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乃梅雪

 故郷・日ノ下町の川沿いを歩いていると、十年ぶりに乃梅雪を見かけた。

 最後に見たのは小学六年生のときで、そのときに比べると当然ながらしっかり体は大きくなっていた。繊細な感じは残っているけれど、子供特有のアンバランスさは消え、蛹化と脱皮を何度も繰り返したような――だから僕は彼女が乃梅雪だということに気付かなくてもおかしくなかったのだけど、実際には一目で分かった。おそらく、以前と同じく首筋あたりで切り揃えられたショートカットに、いつか見たときと同じような白のワンピースを着ていたこと。何よりその能面のような無表情さが、僕にそう思わせたのだと思う。

 乃梅は土手の上にしゃがみ込み、右手と胸のあいだで麦わら帽子を抱えながら、河川敷をじっと眺めていた。黒髪とワンピースが柔らかな風になびき、照りつける夕陽が彼女の線の細さを一層浮き上がるように見せている。

 顔にかかる髪を乃梅が左手でかきあげたとき、僕と目が合った。

「また上から眺めているんだ」

 反射的に口にする。

 乃梅がこちらを向くまで、僕は何を話そうか、もしくは何も話さずに去ろうかを考えていたのだけど、彼女がこちらを向いたとき自然に言葉が出てしまったのだ。そしてその言葉は、僕と乃梅の関係を示す上で悪くないように思えた。

 僕の言葉を受けた乃梅は固まって、少し考え事をしているようだった。向き合う視線からはどのような感情も読み取れない。僕は一抹の不安が頭を過ぎったのだけど――乃梅は再び河川敷へと目を向ける。

「こうしているの、好きだから」

「そうなんだ」

 知っていたのだけど、乃梅の口から直接それを聞いたのは初めてだった。というより、まともに会話を交わした記憶がないというのが正しい。乃梅とは何度か同じクラスになって(小学六年生のときも一緒だった)、班分けで何度か同じ班になったことがあるけれど、僕らが交わしたことといえば極めて義務的――何かを交わしたという事実がかろうじて頭の片隅に残っているだけのものだった。おそらく今日乃梅に会わなければ、僕はそんな事実さえも思い出すことはなかっただろう。

 乃梅にならって河川敷を見下ろしてみると、小学校低学年と思われる子供たちが元気に走り回っていた。時期は初夏だったが、ヒートアイランド化による温度上昇が著しい都会に比べれば、日ノ下町は風通しの良さも手伝って随分過ごしやすく、子供たちは余すところなくその恩恵にあやかろうとしているように見える。繰り広げられているのはサッカーの5on5のミニゲームだった。

「あのゴール、まだあったんだ」と思わず呟く。

 むかし僕が遊んでいた頃から、河川敷にひとつだけサッカーのゴールが放置されていた。不法投棄でもされたのだろうと思っていたけれど、今に至るまで回収されていないところを見ると、意図的に設置されたものなのかもしれない。白のペンキで塗られていたがところどころサビており、ネットの一部には穴が開いていて、僕と友達はそこをシュートが突き抜けるたびにファイヤーショットだなどと叫んでいた。あの頃に比べてゴールは十年分しっかり劣化してしまっていたが、子供たちのシュートを今も健気に受け止めている。

 赤のティーシャツを着た子が体は小さいけれどボールの扱いがうまく、マラドーナばりのドリブル突破を見せていた。もしかしたら、当時の僕より上手いかもしれない。

 そのようにしてしばらく河川敷を眺めていたのだが、それ以上何か思いが湧き上がってくることはなく、懐かしいと感じた気持ちも徐々に薄れていった。数歩離れた先にいる乃梅にチラリと目を向けたが、真剣に河川敷を眺めているのか、それとも思考に集中するために一点を見つめているだけなのか分からない。相変わらず、能面のように無表情なのである。僕は何か話すことを考えたが、何も思い浮かばなかった。

