日常からの逸脱
◇
チックタック
時は刻まれる
チックタック
彼女はどこに?
チックタック
私が刻む
チックタック
世界を刻む
チックタック
チックタック
チックタック
―――そして世界は死ぬのだろう
◇
憎らしいほどの快晴。澄み切った朝の空気が寝不足の私を無性に苛立たせる。
「大学……行かなくちゃ」
その行動に意味など感じられず。その行為に目的など何も無いのに、私は今日も真面目に大学に通う。中途半端だ、いっそ大学など辞めて引きこもりにでもなればいいのに。
「それでも……私の世界は此処だから……」
このつまらない世界で生きている私には、この世界のルールに抗うことなどできない。ああ、なんと歪な存在か、とっくに私の心はあの世界に居るというのに体という牢獄に捕らわれて身動きが取れないのだ。
重い体を引きずるように家を出る。頭が、痛い。小人が私の頭蓋骨の中に入り込んで、スプーンで脳みそをぐちゃぐちゃとかき回しているかのようだ。気を紛らわす為にぐるりと周囲を見回した。
青い空、にょきにょきと地面から生えている不細工なビルの数々、何かに追われるように急ぎ足で行きかう人々、銀の懐中時計を持つ白い兎がニヤリと笑った……。
「……兎?」
トランプ柄の燕尾服に身を包んだ白い兎。銀色の懐中時計を確認し、胸ポケットにしまうと私に向って語りかけた。
「おいでアリス。時間だよ」
そして兎は人ごみの中へと飛び込んでいった。
「っ待って!」
なぜだかは私にもわからない。けど、ここで兎を追いかけなければ、私は一生後悔するような気がしたのだ。
「待って! ねえ、待ってってば!」
兎はすばしっこく人と人の間をすり抜けて、少しでも遅れると見失ってしまいそうだ。走る、走る、走る。ドキドキと胸の鼓動は早く鳴り、頭痛は最高潮に高まっている。それでも、足を止めない。ここで立ち止まったら、もう……。
人ごみをかき分けてかき分けて、兎はポーンと車道へと飛び出した。
あれ? っと疑問に思う間もなく、私の体も兎を追って車道へと飛び出した。
周囲の人々が何かを叫んでいるのが聞こえる。
景色が急にスローモーションで流れ出す。
車道へ飛び出した私の体、けたましく鳴り響くクラクションの音、ゆっくりと音の鳴る方向へ視線を向けると、焦った様子のドライバーと車が私に迫ってくるのが見えた。
思考が加速している。体が脳みそに付いていかない。加速した思考で必死に車を回避しようとするも、体はピクリとも動かず、そして私は車にはねられたのだ。
衝突の瞬間は覚えていない。気が付くと私は仰向けに倒れていて、周囲には人だかりができていた。
右腕と両足の感覚が無い。ただ、体から絶え間なく血が流れ出している事がわかった。寒い、そして怖い。静かに、だが確実に、死が私に近づいていた。
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………………………………………………………………
………………………………………………………………怖い?
なぜ、私は死を恐怖しているのだろう。嫌いな筈なのに、憎い筈なのに。この世界になんて、なんの価値も感じていない筈なのに、私は今、死ぬのが怖いと、そう感じているのか。思考が加速していく、私は考える、永遠にも思えるその一瞬の時間を。
ああ、そうか。そういう事だったのか。
「……はは、ははは。あはははははははははははぁ!」
血を吐きがら、私の口からは自然に笑いがあふれ出た。理解してしまったのだ。何故、こんなにも世界が憎いかを、何故、私が死を恐怖しているのかを。自身の胸の内に渦巻いているドロドロとした感情の正体、それは限りなく歪な自己愛であったのだ。
そう、私は愛していたのだ。自身の事を。誰よりも深く、狂うほどに激しく。
だからこそ私はこの世界が嫌いだった。何一つ私の思い通りに事が運ばず。誰一人、身を焦がすほどに私を愛してくれないクソッタレなこの世界。だからこそ私はあの世界に惹かれたのだ。隅から隅までアリスのために作られた理想郷。世界そのものが個人の為にあるという矛盾。
ああ、でも私はアリスではない……。
嗚呼、憎い。
ニクイ
にくい
憎い
憎しみという感情が何なのかすらわからなくなるほど、全ての事情が私を苛立たせる。この両の目を抉り出せば世界は消えるのだろうか?
