そらとかすみ
朝のホームルームは、異様だった。
「星本ゆずるです。よろしくお願いします」
教壇の前で定型文を口にして頭を下げながら、ぼくは心の中で『あっちゃー』と思っていた。
皆がそれなりに特殊なのだ。
何が、と言われると厳しいのだけれど、まぁ、それぞれ、色々、皆様、それなりに。
まず、とんでもなくやせ細っている子が多い。
摂食障害のためなんだろうけれど、人差し指と親指で掴んでしまうことが出来そうな細い細い足首とか、栄養素が全て抜け落ちてしまったようなぱさぱさの髪の毛とか。
あとは、手首になんか巻いてる子もそれなりに。リストカットかな? でも、刃物は持ち込めないようになっていたはずなんだけれど、どうやって傷をつけたんだろう。
湧き上ってくる疑問を押さえつつ、なんとか無難に自己紹介を終えて、指示された席についた。机や椅子の形状も普通の学校とは違って、一瞬戸惑ったけれど、使用するにあたり不便がある訳でもない。椅子も机も、柔らかい四角い箱が床にひっついているような物体で、背もたれがないことや椅子を引いたり出来ないことが若干不便ではあるけれども。
とにかくぼくの出番は終わり、30代後半と見られる男性教師が淡々と連絡事項を読み上げている。退屈かつ、まだ校内の事情など分からないぼくには特に意味のない話で、それより、机に埋め込まれたタッチパネルのディスプレイが気になった。何だコレ。
メニュー画面が表示されて、その隅には今日の時間割が表示されている。SHRの部分がチカチカ点滅しているのは、現在進行中のカリキュラムを示しているのだろう。1限目の授業のところをタッチすると、今日の授業課題へのリンクと、復習モード、予習モード、というボタンが現れる。
なるほど。
教室に案内された時、ノートもペンも渡されなかったのは、これがあるからか。
ほうほうと思いながらなんとなく画面を眺めていた時に、『その出来事』は起こった。
一瞬、教室の空気が停止したような気がした。
何事かと思ってあたりを見渡すと、目の端の方を何かがすごい勢いで横切って行った。
いや、横切るというよりか、落下したのか。
つづいて地面に響くような、ドン、という鈍い音。
一瞬教室を覆った、とてつもなく重い沈黙。
これは……。
立ち上がって窓の下を覗きに行こうかと思った、その時だった。
「……ですから、この夏は熱中症対策として、保健センターにスポーツドリンクと、ミネラル錠が常備されることになりました。栄養基準C以下の生徒は週に一回、必ずミネラル錠の投与を受けるようにしてください。そして、気温が30度を越えた日には、体育の前にスポーツドリンクの配給があります。保健委員は配布を任じることになりますので、授業開始時刻3分前には、体育集合場所に来るようにしてください」
何事もなかったかのように教師が連絡事項の説明を再開したのだ。
生徒達も特に動揺した様子を見せず、教師の説明に耳を傾け始める。
ぼくは、目の前の光景が信じられなかった。
だって、あれはどう考えたって……どう考えたって人間が地面に激突した音だ。
救助もしないの?
それどころか、確かめもしないわけ!?
それとも、ぼくの目が……ぼくの耳が幻覚に惑わされたとでも!?
いくらなんでも、ちょっと早すぎない!?
立ち上がりたい。
立ち上がって確かめたい。
机の上で、ギリギリと拳を握った、その時だった。
「……あれは完全に『あがった』ねー」
ぼくの耳に、小さな声で発された呟きが飛び込んで来た。
「どうやってやったのか知らないけど、うまくやったもんだね」
こころななしか嬉しそうに囁くその少女は、ぼくの方を向いて、にやりと笑った。
「転校生くん、君は死にたい?」
「え?」
「私は死にたい。あ、私、時田ソラって言うんだ、よろしく」
少女は屈託なく笑った。
死にたい、という言葉の重さと、笑顔の軽さががアンバランス過ぎて、頭がくらくらしてきた。
これが、ぼくと時田ソラの出会いだった。
ホームルームが終わった瞬間、ぼくは窓のそばに駆け寄った。
そのまま座っておくことなんて、出来そうになかったからだ。
散らばった手足や、飛び散る血しぶきを覚悟していたが、見えた光景は、実にあっけないものだった。
何もなかったのである。
ほんの10分ほど前のことなのに、窓の外の中庭には、呑気に雑草の生えた地面が広がるだけだった。現場検証をしている教師の姿すら見当たらない。
「これは……?」
「うちの学校の『現場』処理班は優秀だからねー。五分もあれば、たいていの『現場』は綺麗になるんだよ」
口の中で呟いただけのつもりだったのに、きっちりと言葉を拾って話しかけて来たのは、先ほどの少女だった。
「ああ……えっと、時田さんだっけ?」
「ソラでいいよ!」
すぐ側で人が死んで、面白いことなどあるはずがないのに、ソラは愉快そうだ。
変な少女だ。
見た目はごくごく平凡である。平凡と言っても、可愛らしくないというわけではない。超絶美少女、と言われると正直なところ首を捻らざるを得ないけれど、目を細めた猫を思わせる涼し気な瞳や、少し癖のある黒髪、上品な口元や綺麗な鼻筋は、真っ白な肌の上で端正に配置されていて、さきほどからの言動の割には、妙に品を感じさせる容貌を備えていた。
「で、ソラさん。現場処理班って?」
