自由民
初めて小説のようなものを書いてみました。呼んでいただけたら幸いです。
ダタンは剣奴養成所の鋼鉄のドアを開け表へ出た。空はどこまでも澄み渡って、暖かい陽光がダタンをやさしく包んだ。眼前に広がる草原の先には知らない国や町があり、知らない人々が暮らしていると思うと、ダタンは年甲斐も無く胸が躍った。
彼を縛るものはもう何も無い。
「なぁ、本当に行くのか?」
聞きなれた声に振り向くと、興行師のジンが複雑そうな表情でこちらを見ている。出会った頃に比べると白髪やしわが増え、随分と年寄りに見える。
「あぁ、決めたことだから」
ダタンが笑顔でそう言うとジンは顔をしかめながら頭を掻いた。
「悪いことは言わねぇ、ここで一緒に暮らそう。オメェ自分の年考えてみろよ?もう40手前だぞ」
「教官になってここの若造共に戦い方を教えてやってくれよ、金なら普通の倍は払う」
「ジン」
ダタンは片手を前に突き出し、言葉を止めた。
「だったら女か?結婚したいならすぐ手配してやる――」
「ジン!」
ダタンが少し大きな声を出すと、ジンは一瞬体を震わせ下を向いた。
「馬鹿だよ、オメェは。25年も剣奴やって、やっと自由民になれたってのに」
「自由民になれたからこそだよ」
ダタンはそう言って笑うと、振り返って草原の向こう側へ歩き出した。あまり長くいると本当に決意が鈍りそうな気がしていた。
「待て」
ジンの声と同時にダタンに何かが投げられた。とっさに掴んだそれは体によく馴染む重さがした。
「オメェの使ってたグラディウス、やるよ。高いんだけどな、餞別だ。それもってどこへでも行っちまえ」
ダタンはグラディウスを鞘から抜いた。よく研がれている。長い間生死を共にした相棒だ。若いころ、それなりに稼げる剣奴になった際、ジンに買い与えられたものだった。高価なミスリル鉱で出来ている。
曇りの無い刀身がダタンの傷だらけの顔を映した。
「ありがとう、ジン」
ダタンが鞘へ刀身を収めると、ジンは何も言わず、白髪交じり頭を撫でながら養成所の中へ入っていった。
ダタンはグラディウスを腰へつけると再び草原の向こう側へ歩き出した。雲ひとつ無い青空、地平線まで続く草原、ほほを撫ぜる風、自由民となった今全てが新鮮に感じられた。
ふと後ろを振り返ると、草原の中に剣奴養成所がとても小さく見えた。25年間の月日があのちっぽけな建物に詰まっている。辛い思い出のほうが多いが、不思議と憎しみはなかった。
ダタンは歩きながら、自分の手をじっと見た。ぼろぼろで傷だらけの手だ。手だけではない。体も数え切れないほどの傷がある。
その傷一つ一つに思い出があった。たいていろくな思い出ではないが、自分の生きてきた軌跡そのものが全身に刻まれているとも言える。
幼いときに口減らしのために奴隷として親から売られ、俺は興行師のジンに買われた。確かに俺は奴隷でジンは俺の主人ではあったが彼を恨む気持ちは少しも無い。
彼は俺に世の中を教えてくれた。剣奴としての生き方も教えてくれた。彼に応えるため、そして自分自身のため25年間俺はコロシアムで戦い続けた。そしてようやく自分自身を買い戻し、奴隷階級から自由民になることが出来た。
確信は無いが、彼以外に買われていたら、俺はこの年まで生きてはいなかったと思う。
確かに、ジンの言うとおり剣奴養成所で教官をやってもよかった。結婚も出来るだろうし、今より裕福な暮らしも出来るだろう。
だが、心の奥底にある夢には逆らえなかった。
剣奴養成所には様々な国の人間が候補生としてやってくる。俺は幼いときから彼らの故郷の話を聞くのが好きだった。
色々な土地の話を聞くうちに、自分もいつか気の向くまま様々な土地へ行きたいと思い始めた。
『旅』
当ても無く、気の向くまま風の吹くままに色々な土地へ行き、様々な人と出会い、思うまま生き、思うまま死ぬ。
この夢をもったまま死ぬのはどうしても出来ない。俺ももう自分の新しい生き方を決めてもいいだろう。剣奴ではなく、一人の人間として。
ダタンは顔を上げると、力強く歩き始めた。空はどこまでも群青色に染まって、さわやかな風がダタンの心の中に吹いていた。