 遠く鉄橋を走る電車の音が聞こえる。カタンカタンと響く小気味良い音は、僕に頃合いを示しているようだった。決心して僕はうんと背伸びをし、乃梅にひとこと別れを告げる。

「じゃあ」

 乃梅の背後を抜けて場を去ろうとしたとき、「待って」と声がかかった。

 振り返ると、感情をどこかに起き忘れたような瞳がこちらを向いている。

「明日も、この町にいる?」

「……いるけど」

 呼び止められるとは思っていなかった僕は、わけもわからずそのように返事した。

「もし暇だったら、明日の午後三時にここへ来てほしいのだけど」

「明日の午後三時?」

 いったい何があるというのだろう。

「やっぱり忙しいかな」

「いや、忙しいかと言われれば全然そんなことはないんだけど……どういう用件?」

 僕は至極まっとうなことを聞いた。まずはどういう話か聞かないことには、引き受けられるものも引き受けられない。

 この無表情の口から何が飛び出してくるのか。僕は予想しようとしたけれど、その前に乃梅が人差し指を河川敷へ向ける。

「あの子たちにサッカーを教えてほしいの」

 人差し指の先に視線を移すと、コート内を転々とするボールに子供たちが殺到していた。まるで声の大きさでボールを取れるかの如く、わあわあ叫んでいる。

 僕は思わず聞き返してしまった。

「あの子たちに?」

「今からでもいいかなと思ったんだけど、少し遅いから」

 全くの想定外だった。

 具体的なことを想定していたわけではないけれど、バードウォッチングに出かけたら突然UFOが降りてきたみたいな。

 自分でも何を言っているのか分からない。

「駄目?」

 乃梅がこちらを向きながら、少しだけ首を傾ける。前髪が顔にかかり、落ち込んでいるような、懇願しているような――僕はそれに心を乱されるとともに、この目の前の人物は一体誰なんだという疑問が頭を過る。

「あのさ、乃梅って」

 それで相手の正体に探りをいれるように、ゆっくり、静かな声で言った。

「僕のこと、誰だか分かっているよな?」


 家――むかし住んでいた家はもう引っ越してしまったので祖父祖母の家に泊めてもらっているのだけど――に戻ると僕は溜息をついた。愁い事ではなく気疲れによる溜息だ。まあ良い気紛れだと思えばいいのかもしれないが。

 祖父は出掛けていて不在であり、祖母は居間でごろんと横になってテレビを見ていた。四十二インチの薄型液晶テレビだ。築五十年をはるかに超え、外からみれば明らかに時代から取り残された古い家なのに、その中にこうして最新の文明利器が堂々と存在しているのは、不思議ではないけれど違和感がある。

「ねえ、ばあちゃん」

 そのままの体勢で鼻をほじりかねない祖母に、僕は先ほど湧いた疑問をぶつけてみることにした。

「僕ってさ、もしかしてこの町じゃ結構有名だったりする?」

 どうしたんだい急に、という感じで祖母が顔を上げる。

「そりゃあ、この町出身で初めてサッカー選手になろうとしている人だから、知っとる人は知っとるんじゃない」

「知ってる人は知ってる、か」

 乃梅も、そうなのだろうか。

 僕が誰だか分かるのか。そんな疑問を投げかけたとき、乃梅はくいっと首を曲げた。懇願しているかのようなときとは違い、下から僕の顔を覗き込むように。しばらく固まってから首の角度を元に戻し、ごめんなさい、間違えていました。そんなことを言うのかと思ったら、「三井泰孝くん」と、彼女は正確に僕の名前を告げたのだ。そして僕が今どこの大学に通っていて、昨年の大学サッカー選手権で何ゴール上げたかさえも。

 誰かと勘違いして親しげに話しているのでは。そんな幻想はあっさりと打ち砕かれた。

「どうしたんだい急に」

 本当に祖母が言った。

「いや、さっき外を歩いてたら昔の同級生に会ったんだけどさ。そいつ僕のことを知っていたんだ。大学でサッカーをやっていることとか、やけに詳しく」

「そりゃあ同級生だったら風の噂で知っとるんじゃないの」

「まあそうなんだけどさ」

 風の噂――

 乃梅も噂話をするのか。誰かが話しているのを少し耳にしただけなのかもしれないが。

 喉が渇いたと祖母が言ったので、台所の冷蔵庫から麦茶入りのペットボトルを持ってきた。座卓の上に置いてある空のコップに注ぐ。

「久しぶりの町はどうやった?」

 どっこいしょ、と起き上がりながら祖母が言う。

「あんまり様子変わってなかったでしょ。十年ぐらいじゃね」

「いや、変わっているよ」

 自分用にとってきたコップにも麦茶を注ぎながら、僕は言った。

「だってさ、この家の近くにコンビニなんてなかったじゃん」

「ああ、あれは便利だねえ。高くてもついつい買ってしまうよ」

 家の前の路地を出て、三十秒ぐらい歩いた先。交差点の一角にコンビニがある。全国どこでも見かける有名チェーン店で、自動車が三台は置ける駐車スペースが設けられていた。僕はそこに以前何が建っていたか、どうしても思い出せない。

