彼と彼女と未来と過去と
高校二年の六月の雨は、物憂げ。
秘めた想いを告げるには、丁度いいのかも知れない。
雨……
薄暗い曇天は、大粒の涙を止めどなく流す。これでもう三日続けてだ。
「梅雨なんだから仕方ないでしょ」
外を眺める純大の頭を、丸めたノートで叩きながら一葉が言う。
ポコン、と軽い音が誰も居ない図書室に響き、ジロりと眼鏡を掛けた図書委員が口元に人差し指を立て二人を睨む。
「ばーか、お前のせいで怒られたろーが」
「誰も居ないんだからいいじゃない」
口を尖らせる一葉を純大が咎める。
部活も無く、暇を持て余す放課後。
クラスメートからも『おしどり夫婦』と揶揄される程に仲のいい幼馴染みの二人は、例に漏れず暇を持て余していた。
子供の頃から本の虫だった二人にとって、図書室はまさしく楽園だった。そんな二人が、持て余している暇を潰す為に図書室を利用するのは必然的な行動だった。
純大のお気に入りはフランツ・カフカの『変身』だ。
「純大、またソレ読んでんの? ……好きだねぇ」
今度は声を潜め、純大の隣にくっつく。
「悪いかよ……ってか、ちけーよ一葉!」
照れ隠しに声を荒げ、今度は純大が図書委員に睨まれる。
「おーこらーれたー」
「お前のせいだっての。てか、お前もいつものヤツ読んでんじゃん」
一葉のお気に入りの一冊はシャーロット・ブロンテの『ジェーン・エア』。
「一葉、恋愛小説好きだねぇ」
「アタシもそろそろ恋愛適齢期ですから」
一葉は『変身』を読み耽る横顔をチラリと見るが、視線の先の彼はグレーゴル・ザムザよろしく、一点を見つめたままピクリとも動かず、眼球だけをせわしなく上下させていた。
もう何度となく、それこそ暗記できるくらい読み込んでいるのだから、読書中でも少しくらいは会話のキャッチボールしろよ、と思った一葉はこれみよがしに舌打ちする。
「女の子が舌打ちすんな」
そのまま虫になれ、この本の虫が!
一葉の想いは純大には届いていない。
「純大なんか、セント・ジョンだわ」
その呟きは六月の雨にかき消された。
図書室の閉館に伴い、二人は鞄を取りに教室に戻る。時間も時間だし、教室には誰も居ないと思っていた二人は、勢い良くドアを開けると短い叫び声が聞こえ、文字通り飛び上がった。
教室の中には、クラスメートの中でも特に二人と仲のいい康介と睦美がいた。
談笑していた……と言う割には二人の距離は限りなく近く、どことなく顔が赤く見える。
「よ、よう、おしどり夫婦。また図書室行ってたのか?」
「あ、おう。康介は部活だったんだろ?」
おしどり夫婦の名付け親であるこの二人は、クラスメート公認のカップルであり、むしろこちらの方がおしどり夫婦の名にふさわしい。
康介と睦美は弓道部の部長、副部長を務め、部活公認のカップルでもあった。
「ムッちゃん……邪魔しちゃった? ゴメンね?」
一葉の言葉に睦美の顔は更に火を噴く。
「い、一葉っ!?」
「一葉っ! バカな事言うなよ! てゆーか、そっちこそ純大とはどーなんだよ?」
今度は一葉の顔から炎が噴き出す。
「こ、こーくん!?」
曇天の空から夕日が射すわけも無いが、紅顔に染める三人を見て、残る一人はケタケタと笑い出す。
「何でお前ら、赤くなってんだよ! つーかさ、もう帰ろうぜ? けっこー暗くなってきたし」
空気を読めない純大は、自分と一葉の鞄を手に取り、教室を出ていく。一葉はその純大の背中を呆気にとられた表情で見つめていた。
そんな一葉を誰よりも心配しているのは睦美と康介だ。
四人は小学四年からずっと一緒に過ごし、その友情を静かに、でもしっかりと育んできた。
……それは固く強い絆。その絆を強くさせるきっかけを作ったのは一葉だった。