―――ほら、空の青が零れ落ちるよアリス。
見上げた空がドロドロと崩れていく。降り注いだ青が世界を染め上げた。
―――既に扉は開かれた。神崎友梨亜、私は君を歓迎しよう。君のその純粋な狂気は、君がアリスに成り得る資格だ。さあ、君の狂気で私をもっともっと魅せてくれ。
声が聞こえた気がした。
―――さあアリス足りうる者よ
視界が……だんだん…………暗く………………
――――――ワンダーランドへようこそ
◇
―――落ちる落ちる落ちる落ちる。
いや、それとも昇っているのだろうか。内臓が安定を求めて私の腹の中で反乱を起こし、脳みその中では小さな小人が暴れている。永遠に続く吐き気のするような落下の感覚。
ふと周囲を見回すと、どうやら落ち続けているのは私だけでは無いようで、私は改めて一緒に落ち続ける同類たちに目をむける。
かわいらしい熊のぬいぐるみ、使い古されて黒ずんだ木製の書き物机、薔薇の切り花がバラバラと……。血にまみれた絵画、原形を留めていないおもちゃ、足の折れた椅子。
視界がぐにゃりと歪む、バラバラになった絵本ひび割れた窓ガラス奇怪な笑い声をあげる観葉植物羽ペンは踊り時計は時を刻まない…… 狂気が脳みそを侵食する狂ったような叫び声が鳴り響く わたしはだぁれ? わたしというそんざいがかきかえられているようなかんかく そう、わたしはしんだのだった
わたし は
わた し の なまえ
私の名前は
アリス
落ちる落ちる落ちる。
「あは、あはははははははは」
私の口からはまるで穢れを知らぬ少女のような、純粋な笑い声が響いている。
永遠に続くかと思われた落下は突然の終わりを迎える。急に目の前に現れた地面に私は勢いよくぶつかり……ぐしゃりと全身の骨の砕ける音が鳴り響いた。
一瞬、気を失っていたのだろうか。目を覚ました私は、全身の骨が砕けて動けない現状を悟る。
「ふふ、うふふ」
口からは何故か笑いがこみ上げてくる。不思議と痛みは気にならなかった。今の私には全身を支配する強烈な痛みすら愛おしく感じられる。
「大丈夫、すぐ動けるようになるわ」
だから何も心配することはない。だって私はアリスなのだから……。
ビクンッ、と痙攣するように四肢が震えた。落下の衝撃により砕けた骨がまるで意思を持っているかのように再生を始める。
右足、左足、背骨、肋骨、両腕……全ての再生が終わったのを確認した私はそっと立ち上がる。嘘みたいに体が軽い、まるで体なんて無くなってしまったよう。
「さあ、物語を始めましょう!」
退屈な序章は終わった。これからは私の、私だけの、私のための、サイッコーに素敵な物語が始まるのだ。
◇
深い深い眠りの中、ソレはある変化を感じていた。静かな水面に小さな石を投げ込んだかのような小さな変化。しかしそれは波紋を生み、やがてはこの世界に無視できぬ大きな変革をもたらすであろう。そんな予感がソレの眠りをわずかに揺らがせる。
まだ、その時ではない。
しかしいずれ、確実にその時は訪れるだろう。
ソレは約束されたその時まで静かに眠る。「終焉」と呼ばれるソレは、世界の深くでそっと涙を流した。
あぁ、アリス。君は何故この世界に来てしまったのだ……。
◇