死にたい理由は
……くん、ほ………くん。ほし…とくん。
「星本君!」
僕はどれくらいの時間、気を失っていたのだろう。
耳元で唸る風の音に混じって自分の名前が聞こえて、意識を取り戻した。
目を開けると、そこには強い風で髪の毛を乱れさせながら、心配そうに俺の顔を覗き込む、立花さんがいた。
「大丈夫ですか?」
「あ……えと、大丈夫」
正直、あまり大丈夫ではない。
シャワールームに吹き荒れる風のせいで、立花さんのスカートがはためいている。立花さんは手でしっかりと裾を押さえつけてはいるが、それでも今の状態の僕にはかなり刺激が強かった。
「っていうか、なんで風が吹いてるの?」
なんとか気をそらすために、僕は立花さんに尋ねた。
「ドライヤーです。タオルは使いようによっては首吊りの道具になります……私はもう乾きましたので、外でお待ちしてますね」
気遣わし気な表情で言った後、立花さんはやっとシャワールームを出て行ってくれた。
立ち上がると、服の前の部分は乾いていたが、昏倒して床にくっついていた部分が、濡れていた。
しばらくの間温風に吹かれて、服がある程度乾いてから、僕はシャワールームの外に出た。
立花さんが、紙コップのお茶を用意してくれていた。
「あのドライヤーにあたっていたら、喉が渇くでしょう? 召し上がって下さい」
お礼を言って一気に飲み干す。
心が緩んだせいで一瞬、涙が出そうになるが、なんとかこらえた。
沈黙の中で、部屋の空気が沈み込むように重かった。
地球の向こう側かと思うくらい遠くから、運動部のかけ声がかすかに、聞こえた。
「……星本くんは、以前性被害にあわれたことがあるのではないですか?」
ぽつり、と立花さんが言った。
僕は一瞬、迷い、立花さんの表情を見て、
「………うん」
と、答えた。
正直、勇気のいる返事だった。
今まで、同じ答えをした時に、散々な目にあってきた。
男の癖に、何をめそめそしてるんだ。
ちょ、お前、うらやま。
そんなこと言ってお前も○○○たってたんじゃねーの?
きもっ。近寄らないでくれる?
でも、立花さんは、
「……辛かったですね。大変でしたね」
と、慈しむような声で、言っただけだった。
その言葉だけで、僕の心の何かが決壊した。
そして涙腺が壊れた。
僕は泣いた。
いや、泣いたなんて能動的なもんじゃない。
ただ、ただ、涙をこぼした。
涙がこぼれていた。
止まらなかった。
辛かったんだ。
辛かったんだ。
本当に、辛かったんだよ。
そりゃ、優しい言葉をかけてもらったのは初めてじゃなかった。
でも、カウンセラーは何を言っても職業的で嘘くさかったし、両親は何を言ってもいつも顔に怯えの色を浮かべていた。
こんなふうに、掛け値なしに優しい言葉をもらったのは初めてだったんだ。
気がついたら、僕は声をあげて泣いていた。
立花さんは、ただ、静かに側にいてくれた。
……泣き止むまで、20分はかかったと思う。
「……夕焼けが、綺麗です」
呼吸が落ち着いた頃に、立花さんが言って窓辺に寄った。
顔を上げれば、確かに、大きな窓から降り注ぐ西日で、部屋の中が真っ赤に染まっていた。
「……本当だ」
鼻をすすりながら、僕は答えた。
こんな時間なのか。帰らないと。
ゆっくりと、立ち上がった。足が痺れていた。
「長居をしてしまってごめん。それに、今日会ったばっかりなのに、色々甘えてしまってごめん。それに、事故だったし、望んだことじゃなかったとは言え、下着姿をみてしまって……」
「もう、『ごめん』はやめませんか?」
立花さんが笑顔で制した。
「……うん、ありがとう」
立花さんの笑みが深くなる。
「よろしい」
「本当にありがとう」
立花さんの笑顔は綺麗だ。造形も美しいけれど、それ以上に、何かに護られた、聖なる雰囲気が漂っていた。
「いいえ。どういたしまして」
「じゃあ、帰るよ」
「何かあれば、いつでも言って下さいね。話もいつだって訊きますから」
「うん」
部屋に帰ったところで、何がある訳でもない。
でも、少しだけ、明日の授業の予習をしてみようと思った。
なんとか目を冷やさないと、明日の朝にえらいことになっていそうな気がするけれど。
……僕は、この学校に来て、良かったのかもしれない。
「あ、そういえば、お昼にも少しお話をしたのですけれど」
立花さんが思い出したように僕を呼び止めたのは、ドアを出ようとした時のことだった。
「お昼?」
「ええ、私が主催するクラブがあるとお話したでしょう? 本当に、一度だけでいいので参加しませんか?」
何かと思えば、クラブ活動の勧誘だった。
そういえば、そんな話をしていたような気がするな……。
今一つピンとこないまま、僕は曖昧な返事をしようとした。
しかし、
「今の星本さんに必要なことが、全てつまっている活動だと思います。私からのお願いだと思って、一度お越しになってくださいね?」
美しい恩人からこんな風に首を傾げられたら、断れる人など、いるはずがなかった。