新たな世界
「やあ、また会えたねえアリス」
何もない空間に猫の首が浮いている。ニヤニヤといやらしい笑い顔を張り付けたソレを、私は不思議と前のような不快感を抱く事無く眺めていた。
「ええ、そうね。それで? 察するにあなたはチェシャ猫といったところかしら」
「おやおや、その様子だと先に帽子屋の奴にあったらしいね。そのとおり、チェシャ猫。それが俺に与えられた役割らしい」
「与えられた? それは誰に?」
「さあ、誰だろうね。それはまだ君が知る時ではないよ。哀れなアリス、君はまだ残念ながら決められたシナリオの通りに動いている」
「……ふうん」
シナリオと言った。つまりこの世界に私を導いた何者かが存在する、か。
「それで、シナリオとやらを描いた演出家気取りの奴は次に私に何をさせたいのかしら?」
「好きにするといい。シナリオは確かにある、けどそれを君に教える義務は無いし、君も従う必要はない」
「……そう、じゃあ好きに行かせてもらうわ」
チェシャ猫に背を向け、立ち去ろうとした私に彼は声をかけた。
「ああ忘れていた。君がこちらに来た記念に、一つプレゼントを贈ろうか」
するりと姿を消したチェシャ猫は、次の瞬間には私の肩に乗っており、口に大ぶりのナイフを加えていた。
「ナイフ? 何故こんなものを?」
「意味なんて無いさ。道具そのものに意味なんてありはしない。使う者が道具に意味を持たせるんだ」
その言葉の意味はわからない。が、確かに受け取ったナイフはズシリと重く、何故か私の手に馴染むようだった。
チェシャ猫は私の肩からフワリと飛び降りると、空中でその姿を消した。
「アリス、俺はね別に君の味方というわけではないんだ」
頭上からかけられた言葉に、私はそっと上を見上げると、意地の悪いニヤニヤ笑いを浮かべた猫の首が宙に浮いていた。
「……何が言いたいの? あなたは私の敵だということ?」
「敵……ふふ、敵か。そんなことはないさ、俺は中立だ。与えられた役割上君に関わってはいるが正直俺は君にあまり興味がない。せいぜい面白いことをして俺の興味を引かせてくれると嬉しいな」
「あなたが何を言いたいのかはわからないけど……まあ今は気分がいいから聞き流すわ。プレゼントもくれたことだしね」
チェシャ猫に背を向けて歩き出す。
「どこへ向かうんだいアリス」
「さあ、どこかしら。何処へ向かってもいいのだけれど」
「道を教えてあげようか?」
「結構よ、だって」
この世界はアリスの為にあるのだから
◇
ふわり浮かぶ猫の姿
ふわふわふわり
木の枝に飛び乗った
彼の姿は消えている
猫無き笑いが宙に浮かぶ
姿無き猫は今日も笑う
ふわり消えた彼は言った
「猫の無い笑いなんて洒落てるだろう?」
―――そして今日も世界は死ぬさ
◇
うっそうと木の茂った深い森の中、ぽっかりと開けた空間に柔らかな日差しが差し込んでいる。その空間には手作りの温かみが感じられる木製の椅子が数脚と大きな長テーブルが設置され、テーブルの上には香ばしい小麦の香る焼き菓子が、可愛らしい陶器の器に盛りつけられているのだ。
「そろそろ来ると思ったよアリス」
並べられた椅子の中でも一際背の高い椅子に腰かけた燕尾服の紳士、小洒落たシルクハットと気障な仕草でちょいちょいといじる。狂った帽子屋は満面の笑みを浮かべて来客を歓迎した。
「…適当に進んだつもりなのだけれど、この世界に来てから知り合いにしかあってないわ」
「そりゃあそうさ、君がソレを望んでいるのだから」
帽子屋の言葉に私は薄く笑う。
「掛けなよアリス。今度こそ一緒に紅茶を飲もうじゃないか」
勧められるがままに腰かけた私、その目の前に帽子屋が嬉しそうな顔をしてティーカップを並べた。
艶やかな白いカップに描かれたハートの柄、そのあまりの色鮮やかさにハッとなる。帽子屋が高い位置から注いだ紅茶が、カップの底に当たって芳醇な香りを周囲にまき散らした。覚えのある、いつかの夜の濃いダージリン。
「召し上がれ」
そっとカップを持ち上げた。じんわりと掌に伝わる紅茶の温かみと、陶器の艶やかな感触が心地よい。
カップを傾け、ゆっくりと口に紅茶を流し込む。微かな苦みと共に広がる紅茶の香り、熱々の液体が喉を通り抜け、ほうと深く息を吐いた。
「どうだい私の自慢の紅茶は」
正直予想以上だった。今までちゃんとした紅茶というものを飲んだことがなかったが、こんなにも美味しいものだったのか。
「美味しかったわ、とても」
「そうか! それはよかった。よかったら茶菓子のクッキーもどうだい? これはとっても紅茶に合うんだ」
そういって笑った帽子屋の顔は、普段のうさん臭い表情とは違い、純粋に自分の自慢を褒められたことを喜ぶ子供のソレだった。
これは、前回紅茶を断ったのは悪いことをしたかもしれない。彼が何を考えているのかはわからないが、この笑顔を見る限り、紅茶に関しては一切の企みも何もなく、純粋な好意で私に勧めてくれたのだろう。
