春
桜が舞う。
冬明けの弱った体に眠気を誘ういやらしい暖かさ。
春がきた。
誰もいない道を足早に歩く篠原菖蒲の小さなポニーテールが大きく揺れる。
四月八日。
関東圏では多くの学校がこの日に迎える。
菖蒲の通う埼玉県立里山高校も例外なく今日、始業式を迎える。
自宅から最寄りの駅から電車に乗って一度乗り換え、五駅。
家からは決して近いとは言えないが、駅からは歩いて七分ほど。
門の前に立って深呼吸する。
「おはよう。早いな、クラス替えが気になるのか」
そこで後ろから背の高い男の人が笑いながら声をかけてきた。
「おはようございます。そんなんじゃないですよ!」
私が一年生の時に担任だった栗田だった。
一八〇センチを超える長身からは想像出来ない高めの声が特徴でそれが女子生徒になかなか受けているのだとか。
私の反応に声をあげて笑いながら、あっちだぞ、と体育館の方を指さして去っていった。
おそらく新しいクラスの表が体育館に貼ってあるのだろう。
クラスの表はわざわざいつもより三〇分早い電車に乗ってまで早く学校に来た理由の一つではあるので早速体育館へ向かった。
体育館に入ると壁を一周少しずつ隙間を空けて大きな紙が二十枚ほど貼ってあり、二人の先生と目が合った。
こちらの二人も早いですね、と声を掛けてきてそれにおはようございますと頭を下げた。
二年の表は入口から正面のステージとその脇に貼ってあった。
無難にA組から自分の名前を探すことにすると、早くも目当てのものが見つかった。
十九番 篠原菖蒲
二〇番 鈴木蓮
他の友達を見るよりも前にこの名前に私の意識は釘付けになった。
一年生の頃からそれなりに友達は多い方だったし、人数は多かったが学年全員を名前を見れば顔が思い出せる程度までにはなっていた菖蒲にとってそれが今日一番の目的だったことは一目瞭然だった。
「鈴木蓮くん……か」
気づけばその名前を呟き、同時にため息をついた。
始業式は八日の今日だが、前日である七日には準備登校という日があった。
サボる生徒も少なくないが菖蒲はしっかり登校していた。
いつものように仲の良い同じバスケ部の友達と帰ろうとした時に、三人の先生達が転入生について話していたのを偶然耳にした。
早く転入生と話したかった。その一心で苦手な早起きをしてまでこんな早くから学校に来たのだ。
しかし、よく考えれば転入生が自分達と同じ時間に一人で登校するわけないなんて簡単なことに今更気付いたのだ。
こうだから頻繁に周りから落ち着きがないとか周りが見えてないなんて言葉を掛けられるのだろう。
何のために早く来たのか。
自分が馬鹿馬鹿しくなって菖蒲はそそくさと今知ったばかりの自分の教室に行き、自分の席について、足りない睡眠時間が気候と合わせ余計に自分の意識を徐々に奪っていった。
「おーい、菖蒲さーん」
聞いたことのある声が私の意識を引き戻した。
重い瞼を開き、顔をあげた先にはいつも一緒にいる咲が机に手を付いて前の席から私の顔を覗き込んだ。
咲はバスケ部の友達で一年時に同じクラスでさらに苗字が潮田なので席が前後だったということもあって今では高校一番の友達だ。
そういえばよく表を見なかったが今年も目の前のこの子と同じクラスのようだ。
その事は素直に嬉しかったし安心した。
おはようございます、と笑いながら言う咲に少し怒ったような顔をして見せながら、もうとまたため息をついた。
「どうかした」
咲がにっこりと聞いてくる。
この顔で聞いてくるのはたいてい答えがわかっているのにわざとの時だ。
それでも学校に早く来てしまったことを伝えた。
「あー。例の転入生?」
まだにやにやした咲は私が頷くのと同時に声を出してげらげら笑った。
むすっとして、騒がしくなった教室でふと振り返ると後ろの席には誰もいなかった。
「ほらほらー。席ついてー」
聞きなれた高い声と共に見慣れた背の高い男の先生が入ってきた。
ガラッと古い木の扉を爽快に閉めたところでそれを見た気がした。
扉の中央にある細長い窓を凝視する。
前の咲が振り返ってにっこり私の目を見た。
言わずとも言いたいことはわかる。
今一瞬だが揺れる狭めの肩が見えた。
栗田先生がよくある自己紹介を始めたが、私の意識はあの一枚の扉の向こう側に釘付けだった。
五分程度の長めの自己紹介を終えた栗田が唐突に大事な話がある、と付け加えた。
「入って」
同時にガラガラと古い木の扉がゆっくりと開いた。
クラス中の視線が一点に集まる。
視線を独り占めした細いがしっかり鍛えられていそうな体をした髪の長めな男子生徒が入ってきた。
栗田に自己紹介を促された男子生徒が自分について話し始めた。
「鈴木蓮と言います。福岡の方から引っ越してきました。これから宜しくお願いします」
とても簡単な自己紹介を終えた男子生徒にクラスからはかっこよくない?やら髪長いなといった外見に対する感想がこそこそと聞こえてきた。
菖蒲も鈴木蓮という男子生徒に想像を膨らませた。
栗田に促されて菖蒲の後ろの席についた蓮は鞄から四冊の本を机の中に閉まって顔を上げた。
読書好きなのかなと増えたデータを整理した。
「じゃあ二年A組四十二名!先生は何でも一生懸命やらなきゃ意味が無いと思ってる。まずは五月の体育祭優勝に向けて頑張ろう!高二なんだから家でも勉強忘れず、するんだぞ」
最後に急に低くなった担任の声にクラス中から悲鳴とも取れる声が上がった。