拾い猫
仕事帰りの深夜、猫を拾った。
多分、疲れていたんだと思う。
プロジェクトのリーダーが勝手にぎちぎちの締め切りをOKしてきたせいで、毎日毎日深夜残業の繰り返し。
その日も結局午前様で、自宅最寄のコンビニで栄養ドリンクと売れ残りの適当な惣菜を買って、さあ帰ろうとしたところで、猫に声をかけられた。
「こんばんは」
古い街灯の下、黄色く安っぽい光に照らされた猫は、きれいな顔をした少女だった。
すっと通った鼻筋に、ぱっちりとした二重。しいていえば少し唇が厚めだけれど、全体的に幼く可愛らしい顔立ちの中、そこだけアンバランスなセクシーさがあり、かえって魅力的に映る。
「ねえ、お姉さん。猫……拾わない?」
そう言って笑った猫の唇の隙間からは、うっすら八重歯が覗いていた。
こうして、私と猫の二人暮らしがはじまった。
私が仕事に行っている間猫が何しているのかは知らない。別に掃除やら洗濯やらをしてくれるわけでもないが、特に家を散らかしたり悪さをしているわけでもないようなので、私も特に興味を示さない。
時間が合えば一緒に食事を取り、風呂に入り、寝る。それだけだった。
「ねえお姉さん」
ある日、一緒に入浴している最中に、猫が切り出した。
「あたし、新しいお洋服がほしいの。お姉さんのクロゼット、いっぱい隙間があるでしょう。借りてもいい?」
「お金はどうするのよ」
「自分でなんとかする。ね、場所だけ貸してくれればいいから」
上目遣いで猫がオネダリする。
確かに私のクロゼットはすかすかだ。元々着飾ることに意味が見出せず、仕事用のスーツとシャツのほかは、トランク1つに収まる分くらいしか衣服がない。
猫がどうやって「自分でなんとかする」のかはわからないが、これまでも、気が付けば猫は自分の身の回りのものを揃えていたし、きっとまたどうにかするのだろう。
「場所くらいなら、いいよ」
「やった!お姉さん大好き~」
調子のよいことを言って、裸の猫が抱きついてきた。
細いからだに、うっすらと乗った柔らかい脂肪。自信ありげに上を向くバストの感触が心地よく、私はそっと猫を抱き返した。
その翌日から、猫の物が少しずつ増え始めた。
洋服、靴、バッグ、化粧品……どれも私がこれまで必要としてこなかったものばかり。
クロゼットには、私のシャツやスーツ、ジーンズの横に、レースのついたスカートや、リボンやパールで飾られたニットが並びだした。
玄関には、黒い5センチヒールのパンプスの横に、赤いストラップシューズやフリルのついた色鮮やかなヒールスニーカーが。
どれも、私がこれまでの人生で身に着けたことがないようなもので、世の中にはこれほどカワイイが溢れていたのだなと感心した。
「よくこんなにあれこれ買ってくるね……こんなに必要あるの?」
休日、ソファに腰掛けて缶ビールをあけながら、私は猫に問いかけた。
猫はいつの間にやら買ってきた姿見の前で、ああでもないこうでもないとコーディネートを繰り返しながら、私に答える。
「必要だとか、必要じゃないとか、そういうのじゃないんだよ。お姉さんだって、今はシャカイジンだから関係ないのかもだけど、こういうの着てたでしょ?」
「ううん、全然」
「うそお」
ビールを飲みながら答える。テレビでは芸能人がくだらないクイズに興じていた。
「本当。だって必要ないでしょ。ちゃらちゃら遊ぶより、勉強とか、バイトとか……そういうことしてる方が自分のためになるし」
缶ビールについた水滴が指を滴って落ちる。火照った体には、その冷たさが気持ちいい。
「えー、でも……それって、楽しいの?」
私は遊びたいなーと言いながら、再び洋服をひっぱりだす猫の背中を見ながら、私は飲み終わったビールの缶をぐしゃりと握りつぶした。
翌日の月曜日は、思っていたより仕事が早く終わった。
猫を拾った頃進めていたプロジェクトのスケジュールがきつ過ぎたのか、チームメンバーが一人心を壊して退職してしまい、それからリーダーも無理な締め切りを設定することがなくなったおかげか、最近は割と時間に余裕があることが多かった。
退職した彼は、今は元気になっているのであろうか。真面目で実直な、つまらないけれど悪い奴ではなかった。
駅の改札を抜け、腕時計を見ると、ちょうど19時半を超えたところだった。
ホームには、自宅と反対方面、繁華街の方へ向かう電車がとまっている。
少し迷ったが、なんとなく家に帰りたくなくて、私はその電車に乗り込んだ。
電車は緩やかに走り出した。無骨なビルの明かりが遠くへ流れていき、次第にブルーやピンクの、目がちかちかする様なライトが増えてくる。
このあたりで一番の繁華街……一本中道に入ると歓楽街になっている駅で、私は降りた。
沢山の人が行きかっており、歩くだけでも一苦労だ。空腹のところで慣れない人混みにもまれたせいか、なんだか気分が悪くなってきたので、駅前のロータリーにあるベンチに腰かけて少し休んでから飲み屋にでも行くことにした。
大勢の人が、かわるがる駅から吐き出されては吸い込まれていく様子を見るのは少し面白かった。
猫背で疲弊した顔つきのサラリーマン、まだ肌寒い季節にも関わらず手足と胸元を思い切り露出した女性、きょろきょろとあたりを不安げに見渡す青年……。
人の波の中、ふと目に留まったカップルがいた。