「少し、あなたの事を勘違いしていたかもしれないわね……」
「そうかい? 私はそうは思わないがね」
帽子屋はシニカルな笑みを浮かべると、ご自慢のシルクハットをさらりと撫でた。
「君が私に対してどのような印象を持っていて、どのような理由でそれが誤りであったと感じたのかは知らないが、それはおおむね正しく、そして著しく間違っている。そも、私には明確な自己という概念はなく、与えられた役割をこなすだけの現象に過ぎない。故に、君の見たままの私が私であり、それ以上の意味など持ち合わせていないのだよ」
「……よくわからないわね、結局のところあなたは何者なの?」
「私は帽子屋だよ。それ以上でも以下でもない。気障で素敵なマッドハッターさ」
帽子屋はおどけたようにそう言うと、スッと立ち上がる。
「さてアリス、私には時間が無限にあるが、君にとっては有限だ。サッサと成すべきことをするとしようか」
「成すべきこと? それは一体何かしら?」
その問いに、帽子屋はふむと頷くと、しげしげと私の姿を眺めた。
「そうだな、まずはその血だらけの服を何とかしよう」
自分の服を見下ろしてみると血で真っ赤に染まっている。この世界に落ちてきた時に負った怪我によるものか、もしくは車にはねられた時のものだろうか。
「いいけど……あなた、女性用の服なんて持ってるの?」
「いやいや、私が持っているのは女性用の帽子くらいのものさ。何せ私は帽子屋なのだから、女性用の服は当然服屋が持っている」
帽子屋は深く一礼をするとニヤリと笑った。
「さあアリス、君に相応しい衣装を用意しよう」
◇
どうやら確かなのはやはり白い猫は関係がなかったのです。
だって白い猫は母猫に顔を洗って貰っていたのですから
だから白い猫が悪さをする筈がないのです。
では、一体誰がこんなことをしたのでしょうか
わたしは考えます
わたしは考えたのです。
「そうだ、きっとくろいねこのしわざだわ」
だからわたしは黒い猫を殺すことにしました
だって白い猫は悪さをしていないのですから
◇
「いいじゃあないかアリス。その服は君によく似合っている」
帽子屋が手放しで絶賛する中、私は少しげんなりしながら自身の恰好を鏡越しに見つめていた。
上質な青い布地で作られた品のよいエプロンドレス。それは過ぎるほどにアリスの服であったしどうしようも無く私には似合っていないのだ。鏡の中では可愛いエプロンドレスを身に纏った目つきの悪い黒髪の女がこちらを睨み付けている。
「確かにアリスの服としては正しいかもしれないわ。でも私にはこの服は合わないと思うのだけれども」
「いいや、気にする事はないよアリス。今は気に入らなくてもすぐに気が変わるさ。そう、すぐに君にぴったりになる」
含みを持たせたクサイ台詞に意味ありげな微笑み、しかしこの男は常にこんな調子なので私は気にしない事に決めた。
「納得してくれたようでなによりだ。さて君、この服は洗濯しておいてくれたまえ」
帽子屋は私の脱ぎ捨てた服を拾い上げると、血に塗れたソレを側に控えていた人物に渡す。
奇妙な人物であった。体型からして女性、シンプルなモノクロのメイド服を身に纏い、しずしずと私の服を受け取った彼女は、のっぺりとした白磁の面をつけていた。
「さっきから気になっていたのだけれど、彼女は誰?あなたのお友達?」
「ああ、コレかね。コレは何でも無い。君が気にすることはないよ」
・・・・・・コレ?
「彼女があなたにとって何なのかは知らないけど、コレ呼ばわりは無いんじゃない」
ふむ、と帽子屋はあごに手を当てた。いつものようにもったいぶっている訳では無く、どうやら私に説明する言葉を慎重に選んでいるようだった。
「うん、そうだね。コレは・・・・・・いや、彼女は本当に何でも無いんだ。ここにいないように扱ってもらっても全くかまわない。なんて言うかな・・・・・・そう、”役を与えられなかった者達”だ。故に名前は無い、この世界において彼女たちはいてもいなくても物語に影響は無いのさ」
「・・・・・・役を与えられなかった者達?」
ぞわりと何故か背筋に寒気が走る。理由は分からない、”役割を与えられなかった”という単語が非常に不愉快だった。
「まあ、本当に君が気にする事はないんだアリス。なんたって君にはやることがあるのだから」
まだ釈然としなかったのだが、帽子屋の言葉に無視できない単語が聞こえて思わず聞き返す。
「やるべき事? 何ソレ、私の記憶が確かなら初耳なのだけれども」
「おや、言ってなかったかな。失敬、私としたことが説明をし忘れたようだ。・・・まあいいか、これから移動しながらするとしよう。何せ時間は有限なのだから」
そして帽子屋は何も無い空間に手をかざす。ぼんやりとした光が彼の手の先に集まり、ゆっくりとソレは扉の形を作っていく。
「おいでアリス」
帽子屋に手を引かれ光の扉をくぐり抜ける。最後に振り向くと、のっぺりとした白磁の仮面がじっとこちらを見つめていたのだった。
◇