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千里眼の彼女

作者: 判子

「孝介、私たち別れない?」

 サイゼリヤでミラノ風ドリアを食べていたら、1年付き合っている恋人の凛子に別れを切り出された。

「なんで」

「だってあなた浮気したじゃない」

 すくっていたミラノ風ドリアをこぼしてしまった。当たっている。先週の晩、確かに僕は彼女と異なる女性を一度だけ自宅に泊めた。

 でもなぜ発覚したのだろう。痕跡は完全に隠滅したし、そもそも彼女をその日以降に家に入れていない。それどころか凛子とは不貞以降会っていない。

「なんで分かったの」僕は観念する。

「私には千里眼が使えるの」


 私には千里眼が使える、というのは彼女の口癖だった。実際に彼女の勘は鋭く、僕の行動や考えはことごとく見透かされた。

 凛子と出会ったのは新卒入社した年の冬だった。

 休日に図書館に出向き、萩原朔太郎全集の四巻を僕が読んでいたところ、偶然向かいの席で凛子が五巻を読んでいたのだ。彼女の読了に合わせて僕が声を掛けたのが馴れ初めだ。

 全集の続きを欲していただけで、まったく下心がなかったかと問われれば答えに窮してしまう。窓から差し込む陽だまりの中、読書にふける机越しの凛子は、遠目で見ても美しかった。長い黒髪は艶やかさが感じられ、切れ長な目には聡明さと芯の強さが宿り、肌は陶器のように白く滑らかだった。

「次、読ませてもらってもいいですか」

 彼女の本を指さした僕に、彼女は少しキョトンとした顔をしたが、すぐに私の手にしている書籍に気が付き、にこりと微笑んだ。

「いいですよ。面白いですよね、萩原朔太郎」

「そうですね。僕はベタですけど『月に吠える』が特に好きですね」

「そうなんですか。私もなんです。『純情小曲集』と同じくらい好きです」

 驚いた。僕と嗜好が似ている。訊いてみると、萩原朔太郎が執筆したアフォリズムや随筆まで読破しているらしく、益々僕と似ている。

 その場で意気投合した僕達が、神奈川近代文学館で催されている萩原朔太郎企画展に行く約束を取り付けるのは、いたって自然な流れだったと言えるのではないだろうか。

 その後の恋愛事情は敢えて語るほど特別なことはないだろう。企画展の帰りに共に食事をし、共通の話題で盛り上がり、連絡先を交換し、四回目のデートで告白し成功したというだけだ。いたってありふれている。

 ありふれていないのは彼女の美貌と、明晰な頭脳、卓越した観察力だ。出会った当時、凛子は僕の一歳年下の私立大学医学部の4年生で、主に内科の座学と演習がメインの学生だった。日頃、患者と対面で診療の実習を行っているだけあり、僕が彼女と会っていない時に僕がどのような生活を行っているか、すぐに診断されてしまう。

「指先がむくんでるけど昨日は夜遅くまで飲んでたんじゃないの?」

「肌質が悪いけど最近寝不足じゃない?大丈夫?」

「目が疲れてるみたいだけど、ビタミンが不足してるんじゃないの?どうせ外食とか同じようなコンビニ弁当ばっかり食べてるんでしょ」

 僕の病巣は彼女にたちどころに見抜かれてしまう。僕が彼女の慧眼に驚くと、凛子は決まって「私には千里眼が使えるんだ」とおどけて得意気になる。そんな彼女もまた可愛い。

 凛子は埼玉県川越市にある実家から大学に通っていて、門限が厳しい。僕の家で二人より添っていても、夜9時には彼女は実家に帰る。僕が少しごねてみても家庭の戒律には勝てない。

「もっと一緒に居たかったな」

「ふふ。私も孝介と一緒に居たい」

「離れててもずっと凛子のこと考えてるからね」

「嬉しい。私もあなたのこと千里眼使ってずっと見守ってるね」

 僕のアパートからの帰り道は決まってこんな会話をする。六畳一間家賃6万円の「メゾン赤羽」102号室を、彼女は「世界で一番好きな場所」と言って大学の忙しい合間に通ってくれるが、彼女を最寄り駅の改札まで送る時はいつも切ない気持ちになる。

 彼女との生活は円満で穏やかなものだったが一度だけ喧嘩をした。付き合って11か月目、別れ話の1か月前だ。しょうもない原因過ぎて思い出すのも嫌だが、要は凛子が大学5年生になり臨床実習が増え、会う頻度の減った彼女のスケジュールに僕が我慢できなくなっただけなのだ。