男は30台だろうか。本人に特段目立つところはないが、若い女性向けブランドのものと一目でわかる、パステルカラーのショッパーをこれでもかとぶらさげている。
女はレースが山盛りひらめくスカートに赤いストラップシューズをはいて、男の腕に両腕を絡めてしなだれかかっている。
どこかで見たことがあるような……とじっとカップルを見つめていたら、女の方と目が合った。
猫だった。
猫はぱっと男から体を離し、しばらく何か言い合っていたかと思うと、男がぶらさげていたショッパーを全てひったくるようにして担ぐと、こちらに向かってきた。
「びっくりしたあ!お姉さん、今日はお仕事早かったんだね~」
こんなとこでお姉さんに会うなんて思わなかった、とはしゃぐ猫。
「猫、それ。その荷物……」
「これ?さっき一緒にいた人に買ってもらったやつだよ」
聞いてよ、あの人ね、ここで帰るなら今日買ったやつあげないとか言うんだよ。ありえないよね、と続ける猫。
きゃんきゃんとくだらないことを言い続ける猫に、私は次第に苛々してきた。
「今までのも、そうやって男に買ってもらったやつなの?バイトしたりとかじゃなくて」
「そうだよ?バイトなんてしないよ、だって買ってもらえるもん」
別に、猫がしっかりした子だなんて思ったことはなかった。普通の子は深夜に見知らぬ女の家に転がり込んで住み着いたりしない。
増えていく洋服なんかも、本気で猫が自分で働いて買ったものだなんて思っていなかった。
だが、私が一生懸命に働いている中、男と遊んで貢がせているところを目の当たりにしてしまうとだめだった。
知りたくなかった。苛々が収まらない。
「なんでそんな適当なの。ちょっと可愛いからって、若いからって、そんなのすぐダメになるよ。もっと、ちゃんと……ちゃんと勉強して、働かないと」
「お姉さんには関係ないでしょ」
猫もむっとして言い返してくる。
「関係ないことないでしょ。そんなの将来後悔するよ」
「今遊ばない方が後悔する!自分がしなかったからって、できなかったからって、コンプレックスあたしにぶつけないでよウザいんだから!」
その言葉を聞いた瞬間、私は猫の頬を叩いていた。
怒りで顔が熱いのに、指先はやたらと冷たい。
「荷物まとめて、出て行って!」
こっちを見てひそひそ言っている人ごみを掻き分けて、私は猫に背を向けて歩き出した。
気付けば、人通りも大分まばらになってきた。
苛つきに任せて歩くうちに、かなり駅から離れてしまったようである。
回りの建物も大きなショッピングビルや飲食店ではなく、少し規模の小さいオフィスビルが増えてきた。
コンプレックスをぶつけないで
まだ、猫のせりふが耳にこびりついている。
自分では考えないようにしていたけれど、猫の言うとおり、私は猫にコンプレックスを感じていた。
猫は可愛い。
私は可愛くないし、もう可愛くなれる年齢ではない。
昔から、恋におしゃれにと遊んでいた同級生は皆馬鹿にして、ひたすら勉強とバイトを繰り返した。
いい学校に行った。いい就職先を見つけた。
でも、仕事は思ったほどうまくいかない。でも、これしかしてこなかったから、もう他に道がない。今更、他に私を形作るものが見つけられない。
退職していった彼が参加した最後の飲み会で、べろべろに酔っ払いながら、自分がダメな奴なんだとしか思えない、と泣き出しそうになっていたのを思い出す。
きっと、あれは、いつかの私の姿だ。
じんわりと涙が浮かぶ。
細々とついていたビルの明かりが、涙が零れるのと同時に、ふっと消えた。
結局、家に着いたのは夜の12時を過ぎる頃だった。
多分、猫は家を出ただろう。
私は、明日からも仕事に行って、いつか自分が潰れる日が来ないことを願いながら、死ぬまでそれを繰り返すのだ。
鍵を開いて、つい癖でただいま、と暗闇に向かって声をかけてしまった。
そうだ、もう猫は……
「おかえり」
暗闇の向こうから、白い猫のからだが浮かび上がってきた。
「……まだ、いたの」
「うん」
猫は手を伸ばし、そっと私の指を引いて歩き出した。
私は、されるがままについていく。
猫は、私を姿見の前に立たせると、私のスーツを1枚1枚脱がしていった。
飾り気のない、ベージュのブラとショーツを身に着けた私が、姿見にぼんやりと映っている。
猫はクロゼットから、大きなリボンのついたワンピースを取り出すと、私の体にあてて見せた。
「お姉さん、似合わないね」
「そうね」
「あたしには似合うの」
「そうでしょうね」
猫は、私を少しだけ押し、今度は自分が姿見の前に立った。
ショーツのおしりのところには、花モチーフのレースとリボンが揺れている。
猫は屈みこむと、床に落ちている私のスーツを自分の体にあてて見せた。
「あたし、似合わないね」
「そうね」
「お姉さんには似合うのにね」
「まあね」
「お姉さんはこの先一生あたしになれないけど、あたしもこの先一生お姉さんになれないよ」
「うん」
「あたしとお姉さんは、全然違うから」
「うん」
「ダメになるときも全然違うから、どっちかいれば大丈夫だよ」
「……うん」
私はこの日、初めて自分から猫に抱きついた。
私はその夜、猫と一緒に風呂に入って、猫と一緒に床に就いた。
眠りにつく瞬間に聞こえた、あたしだって、お姉さんのことうらやましいって思うこといっぱいあるのよ、と耳をひっかく声が甘かった。