3 悩める日々(2)
「じゃま!!」
そう高々に発せられた言葉と共に、身体を支える事が出来ないほどの衝撃が私を突き飛ばした。そばに居た侍女から「お嬢様!」と驚いたように自分の名が呼ばれる。
自分の小さな体が勢い良く傾くのを感じながら、私はまたか、と乾いた笑みを漏らした。
「ぎゃんっ!」
瞬間ビタんっ、という重低音が広くて長い廊下に響いた。
勿論私が廊下の床に顔面から突っ込んだ音である。体が幼いからか、前世で一人でに転けた時より遥かに音が軽い。
…一応補足として前世の私は断じてドジと言われる人柄ではなかった、とだけ言っておこう。それにしても変な声が出てしまった。お恥ずかしい。
「いたぃ…」
「申し訳ございませんお嬢様! 咄嗟に反応出来ずっ…、お怪我はございませんか?」
「……、うんっ…!」
鼻頭と額がじんじんと痛むのを感じながら身を起こし、慌てて駆け寄る侍女に大丈夫だと言う意味を込めて笑いかける。然し、私は彼女に笑顔を向けた筈だが、彼女は困ったように眉を下げてしまった。
ああ、抑えたつもりだったけれどやっぱり駄目だったか。
やはり今の私が感情をコントロールするのは難しいらしい。悔しいが喉の奥がひくりと鳴り出すのも時間の問題だろう。
「ふふふ、あんたがわたしのじゃまするからよ!」
そんな私と侍女のやり取りを見ながら笑っているであろう子どもが一人。
腰に手を当てて、まるで犯人を示すかの様に勢い良く出された人差し指を私に向け、決め顔をかます憎たらしい小悪魔がこそに居た。後ろに体を縮こませたルーナを引き連れて。
私は侍女の手を借りて立ち上がると、揺らぐ視界をクリアにする為袖で何度も目元を拭う。我慢していたのに途中で「ひぐっ」と切なくも嗚咽が漏れてしまった。もういいや、致し方なし。私は子どもなのだ。痛いから泣いて何が悪い。
何度も拭い続けて、そうしてやっと涙を止めて、私は私を押した張本人と向き合った。
そこにはまぁ予想通りと言いますか、ふん、と偉そうにふんぞり返るルティアーヌが仁王立ちしていた。ここ数年で出来た少しの身長差のせいか、見下ろされてる気がするのは気の所為ではないだろう。
「いたいです、おねえさま」
「ろうかのまんなかをあるいてるおまえがわるいのよ」
「おねえさまもまんなかをあるいているわ」
「わたしはおまえの"あね"なのだから、あたりまえよ。 ねんちょうのものはうやまうようにって、フリーダがいっていたわ」
そう言って悪びれもせず横を向くルティアーヌ。
その態度に、ムッとした私は一言物申そうと口を開いた。が、ツンと澄ますその横顔でさえ、絵に書いたような美しさにしてしまうそのルティアーヌの美貌に、私は口を噤んだ。
くっ…!顔がいい…!
そう、今までもそうだった。明らかに誰でも怒りたくなる行動と態度を取られている筈なのに、あの顔を見るとどうしても気持ちが逸れてしまうのだ。そのせいで、私は碌に彼女に不平不満を言えたことがなかった。
私は早々に文句言うことを諦め、ルティアーヌの手前ため息を押し殺し、彼女の後ろで控える侍女へと目を向けた。
弱りきった顔をしていたルーナは、私と目が合うと心底申し訳なさそうに肩を窄める。そんな彼女に思わず苦笑を漏らす。
彼女にルティアーヌの侍女をやらせるのは負担が大き過ぎるのではないかと思う。
全く、ルーナの今の顔をルティアーヌにも是非拝見してもらいたいものだ。そうすれば少しは罪悪感というものが芽生えたりしないだろうか。…しないだろうな、うん。
恨めしそうに、けれど半分見惚れながらも私がルティアーヌの横顔を見ると、それに気が付いたルティアーヌが顔を顰めた。
「何よ、そのかお」
「…いいえ、なにも。 おねえさま」
凡そ六歳にも満たない子ども達がするやり取りとは思えない言葉使いだなと思いながら、ルティアーヌに軽く相槌をうつ。これはこれ以上口出しすると癇癪を起こしかねないルティアーヌへの妥協策だった。
「…? おねえさま?」
それなのにどうしたことか、ルティアーヌの機嫌は更に悪くなったのだ。
いきなり険しくなった顔に、ついに今日初めての癇癪が来るかと私も侍女の二人も、咄嗟に構える。ぷるぷると怒りで震えだしたまだ小さな体が弾けたように動き出すのを待ちながら。
だが、それは気鬱に終わった。
「もういい!」
ルティアーヌはギロりと私を睨めつけると、暴れるのではなく、体を反転させ走り去ってしまったのだ。
一瞬の間が置かれ、一番最初に動いたのはルーナで、慌ててルティアーヌを追いかけて廊下の先へ消えていく。
廊下に取り残された私は、そんなルティアーヌ達の背中を見ながら、暫く惚けていたのだった。
「…お嬢様」
「……」
「リアフィーナお嬢様!」
「…はっ!」
いけない、初めての経験に頭が付いていかなかった。
どれくらいぼーっとしていたのだろう、ゆらゆらと優しく肩を揺らされてやっと意識が現実に戻る。ハッとして視線を戻すと、心配そうにこちらを見る侍女が居た。
本当は彼女に大丈夫だと笑いかける事ができれば良かったのだが、私は自分でも分からないほど脳内は焦りと困惑でいっぱいになっていた。