「会いたいって言われても、私だって大学で忙しいのよ」

「まるで僕が忙しくないみたいじゃないか。僕だっていつも遅くまで残業して営業成績上げようと頑張ってるよ」

「お疲れ様。それならなおさらお互いの時間に専念すべきじゃない」

「会いたくないってことじゃないか」

「そうは言ってないでしょ」

 互いを尊重できなくなった恋愛に未来はない。二人はそれ以来会いづらくなり、僕は専門学校を出たばかりの派遣の女の子を酔った勢いで自室に泊め、抱いた。


「私には千里眼が使えるの」

 そう孝介に言った私は席を立った。

 唐突な別れ話に動揺した彼はミラノ風ドリアをすくった姿勢のまま口をパクパクとしている。

 孝介のことはずっと好きだった。彼が私を認識し交際するずっと前から。

 孝介を知ったのは彼がまだ大学生の頃だった。たまたま他校の文化祭に行った時に二言三言話しをしたのがきっかけだった。彼は覚えていない。

 柔和な表情、少し癖のある黒髪、優しげな眼、筋の通った鼻。初めて見たときに一瞬にして恋に落ちてしまった。

 それまでは信じていなかった一目惚れというやつだ。

 元より研究者気質な私は彼の素行を調べた。彼は誰でどんな学部に所属し、どんな交友関係を築いているか、そして度々図書館で読んでいる詩歌の趣向。

 彼と話せた時、趣味を共有するため萩原朔太郎を読みかじった。正直面白くなかったが、まだ見ぬ孝介のためだ。

 交際相手がいないと知った時には自分にもチャンスがあると舞い上がったものだ。しかし元来人との距離を計るのが下手な私はどうしても彼に接することができなかった。それに相反して彼に近づきたい気持ちは高まる一方だった。

 そんな中、転換期があった。孝介が就職し一人暮らしを始めたのだ。実家から引っ越し業者を尾行し新居を特定するのは易いことだった。

 図書館で偶然を装い孝介に声を掛けてもらう瞬間が一番緊張した。彼が私に気付くまで向かいの席に座り続けようと考えていたが、その必要はなかった。初めて彼と対面に座った時に声を掛けられたときは運命を確信した。

 ここからが孝介の知っている私。

 それからの日々は毎日が幸せだった。二人で色んな場所を訪れたし、彼の家にも幾度となく訪問した。二人愛を交わした後の別れ際には胸が痛んだが、好き同士だからこその心地よい痛みだ。

 改札まで彼に送ってもらい、お互い手を振って、私は改札内の階段を上がる。

 ここまでが孝介の知っている私。

 彼が自宅へ引き返すのを確認し、入ったばかりの改札を引き返す。

 一定の距離を保ちつつ孝介の後をつける。

 孝介がアパート自室に入る。

 メゾン赤羽102号室に明かりが灯る。


 私はメゾン赤羽202号室の自室に入る。


 私の本当の現住所が自分の真上の部屋だと、孝介は知らない。

 川越の門限が厳しい実家で暮らしていると彼は信じているが、真実はそうではない。私は孝介が一人暮らしを始めたタイミングで上京したのだ。大好きな彼の真上の部屋に。

 家に帰ると床下の穴に目を向ける。直径1センチに満たないこの穴は私が開けたもので、孝介の部屋の吊り電灯の裏につながっている。普段は彼の部屋の天井に偽装した蓋をしているため、下の部屋からはよほど注意しなければ気が付かないだろう。

 そこに内視鏡ケーブルを潜り込ませる。内科の演習で得た着想と技術が活きる。するすると管と先端のカメラを操作する。内視鏡と接続されているパソコンのディスプレイに下階の孝介の様子映し出される。

 無防備な彼はとても可愛い。飲みすぎも、寝不足も、自室での個食もこの千里眼があればなんでも覗き見ることができる。付き合う前からこのカメラで観察しているがいつまで経っても飽きない最高の眼だ。

 一週間前、彼が違う女を私の眼の前で抱くまでは。

「えー。でも孝介さんってぇ。彼女さんいるんじゃないですかぁ」

 珍しく下の階から話し声がしたので、その日は急いでケーブルを階下に垂らした。

 パソコンのモニターが映し出したのは知らない女と親しげに帰宅する孝介の姿だった。

「彼女はいるけど最近喧嘩して、それから会ってないよ」

「えー。孝介さんかわいそう。慰めてあげたいな」

「それにしても今日は本当に泊っていってくれるの」

「うん。最初からそのつもりだったしぃ」

 彼女が鼻にかかる声で孝介の腕に絡みつく。そのままベッドになだれ込む。

 その後のことは二度と思い出したくない。


 サイゼリヤから出ると彼は駅まで送ると言ったが私は断った。私を引き留める言葉をいくつか彼は並べていたが、私の耳には一切届かない。

 駅に向かうと見せかけて遠回りをし、メゾン赤羽202号室に帰った。

 孝介が部屋を帰ったのをカメラで確認する。ベッドでうなだれている。

 後悔しても許すつもりはない。

 穴からケーブルを引き抜き、代わりにペットボトルの口を穴に押し当てる。


 一週間かけて集めた、ゴキブリやムカデたちが穴に吸い込まれていくのが見えた。



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