「たまに行ってた銭湯は潰れているし、小学校の校舎は建て替わっているしさ。それにちょっと裏道を通ったら、新興住宅がどんどん建っているし。やっぱり十年前とはだいぶ変わっているよ」

「そう言われれば変わっているかもねえ。長く住んでいると分からんよ、細かいことは」

 本当に分からん、という感じで祖母は僕が入れた麦茶を飲んだ。

 まあ確かにそんなものかもしれない。十年も経てばコンビニができる、校舎は建て替わる。その程度の変化は当たり前のことなのだ。ずっと同じ場所に住んでいる人達にとっては。

 祖母が再びごろんと寝転んだので、僕もそれにならって寝転ぶことにした。下は畳でどこでも寝られる。和室はこういうところが好きだ。自分の家ではないので、実は若干抵抗があったりするのだけど。

 テレビに映るサスペンスドラマの再放送は、あくまで視覚情報を満たすだけのものだった。頭はそれをつまみにして、とりとめのない思考へ落ちていく。小難しいことには目を向けず、今日あったことを考えようとした。歩いているときに感じたこと、町で変わっていたこと、変わっていなかったこと……

「なあ、ヤス」

 祖母が言った。

「さっき言ってた昔の同級生って、乃梅さんのことかい?」

 僕はそのとき行儀悪く寝転びながら麦茶を飲もうとしていたのだけど、それを盛大に吹き出しかけた。ちょうど乃梅のことを考え始めたところだったのである。

「なんで乃梅、しかも何故ばあちゃんの口からそれが」

 むせつつも、何とかコップを座卓の上に戻す。

「だってヤスと仲良かった子たちって、ほとんど町から出ていってしまったやろ。あとは乃梅さんぐらいしか残っとらん」

 いや、乃梅と仲が良かった記憶なんてないわけだが。というよりその前に、

「ばあちゃんって乃梅のこと知ってるの?」

「そりゃあよく話すしな」

「は?」

 言葉だけではなく、脳みそ全体が「は?」という感じになった。

「あの子すごく良い子やから、道でばったり会ったらよく話すのよ。ヤスのこと話してもよく聞いてくれてな。ああいう子がヤスの奥さんになったらええのにね」

 最後の部分は聞き流すとして、僕は祖母が一体何を言っているのか分からなかった。意味は分かるけど、なぜ祖母の口からそんな言葉が出てくるのか。

 それに乃梅が僕のことを知っていたのって、祖母のせいだったんじゃないか。何だよそれ。

 混乱が止まらないうちに、祖母はさらに話しかけてくる。

「で、乃梅さんと会ったんやろ」

「まあそうだけど」

「すごく綺麗になっていたやろ」

「まあー、うん」

 あまり嘘はつけない。

「いま何しとるか聞いたか」

「聞いてない」

「あの子、先生になりたいんだってよ」

「はああ?」

 僕は口をあんぐりと開く。

「いま日ノ下小学校で教育実習しとるんや。あの子綺麗やから、先生になったら子供たち嬉しいやろうな」

 オーケー、もう驚くのはやめだ。あれは僕の知っている乃梅じゃない。

 しかしこの祖母の乃梅シンパぶりは一体何なのだ? あいつ、特殊な人身掌握術でも身につけたのか。

 その後も乃梅との関係を縮めるよう何かと催促してくる祖母の言葉を避けるため、僕は自分に割り当てられた二階の一室へと逃げ込んだ。


 敷布団の上にどすっと倒れ込む。目を瞑ると頭に浮かぶのは、やはり乃梅のことだった。

 ずっと乃梅のことを観察していたわけではないので断言できないけれど、僕の知る限りでは、乃梅は誰とも話さない子だった。休み時間はいつも一人でいたし、何かの行事でペアを作るときもよく最後まで残っていた気がする。