四人が出会う以前、一葉は酷い虐めを受けていた。最初は些細な冷やかしだった。それが次第にエスカレートしていき、筆記用具や上履きをゴミ箱に捨てられたり、その小柄な体型からわかる様に少食な彼女への嫌がらせとして、給食の盛りを明らかに食べ切れない量に盛り付けたりだとか、陰湿な行為を繰り返されていた。
ある日を境に彼女は学校へ来なくなった。
事態を重く見た両親は彼女を転校させ、その転校先で彼らは出会う。
しかし、彼女の不信が収まる事はなく、いつしか居場所は図書室となっていた。図書室には、一心不乱に本を読み漁る少年が、ほぼ毎日先客として窓際の長テーブルを占拠していた。長テーブルには常に数冊の本が積み上がっていた。それは、一葉にとっては既に見慣れた景色であり、今でも良く見る景色……それも特等席で、だ。
特等席の少年は時には一人で、またある時には仲の良い少年と二人で本を読んでいたが、一葉は一人、図書室の隅で本を開いている。
『ジェーン・エア』
一葉の愛読書はこの頃から今も変わらない。一葉にとってジェーンはヒロインだった。
ある日の学級会の事だった。クラスメートの給食費が無くなる、と言う事件が起こり、学級会は白熱していた。男子と女子が真っ向から対立する中、一葉は不安にかられ、パニック障害を引き起こし、保健室へと運ばれたのだ。
心無い数人は一葉を犯人扱いするが、それを真っ向から否定したのが、図書室の主とその友人、そして、後に『一葉にとってのジェーン・エア』となる少女の三人だった。
「アンタら、証拠もなしに犯人扱いするなんてサイテーよ!」
「俺も睦美に賛成だ。おめーら恥ずかしくねーのかよ?なァ、純大?」
「俺は正直、誰が犯人だとか興味無い。でも、給食費が無くなるなんておかしくないか? どっかにあるんだろ? まず探せよ。机の奥とかカバンの中とか……ちゃんと探したのかよ?」
程なくして、給食費は机の奥から見つかった。すると、一葉を非難した心無い数人は、騒動の主を非難しだす。それを見て、また『ジェーン・エア』は仁王立ち。
「アンタら! いーかげんにしなさいよっ! 一番悪いのはアンタ達みたいなサイテーな人だって事が分かんないの?」
睦美は純大と康介を引き連れ保健室へと行き、一葉に謝り、その一葉を連れて教室に戻り、心無い数人に騒動の主と一葉に謝罪させたのだ。
その睦美の姿は、愛読書の主人公を重ねた一葉にとっての現実のヒロインの姿。そして、図書室の主とその友人とジェーン・エアは一葉にとっての掛け替えのない大切な友人となる。
中学、高校と共に過ごし、何をするにも四人は常に一緒だった。恋心を覚える年代、一番近くにいる異性は当然、意識するものだ。
学級委員を何度も務めた康介と睦美はまさに理想のカップルと言え、二人が付き合う事になるのは必然的であり、そこに辿り着くまでに時間もそう掛からなかった。
当然、図書室の隅の少女が図書室の主に惹かれるのも時間の問題だった。ジェーン・エアの後押しもあったが……
図書室の主は、いつもカフカに心酔。
曇天の空からは、相も変わらず大粒の涙が降り注ぐ。それは、一葉の心にも止めどなく降り注ぐ。純大の机を見ると、傘を忘れている事に一葉は気付いた。
「ムッちゃん、こーくん……アタシも帰るね」
純大の傘を手に取り、教室を出るその背中にジェーン・エアが声を掛ける。
「一葉……アタシがジェーン・エアなら、一葉はポリアンナね。歩けなくなる前に……純大を捕まえておかなきゃだめよ?」
振り返り、睦美に笑顔を向けた一葉は、パタパタと小気味よい足音を響かせながら廊下を駆けていく。
止まない雨が無いように……
いつか晴れたその時には……
四人の物語は、これからどんな風に彩られていくのでしょうか。
いつかまた、彼らに出会えたらいいなぁ……
追記
彼らの物語をもっとしっかりと綴ってみようかなぁ……と密かに画策ちう。