た。ただ、俺の音楽はそこまででしかない。
「なんで消すのよ。」
「聴かねえだろ。あんなん。」
吐き捨てるように言ったのが情けないと自分で自嘲する。再度見たくもないテレビを付けて、それもまた敗北を感じて、苛立ちを押さえつけるために煙草に火を付ける。なんの音楽性も美学も無いマルボロだが、それでも肺の奥に染み込むことで少し落ち着く。落ち着かせる。ソファに捨て置いてあったTシャツをずっと裸のままの彼女に投げる。
「服を着ろ。」
どこで手に入れたのか、joydevisionのレコードジャケットを大きくプリントしたTシャツだった。お前はそういう音楽だっただろう。少なくとも、昼のワイドショーで特集されるような音楽を聴かないで欲しい。
「嫌だ。面倒くさい。」
Tシャツをぐしゃぐしゃと丸めて、壁とベッドの間に捨てて、仰向けのまま彼女はまた煙草を吸った。
面倒くさいという言葉が自分に向けられたような被害妄想に陥ったのがまた情けなく、俺は不貞腐れてギターを置いた。スマートフォンを手に取ると、溜まった通知が鬱陶しい。ひとつひとつ、握り潰すように読んで行く。自分のアイコンの、顔を白く塗り、目の周りのクマを強調したゾンビみたいな化粧が痛々しく思えて、しかしもうそれ以外の自己認識ができない。
「前のメンバーから?」
彼女がベッドから身を乗り出して俺のスマートフォンを覗き込む。
「うん?」
「いいじゃん。スタジオ行っておいでよ。」
実際に解散したバンドのメンバーからの誘いだった。やっぱり戻らないか、否、スタジオで合わせるだけでも。
「行けばいいじゃん。他にやることないんだから。」
やることというか、出来ることがないだけだ。気が向いたら、とでも返事しておこうか。きっぱり断ることもできない。年齢的に、新しい人間とバンドを組むことはもう難しいと思う。畑の違う音楽を奏でるなんて苦行を積める気がしない。
「返事打ってあげるよ。」
細い手が伸びてくる。避けると、手首に掘られた鮮烈な赤が目に飛び込んでくる。渋谷のタトゥースタジオで彼女の友人の彫り師がデビューとして彫り上げたものだ。太く赤い輪郭が目立つ。その内部を水彩画のような薄い赤で塗りつぶしている。静脈の上を塗りつぶすようなデザインだ。
「いいよ。止めてくれ。」
「気が向いたら、くらいにするって。」
「そう打つつもりだった。行くよ。」
そう答えると、驚いたような間が一瞬あった。
「潮時なのかな。」と彼女は呟くと、煙草を揉み消して、壁を向いて不貞寝した。
そう、潮時なんだよ。俺は声に出さなかった。甲高い電子音が響く。オートロックのインターホンが鳴る。俺は彼女を見ずにドアに向かう。ドアスコープを覗いてチェーンを外す。
「急に来てごめんなさい。顔だけ見たくて。」
ドアを開けて訪問者を部屋に通す。お邪魔します、と呟いて、彼女は不安げな足取りで後ろをついてくる。
「ソファ座ってて。お酒飲める?」
リビングまで案内して俺はキッチンに向かう。
「ギター練習中でした?ごめんなさい」
「テレビ、チャンネル音量下げていいですか?」
ひっきりなしに問うてくる。好きにしていい、と答えて、スミノフを2本冷蔵庫から取り出す。
「この煙草、見たこと無い。吸ってみていいですか?」
彼女がベッドサイドのテーブルに目を付ける。いいと言いかけて、否、と答えた。
「それ、もう廃盤だから、それなくなったら、手に入らないから。」
そう答えて、彼女の隣に腰掛ける。彼女が僕の膝に手を置いた。
「切ったの?また。」
蔑むように言うと、不安だった、と上目遣いで呟く。この娘は、切り方がわかっている。
「嫌ですか?手首切ったりする女。」
否、切るかどうかは問題じゃない。
「切り方をわかっている子はいいよ。」
そう、こうやって表面だけ切って、同情を誘っていればいい。太い真っ赤な輪郭を刃でなぞって、深く深く、完璧に切る子は駄目だ。
「心中なんて、失敗するだろう」
俺は切り方なんてわからなかったのだから。ふわっと、濃いタールの匂いがした。