「どうしようレアル…! わたし、きっとおねえさまを泣かせてしまったわ…!」
私の切羽詰まった情けない顔に、今度は私の侍女――レアルが戸惑うような顔をする。
彼女からしてみれば理不尽に突き飛ばされ、泣かされるのは私の筈で、ルティアーヌは泣かす方なのだから無理もない。
だがルティアーヌは、今頃きっと泣いている。
根拠は無い。けれど彼女が後ろを振り返る瞬間、確かに顔が小さく歪んだように見えたのだ。
私はいつもの通り無難な選択をしたはずで、いつもならルティアーヌも不機嫌ではあるけれどそのまま部屋へ帰るはずなのに。
ルティアーヌの反応の意図が見えずにぐるぐると回る頭に、自然と目の前がぼやけてくる。
おかしい。何故私も泣きそうになっているのだろう。私は以前からこんなに涙腺が緩かっただろうか。
「リアフィーナお嬢様、落ち着いてくださいませ」
「でも…っ、」
「大丈夫です。 深呼吸をしてみてください」
私は勢いで反論しかけるもレアルの言葉に頷き、小さな肺に沢山の空気を入れるべく息を吸った。何も考えず、心を無にして息を吐き出す。それを数回繰り返した。
「ありがとう、レアル」
「いえ。 落ち着かれましたね」
うん、確かに大分落ち着いた。空回っていた思考は元に戻り、視界がクリアになった気もする。
深呼吸すると気持ちが落ち着くって、この世界にも常識としてあるんだなと、そんなことを考える余裕さえできた。深呼吸ってすごい。
「お嬢様、ルティアーヌ様にはルーナが着いております。 あまりお気になさらず…」
通常の表情に戻った私に、レアルが言う。
彼女はいつも問題をおこすルティアーヌをあまり好いていないようだった。
「ううん。わたし、おねぇさまにあやまらなくちゃ…」
そんな彼女の言葉を半分遮るように呟く。それを聞いたレアルは反射的に「それはやめておいた方がよろしいかと」と無表情になりつつ答えた。
「どうして?」
「…お嬢様なら、ご自分でお分かりになるのではないでしょうか。 薄々気がついておられるのでしょう?」
…えー。前々から思ってたけれどレアルは少し意地悪だと思う。私まだ三歳だよ?そんな子に自分で分かるでしょなんて丸投げする?そうじゃなくても私は一応侯爵令嬢なわけであって、レアルよりも身分は大分高いはずなのに。
けれど自分で考えさせる事を優先するその姿勢は好感が持てる。正直、私みたいな子ども相手でも真剣に向き合ってくれるから有難い。レアルを侍女に選んでくれたお母様に感謝だよ。
なにより彼女が私を大切に思ってくれていることを私も理解している。
話は逸れたが、レアルの言う通り私にも思う所はある。
恐らく、ルティアーヌは寂しいのだと思う。
彼女からしてみれば、僅か一歳で妹に母親を取られただけでなく、その嫉妬のせいで起こす数々の癇癪により使用人からも遠巻きにされ、子どもに無関心な父親には相手にしてもらえず、妹と喧嘩もろくに出来ないのだ。
家族から距離を置かれる疎外感。自分と向き合ってくれる人のいない孤独感。
それはきっと、彼女を歪めるのに十分な事だったのだ。
日に日に増していくそれらの感情をどうにかしたくて、でも出来なくて。誰かに興味を持って欲しくて我儘を言ったり、感情を抑えることが出来なくて癇癪を起こしたり。どれも上手くいくどころか、悪循環を生み出してしまったけれど。
だからきっと、あのいびりの数々はルティアーヌが私に出した信号なのだ。
「おねぇさまは…わたしと、おしゃべりがしたかったの?」
あえて喧嘩とは言わないけれど、つまりはそういう事だろうか。
思い上がりかもしれない。けれどそうじゃないかもしれない。
何故今まで気が付かなかったのだろう。私はルティアーヌをいつの間にか態度で軽んじていたのだ。
きっと彼女はそれに幼いながらも気が付いていた。姉という威厳さえ、自分には持てないのだと。そんな背徳感を無意識に感じていたとしたら?
ルティアーヌは子どもだ。自分の感情を誰に相談できようか。できるわけが無いのだ。だって彼女はまだ四歳児だ。
私にはレアルがいた。レアルが私と向き合ってくれるから、一人ではないと思えていた。
でも、じゃあ、ルティアーヌは?
ふと口から漏れた言葉に唇か微かに戦慄くのを感じながら、けれども十中八九確信を持って。
レアルの顔を見上げると、優しく微笑んでいる彼女の顔がはっきりと見えた。
「あなた様がそう思われるのならば、きっとそれが正解ですわ」
そんな風に曖昧に答える彼女は、やっぱり指導者に向いているなどと考えながら、私は笑みを返した。
「こんどはわたしからたくさんいってやるんだから!」
「あまり無理はなさらずに」
「わかったわ!」
それならば確かにルティアーヌに謝りに行くのは筋違いだ。彼女は私と、見かけの仲良しごっこなどではなく、正面からのぶつかり合いを望んでいるはずなのだから。
直ぐに謝るのは、確かに簡単かつ穏便で、良いことなのかもしれない。けれどそれはきっと、時と場合によっては相手を軽んじる行為でもあるのだと、そう、気がつけてよかった。
さて、長年の恨み年長者の知恵を使って存分に返してやろうじゃないの。
きっとこれから私はもう、彼女を面倒臭いとは思わない。
*