五通目 一人の男の話
一人の男の話をしよう。守りたかったものを失った、愚かな男の話だ。
男は公爵家に生まれた。だがその恩恵は十分に受けなかった。彼は地味で、いつも二人の兄の影に隠れていた。
そんな男もやがて成長し、恋をする。相手は侍女であった。彼女は没落した子爵令嬢だったが、気立てが良く、女では考えられない程高い教養を身に付けていたので、本の虫だった男と話が合った。
二人は身分違いも甚だしく、公になれば引き離されるのは目に見えていた。そのため神前で誓い合うことはなかったが、緩やかに仲を深め、やがて子を成した。ところが当時、男の父、つまり当主が死んで、前妻の長兄と後妻の次兄は相続争いを始めた。二人の兄にまだ子は無く、恋人の存在を知られると暗殺される可能性も出てきた。男は恋人と生まれてくる子を、寂れた農村に隠すことにした。
再び彼らを公爵家に迎え入れるには、彼が当主になるしかない。男は次兄を唆して長兄を殺させ、その罪で監獄送りにした。さらに独身と言う立場を利用し、外戚を狙う貴族たちを取り込んで足場を固め、遂に公爵家を継いだ。
しかし男は恋人を迎えに行かなかった。その後、国中を巻き込んだ王位継承戦争が始まり、安全を確保できなかったから。
いいや、そんなのは言い訳だ。男は不安だったのだ。
恋人の存在を隠すため、男は殆ど連絡をとらなかった。今さら迎えに行ったって拒絶されるのではないか。または他に男を作っているのではないか。恐くて恐くて、会いに行くのを先延ばしにしていた。肉親の野心や政敵の謀はわかっても、好いた女の心はわからなかったのか。或いは疑い裏切るばかりで人を信じられなかったのか。
一方、恋人は相変わらず男を愛していた。ただ、男を盲目的に信じきることはなかった。何年も放置されているのだから、疑いが芽生えて当然だ。
今さら自分が現れても男を煩わせるのではと、困ったことが起きても伝えず、来ない迎えに催促すらせず。息子の将来を考え、男が用意した金銭には殆ど手をつけずに、農民として慣れない力仕事や夜なべにせいを出した。
しかし彼女は男を忘れてしまったわけではない。彼女は美しく、気立ても良く、幾度か縁談が持ちあがったが断り続けた。
時折、過去に送られた文をいとおしげに眺めるだけで。時折、本を抱き締めながら涙ぐむだけで。一人、息子を育てながら、男が迎えに来るのを待っていた。
無理がたたり病になっても。ずっとずっと待ち続けた。
二人は離れても愛し合っていたのに、お互いがお互いを信じきれず、会いに行く勇気を持てなかった。男がようやく重い腰を上げた時、彼女の病はどんな名医でも手の施しようがないくらいに進行していた。
男の名はアルフォロメオ。陽気な海の国イォドール風の名前のくせに伊達男でなく、人間観察と悪戯が趣味の陰湿親父である。
俺はその男が嫌いだった。初対面で蛇を投げつけるくらい大嫌いだった。
俺に父親はいない。誰も薪を割ってくれず、麦を刈ってくれず、祭りの時に小遣いをくれず、肩車をしてくれず。グレイシー男爵と手を繋いで帰るメディシーナの後ろ姿を、羨ましいと思う前に諦めた。自分には最初からないものだからと。
それをっ! 長い間俺たちを放っておいて。今まで母さんを散々泣かせといて。わけわからないままメディシーナや村の連中と引き離して。突然現れて父親面されたって、受け入れられるわけない。……ないけど。
──もっと早く迎えに行けば良かった一言助けを求めたら飛んで行ったのに
医務室の枕元で、もう手遅れだと医者に告げられ。男はあかぎれ、豆が潰れ、骨ばかりとなった母の手を包んだ。男が、政敵からは悪魔や魔王に例えられる男が涙を流したのは、後にも先にもその時だけだ。
大切だから遠ざけ。臆病だから会いに行けず。遂には守りたかった女を失った。
母が亡くなったのは木々が葉を落とした頃。季節は終わっているのに棺桶は咲き誇る花で一杯だった。神父がもごもごと何かを唱え、顔も見たこと無い遥かに上等な喪服の参列客が、頭だけ下げていた。
流木となった指には、生涯つけられることのなかったエンゲージリングがあった。棺桶に土がかかり、客が引き上げ始めても。男は墓穴の傍で、懺悔するように佇んでいた。
目と鼻の先に立って、男はようやく顔を上げた。
俺は精一杯背伸びをして。力の限り殴った。
「……今のは俺の分」
父を知らずに育った俺の分。呆けた男の頬にもう一発。
「今のは母さんの分」
恋人を待ち続けた母の分。十年以上も捨て置かれた二人の分。使用人たちが俺を取り押さえにかかったが、振り払って叫ぶ。
「何湿気た面してんだよ!後悔すんなら離したりするんじゃねぇよ!」
腹が立って立ってどうしよもなかった。だってこいつは救えたのだ。俺は子供で。治療に払う金もなく。出来ることなんか限られていて。病んでいく母に飯を食べさせることだけで精一杯で。大人で御貴族様なこいつなら、薬も買えたし、医者に診せることもできたはず。
「ああ。……私には悔いる資格すらない」
男の手が頭におかれた。父親の手は大きくて厚いものだと思っていたのに、遥かに綺麗でひ弱で、ぺんだこの出来た手だった。
「お前は、真っ直ぐに育ったんだね。さすがシルヴィアの息子だ」
母を呼ぶその声が愛に溢れたものだと気付き、泣きたくなった。
大切なら傍にいればいい。理由なんかなくたって会いに行けばいい。こんなになるまで助けを求めなかった意地っ張りの母さんも母さんだけど。お互い素直に、愛していると言えば良かったのに、どうしてここまで拗れてしまったのか。
子供の俺から見れば、酷く滑稽な話だった。相手の気持ちが見えない恐怖を、拒絶される痛みを、立場に縛られるジレンマを、愛していると告げられないもどかしさを、何一つ知らない子供だったから。
「何他人事みたいに言っているんだよ。種付けしたのあんたなんだろ?」
馬の交配で聞き齧った言葉を使ったのだが、不味かったらしい。天使が通りすぎた、一拍の後。
「っぷ、くはははっ、そうだ、お前は私たちの子だよ」
寒さに澄んだ空の下、腹を抱えて笑った。馬鹿らしいしどうしよもない奴だと思ったが。母を大切にしたかった、誰かを守りたかった思いは俺にもあったから。これでチャラにしてやることにしたんだ。
今の俺はあの頃の俺に殴られるべきかもしれない。親父の気持ちが少しはわかるようになったから。




