四通目 親離れ
窓の向こうには日差しが降り注ぎ、木々も花を咲かせ、蝶が舞っていると言うのに。
「久しぶりだね、リック。調子はどうだい?」
何故この男はベッドに寝ているんだろう。ちょっぴり俺似の目の下には隈が出来、白髪も増え、見たこともないほどやつれている。
「元気だぜ?そっちは?」
その姿に、自分でも驚くほどショックを受けていた。
「見ての通りだよ。私ももう年だからね」
親父は平均寿命である四十をとっくに過ぎている。明日死んでもおかしくはないはずなのに。
「ところでリック、まさかこんなに早く顔が見られるとは思わなかったかったよ。何かあったのかい?」
首都に到着し、真っ先にハーネット家のタウンハウスを訪れた。国を揺るがす難局に、親父ならば何とかしてくれると言う淡い期待があった。
「別に、顔を見に来ただけだ」
甘ったれた考えだ。いつまでも親父がいるわけじゃない。いい加減、一人で立たなければならない。
長年貴族社会で暗躍してきた親父は何かを悟っただろうけど、何も言わなかった。その代わり、微笑んで。
「今ね、庭に木苺がなっているんだ」
「ああ、そういや樹があったな」
「お前はつまみ食いばかりしていたね。喉も渇いたし、久しぶりに食べたいな」
「おう、ちょっと待っていろよ」
窓のさんに足をかけ、外に飛び出す。ガキの頃はこの屋敷が気に入らずよくこうして逃げ出していたな、と二三歩踏んだその瞬間。
視界が下降する。軽い浮遊感に、落下した足場。強烈に迫った土の匂い。何が起きたか分からずに瞬き一つ。背後から声が弾けた。
「ぎゃははははははは!」
「親父ぃいいいいぃいい!」
憤怒の雄たけびも、息子を落とし穴に嵌めて爆笑する父親の耳には届かなかった。爪に土が入るのも、服や靴が汚れるのも構わず這い上がる。
「この不良中年!! 俺以外の人間が落ちたら、どうするつもりだ!!」
「お前以外の誰が護国卿の部屋の窓から退出するんだい?それにしても、ぷぷっ、見事にかかったねぇ。顔に土がついているよ?」
「誰のせいだ誰の! ほんのちょっとの気まぐれで、穴が無駄になる可能性だってあったんじゃないか?ドアから行くとか、使用人に採りに行かせるとか」
「しないよ、お前は」
全く悪びれず、何かを成し遂げた少年のように目を輝かせている。
「お前は臥せっていたシルヴィアによく果実を採ってきてやっていたそうだね。食べたいと言ったら鉄砲玉のように飛んで行ったと聞いているよ?そのお前が、私を待たせてわざわざ遠回りするかな? また、お前は屋敷に使用人を置いてないね。病弱な母と二人っきりだったせいか、他人の手を借りたがらない。自分で出来ることは自分でやってしまう。そんなお前が誰かに任せることはしない」
父の悪戯は、相手の心理を逆手にとっている。さすがと言うべきか、性格悪いと罵るべきか。
「お前のそう言うところ悪くないけどね、たまには誰かの力を借りることをしなさい。人脈もまた、お前の力だよ」
黙って一連の流れを見ていたメディシーナがしみじみと呟く。
「似てないと思ったが、やはり親子だな」
こんな中年と一緒にするな。
‡ ‡ ‡
服についた土をわざと親父の寝室に払い落とし、早々に退室した。
廊下を渡る最中、俺たちは無言だった。二人っきりなのに暴言がないのが不気味だ。いや、ないならないに越したことはないのだが、普段言われ慣れている分違和感がある……と、そこまで考え、これが好きな女との会話であると言う事実に死にたくなった。
「そう言えばキサマは、どんなに体調が悪くても、悪いなら尚更、悪戯を止めなかったな」
沈黙を破ったのは、珍しくメディシーナだった。
「シルヴィア殿が病に倒れていた時のことだ。キサマは熱が出ているにも関わらず、落とし穴を掘って私を嵌めたな。腹が立って追いかけたら、逃げようとして躓き、倒れたまま動かなくなった。何のつもりか知らんが、本当にあの時はどうしてくれようかと」
「メディシーナ」
ようやくこいつがこんな話をはじめた理由に思い当った。
「わかってる」
親父は思っていたより悪いのだろう。取り繕うこともできなくて、それでも俺を心配させまいと、悪戯を仕掛けたのだ。それを指してメディシーナは似ていると言ったのだろう。
「出すぎた真似をしたな」
「いや。ありがとう」
こいつに気を使われるようじゃ、ダメダメである。
「ところで、こっちは出口の方ではないな」
「ああ、ちょっと用があって」
俺は目の前の扉をノックする。扉越しの物音の後、顔を出したのは白髪の紳士。
「ローデリックか?」
「お久しぶりです、ホートンさん」
彼はハーネット家の掛かり付けの医者だ。
「大きくなったな。わしの診療鞄に悪戯書きしていたのがつい昔のことのようだ」
「……すいません」
「あの油性の絵はなかなか落ちなかった。最終的に買い換える嵌めになった」
「すいませんってば」
このおっさん、絶対に根に持ってやがる。そんなに大したものは描いてないぞ。男の裸の絵に『恋人募集中』って添えただけじゃないか。
「ところで、アルフォロメオに会ったか?」
「はい。……親父、は」
答えを聞きたくなくて、言葉尻が窄む。彼はかつて母の余命を宣告した時のように、眼鏡を押し上げた。
「残念だが、有効な薬はない」
「な……っ」
この人は、ことに自分の仕事に関して冗談を言うような男じゃない。
彼がこの家に来たのは五年前。病の母のために父が国中を駆け回って探してきた名医だった。結局母は助からなかったが、最後の瞬間まで手を尽くしてくれた。医術に於いて俺の師でもあり、尊敬している。
「命に別状はない。息を吸って」
暖かい空気が喉を通り、いつの間にか止まっていた肺を満たす。
「一生治らない、持病のようなものだ。病名は口止めされているから言えないが、暫く安静にしていれば落ち着くだろう。何、まだまだくたばらんよ」
「はい……」
最悪の状況でないにしても、大海原に枯れ葉の船で放り出された気分だ。何をしたらいいか、そもそも何をすべきか見失い、舵がとれない。
「そうだ、これを」
医師は羊皮紙を差し出した。親父の筆跡で、見覚えのある場所と時間が書かれている。
「アルフォロメオから、君に渡すように頼まれた」
ここを訪ねるのを、予想済みだったと言うわけか。
父の恐ろしさを覚えるほど凄いところは、他人の心理を手に取るように解すことだ。幼い時から悪戯で使われていたその性質は人間関係どっろどろの貴族社会でさらに研磨された。そのため親父の指示はいつも的確で、俺はそんな親父を良くも悪くも道しるべにし、いつの間にか依存していたのだろう。
一先ず親父が残した指示に従って、それから。手元のメモをくしゃりと丸める。
俺は、俺の足でこの難局を乗り切らなくてはいけない。




