八通目 臆病者の酒場
夜も更けて、ランタン持ち(ファロティエ)が「ファロでござぁい」と街中を触れ回る頃。
燭台の下には、何の染みか考えたくも無い汚れたテーブルクロス。出された料理を鷲掴み、獣のように食らう男女。歌い手を値踏みする者、賭け事に興じる者、大声で歌う者。その内喧嘩が始まり食器が飛び交う。
酒場の日常である。そう、俺は酒場にいた。ルテティアが近くなり、行き交う人々に紛れやすくなったと言うのもある。が、早い話が野宿に音を上げたのである。冬が迫り、夜は特に冷え込む。体力削られ、運良く風邪を引かなくとも時間の問題だったろう。
水っぽい安酒を流し込み息をつく。
「で、何でお前がここにいるんだ」
俺はここ数日腐っていた。無理もない。傷心で酒に溺れるくらい許されるだろう。ところが向かいに座るのは、よりによって一番顔を合わせたくない相手。今晩くらいは一人でうじうじさせてくれ。
「キサマと同じ空間にいるくらいなら、監獄で死刑囚と人形遊びをするほうがマシだが、仕方無いだろう。仕事だ」
「どんなシュチエーションだよ!」
メディシーナは人形遊びが嫌いである。それを陰気な相手と場所で行う、言わば嫌なことのトリプルコンボですね、へこむわ。
「お前、わざとだろ!?ぜってぇわざとだろ!?恨みがあるから、俺の気持ちに気づかないふりして俺のハートに多大な損害を与えているんだろ!?」
「何の話だ。いきなり怒り落ち込む貴様の思考回路が理解できん。心底思う、死ね」
「心の機微を胎内に忘れてきたお前こそ理解できねぇーよ!」
「心の機微くらいあるぞ。キサマ女に振られでもしたのだろう」
メディシーナは、特に戦闘時は異常に勘が良い。何故その勘を別の方面に使わない。
「ふっ、無言になりおって。図星か。キサマは金と地位はあるだろう、落ち込むな。体格はモヤシで顔はジャガイモだが」
「慰められているのにへこむ……」
心までも、テーブルの下に沈んで行く。
「メディシーナは金や地位がある男が好きなのか?」
「そんなものにまるで興味が湧かん」
「何かを持ってたって、好いた相手が興味抱かなきゃいらないっつーの」
際どい発言だ。気づくかな、と期待を込めて観察していると、メディシーナは真顔で同意した。
「生まれて初めてまともなことを言ったな」
泣きたい。
「他に俺の長所は無いの?メディシーナが魅力的だと思うような」
「え?あ、えーっと、その……」
メディシーナは白い額に皺を寄せ、真剣に思考を巡らせていた。延々と。下手な同情なんか要らない。無いと断言された方がまだましだ。
「もうやだもうやだ。どうせ俺はクズなんだ。逆ナンする奴は女装男で刺客だし、好きな女にはフラれるし、良いところなんか無いんだ」
「安心しろ、キサマはゴミだ」
「慰める気あんのか、てめぇ!」
カップの葡萄酒ぶっかけんぞ。仕返しが恐いからやらないけど。
「男がうだうだ言うな、見苦しい。確かにキサマの魅力は常人には理解し難いやもしれぬ。しかしカイにジョン、エドやモーリ、キサマを慕い尻を追いかける者がいたではないか」
「全員男だってーの」
しかもお前、ちゃっかり常人カテゴリー入りかよ。
それにしても懐かしい名前を聞いた。彼らはよくつるみ、悪戯を決行した仲間である。
「元気にしているだろうか」
目を閉じれば今でもあいつらの、のみならず子供から大人までの村人の顔が浮かぶ。
「会いたいな」
酒が入ると、なんと素直に言葉が込み上げるのだろう。
「会いにこれば良かったではないか」
俺は何も返せず揺れる蝋燭の炎を眺めた。
「何を恐れている。心の中の故郷が、過去の日々が変わってしまうことをいとうたのか?」
「そうじゃない」
「なら」
「悪戯がさ、つまらなくなったんだ」
メディシーナは何を言っているんだ、という顔をした。論理的でない自覚はあるので、酒が入った頭で言葉を探す。
「俺は今までのように蛙を服に入れたり、水をぶっかけたりしていた。けど、反応が鈍いんだ。叱ること、怒鳴ることは勿論殴られることはない。周りはどこか一線を引いていた。最初は周りのせいだと思った。都会の人間だから気が長いんだって。でも違った。俺が貴族だからだ。
周りは必死に俺の顔色を伺っていた。機嫌を取るために細心の注意を払っていた。父親が公爵ってだけの、たかがガキのために。大の大人が子供相手におべんちゃら使うんだぜ。全く笑えるよ」
怖かったのは、貴族になった俺。
「俺は俺だ。何時までも村で名を馳せた悪童リックのままだ。なのに平民は頭を下げ、貴族は腹を探る。誰も今までのように接してくれない」
俺はあの頃の俺と遠く離れてしまった。メディシーナも、仲間も、大人も、違う目で俺を見るかもしれない。もうあの場所に居場所がないと思い知るのが、拒絶されるのが怖かったんだ。変化を受け入れられない自分が幼稚だと思うけれど。
「お前は貴族令嬢である私を肥溜めに突き落とし、男爵の父の服に落書きを張り付けただろうが。そのお前が身分を気にするのか。らしくもない」
十数年来の葛藤を、女騎士は鼻で笑う。
「それは俺が無知だったからだ。相手を知らなかったから喧嘩を吹っ掛けられた」
「それでキサマは相手が何たるか、己が何たるかを知り、すっかり臆病者に成り下がったわけだな。……愚か者めっ!」
騎士の拳にテーブルが音を立て、葡萄酒が飛び散る。
「身分の色眼鏡を向けられぬことを望みながら、誰より身分の枠に囚われているのはキサマではないか!」
的を射すぎていて反論できない。俺は貴族である俺を見られること以上に、対比的に平民になった村人を見ている。本気で身分なんか関係無いと主張するなら、誰より俺が今まで通りに振る舞えばいいのだ。
「なあ、キサマがあの村で築いてきた地位は、簡単に無かったことにしてしまえるようなものだったのか?
少なくとも私は、違う。キサマに会って、村人の輪の中に入って、本気で喧嘩して本音で語り合って。身分とか利害とか、打算の無いまっさらな関係。当たり前にしていたそれが、どれほど得難いか、今ならわかる。
お前だって同じものを共有しているはずではなかったのか?」
こいつがそんな風に思ってくれていたなんて、ちっとも知らなかった。
「私は、キサマが貴族であろうと護衛対象であろうと今までと変わらず接したつもりだ。違うか?」
頭を振る。メディシーナはあの頃のように口を利き、剣を振るい、いがみ合い、守ってくれた。保身やおべんちゃらなんて考えもせず。
そう言うことができない性分と言ってしまえばそれまでだが。変わらぬ絆を俺に認めてくれていたのだろうか。
「この旅が終わったら村へ寄ろう。皆もきっと会いたがっている」
「でも」
尚も怖じ気づく俺に。
「信じろ」
その一言があまりに力強く。無性に胸が一杯になって。答えも出ず、首を縦に振るしかできなかった。