「ああ、うちの学校ってとことん自殺の手段が排除されるじゃない? でも、それでも自殺とか、自殺未遂とかって、起こるんだよ。みんなすごい情熱でねー。で、やっぱり、こういう現場って汚れたりとかするじゃない? 肉片とか、血とか、もうちょっと臭いものとか。そういうのをね、あっという間にお掃除してくれる専門の人がいるんだ。自殺は伝染るからね。現場を見せない努力が大事なんだって」
でも、それを言うなら既に私たち伝染ってるよねー、と言って、ソラはけらけら笑った。
「はぁ……なんというか、すごい学校なんだね」
正直なところ、ぼくとしてもそう言うしかない。
この学校に入れられる前のオリエンテーションでは、親を安心させるためか、非常にやんわりした内容の説明しか受けなかった。もっとも、自殺を予防するための学校に入れられたわけだから、自殺をした後の処理について、ぼくたちに説明があるとは思えない訳だけれども。
ここまで日常的に死があるところだとは思ってなかった。
ややうんざりしているこちらの気持ちとは裏腹に、ソラはますます気分が良さそうにまくしたてている。
「確かに! ある意味じゃ面白い学校だよ。面白く過ごそうとしないとすっごい窮屈だけどね。あ、そうそう、学校生活を面白くしようとするなら、星本ゆずる氏に超おススメのクラブ活動があってね、それが―――」
「時田さん、そこまでにされてはいかが?」
ひんやりとした声が背後から聞こえて、ぼくとソラは振り返った。
そこには紛うことなき美少女がいた。
ストレートロングの栗毛に、長い睫毛に縁取られ、神秘的に潤んだ瞳。形の良いピンクの唇。細い顎のライン。
美しい造形の顔が、冷たい怒りをたたえる様子を、ぼくは呆気にとられてみていた。
いったいなんなんだ。
「前にも警告したはずです。あなた方の活動を、私達は正式な部活動としては認めません」
「何が認めませんだよ。自分たちだって部活動でやってるだけじゃん」
ソラは、口の端をつまんでいーと歯を見せつけている。
美少女の瞳に苛立ちが燃えるのが見えた。
「あなたがたの有害な活動と、私たちの意義ある活動を一緒にしないでください!」
ややヒステリックに叫んだ後、美少女ははっと気がついたように、人差し指と中指を自分の唇にあてた。
「あら……星本さん、取り乱したところをごらんにいれて失礼しました。立花華純と申します。当学園にようこそ」
そうして膝を折って挨拶をしてくれた。
なんか、すごいな、貴族みたいだ。確かにこの子には似合うけれど。
「私、『あらいぶの会』というクラブを主催しておりますの。このような学校で、転入生の方が入られるには最適なところかと思いますので、どうか、見学に来て下さいね」
うん、クラブ名を聞いてもまったく活動内容の想像がつかないけど、この子が主催しているからには、さぞかし崇高なことをしているんだろうな。なんというか、この容貌にはそれだけの説得力がある。
「いやぁ、ぼくなんかが入っても迷惑をかけるだけのような気がするけど」
「そんなことありませんわ。とってもフレンドリーな部員ばかりですし、お互いに助け合ってやってますので、星本さんも十分やっていけるはずです」
そう言って立花さんはにこりと笑った。
うん、やっぱり笑顔が一番綺麗だな。
「はぁ……」
若干迫力におされて曖昧な返事をしていると、立花さんは、
「ちょうど明日の放課後に部会がありますの。興味があるようでしたら、文化部のクラブハウスにお越しになって下さいね」
では、ごきげんよう。
そう言って立花さんは自分の席に戻って行った。
「……」
で、結局なんの部活動をしているんだろう?
正直、立花さんの顔に見とれていて、すっかり聞くのを忘れていた。
「なるほど、星本ゆずる氏はああいうのがタイプなのか」
訳知り顔で頷くソラの頭が視界に入って、ぼくはやっと我に返った。
「いや、タイプって……まだ顔と名前しか知らないし」
「男ならそれで十分だろ!」
ソラが腰に手を当てて高らかに言い放つ。
「あのねぇ……」
ぼくは溜息をついた。
「そりゃ、性的な対象として見るなら、見た目がほぼ9割だろうけど。実際に付き合いたいとか、タイプかとかって話なら、性格も大事だよ」
「ほうほう、立花華純氏の性格が気に食わないと」
「そんなこと言ってないだろ! まだそれほどの知り合いでもないっていう意味だよ」
「なーにムキになってんだよ」
ソラに笑われて、ぼくはますます盛大にため息をついた。
本当にこいつは……。
「ま、立花華純氏の性格は、確かにおススメはしないね!」
「折り合いが悪いからってクラスメイトのことそんな風に言うんじゃないよ……それに、ぼくは……」
ぼくはふと自分が言いかけた話の内容に気がついて、言葉を止めた。
「ん? ぼくは?」
当然、ソラは気になるようでぐいぐいと顔を近付けてくる。
おいおい、あまり寄るな。
「い、いや。それより、さっき言ってた、『超おススメのクラブ活動』って何なんだよ。立花さんが言ってた『あらいぶの会』ってやつか?」
「そんな訳ないじゃーん!」
ソラが即答する。まぁ、話の流れからすれば、当たり前か。
「じゃあ、何だよ」
「……教えなーい」
ソラは、急に悪戯っぽい表情になると、そっぽを向いた。
「一体なんなんだよ」
「そのうち分かるよ」
ソラはにやにやするばかりで答えない。
無情にもその時チャイムが鳴り、ぼくはソラへの追求を諦めざるを得なくなった。
ただ、その時の俺は意識すらしていなかったけれど、知らない学校の知らない人ばかりのクラスへと入る緊張感が、ソラと話しているうちに消えていったのは、後から気がついた事実だった。