 いつの頃から始めたのかは知らないけれど、乃梅は他の子たちが遊んでいるのを遠くから眺めていることが多かった。休み時間にドッジボールをしているときや、河川敷でサッカーをしているとき。気がつけば校舎の二階や三階、土手の上から今日みたいにじっと僕たちのことを眺めていた気がする。同じ高さで眺めていることはほとんど無かった。まるでそれが義務であるかのように高低差をつけるのだ。同じ高さで眺めていた数少ない例といえば、あれはたしか――小学四年生の体育大会でサッカーをしたときだ。河川敷でやっていたような5on5のミニゲームではなく、ちゃんと一チーム十一人で、四クラス対抗のトーナメント戦になっていた。僕らのクラスは当然のように初戦を圧勝。決勝戦は試合に出ていない同級生たちがコートの外をぐるりと囲んで観戦する形になり、そこに乃梅もいたのだ。当時河川敷でサッカーをしていた仲間たちが敵味方に分かれたので、決勝戦はすごく白熱した。相手は二点を先制したけど僕がハットトリックを決めて逆転。どちらも攻める気しかないから怒涛のゴールラッシュが巻き起こり、周りがお祭りみたいにわあわあ声を上げる。選手たちは晴れ舞台に胸が踊り、誰もが活躍を望んでいた。そしてそのときは望めば全てが叶うかのように、次々とスーパープレーが飛び出したのだ。遠く離れた位置からのロングシュート、キーパーをあざ笑うループシュート、華麗に決まるフェイント……そのたびに観客が沸いて、試合は益々ヒートアップした。そして試合終盤、ペナルティエリア内の僕のところへ浮き玉が飛んでくる。ヘディングするには微妙な位置。そのとき体に電撃が走った。バイシクルシュートが打てると思ったのだ。ジャンプして、空中で自転車を漕ぐようにボールを蹴るシュート。テレビでたまたま深夜にやっていた海外リーグの試合で、僕はそれが炸裂するのを見たのだ。そんな体勢で打つのかという驚きと、そんな体勢で打てるのかという驚き。キーパーが一歩も反応できないスーパーゴールで、大歓声がその選手を包んでいた。まるで優勝したような騒ぎだ。そして試合はそのまま勝利。こんなにかっこ良いことはない。それを見て以来、実戦で決めるのは憧れだったが、その機会がいま訪れたのだ。しかも決めればダブルハットトリックかつ勝ち越し点、時間的に決勝点だ。舞台は完全に整っている。僕は導かれるようにジャンプした。ああ、とみんなの驚く声が聞こえる。無我夢中で、ボールがあるはずの位置に向かって足を振り上げた。

 背中からどんっと落ちたとき、衝撃で一瞬頭が真っ白になった。だけどボールが足に当たった感触はたしかに残っていた。そして、バンッ、だったか、ドンッ、だったか。とにかく物凄い音が聞こえたのだ。僕は起き上がりゴールを確認した。ボールがゴールに吸い込まれたかどうか。しかしそこにボールは無かった。コート内の選手たちも含め、全員が違う方向を向いていた。そして、異様な静けさ――

 コートの外で、ひとりが両手で顔を押さえて倒れていた。みんなと同じく体育座りしていたのが仰向けにひっくり返った感じだ。最初は何が起こったのか分からなかった。しかし向こうへ転々としていくボール、そして誰かの「乃梅さん」という声が聞こえたとき、僕の蹴ったボールが乃梅の顔面を直撃したということが感覚的に分かったのだった。

 先生が血相を変えて乃梅に駆け寄った。周りが先ほどとは別の意味でざわめき始める。僕はとんでもないことをしてしまったのだと思った。どうすればいいか分からなかった。頭はずっと混乱していて、地面から起き上がった状態のまま、倒れた乃梅の姿から目が離せない。

 乃梅さん、乃梅さん、と先生が呼びかける。

 乃梅は全く反応しなかった。

 お前のせいだ。

 周りの誰もはっきりと言わなかったが、雰囲気がそれを物語っていた。あいつのシュートが。三井が蹴ったボールが。それが何よりも重要なキーワードであるというように、どんな言葉にも付けて話すのだ。罪悪感で押し潰されてしまいそうだった。僕は乃梅が無事であることよりも、自分が助かることを望んでいた。

 頭の中が暗くなる。視界がどんどん狭まっていって――

 そのとき、乃梅がむくりと起き上がった。

 突然だった。ホラー映画のように死体が起き上がるような動きだった。

 周囲のざわめきが一瞬で引く。

 乃梅は最初、意識が朦朧としていたのか、ぼんやりと空を見つめていた。流れていく雲をただ眺めているかのように。誰も声をかけなかった。声をかけられないという雰囲気があったのだ。乃梅が何か具体的な反応を示すまでは。

 突如意識を取り戻したかのように、乃梅の体がぴくりと反応する。目が光を取り戻し、視線が徐々に下がっていく。水平で止められたそれは、自分をこのようにした犯人を――僕を捉えていた。恐ろしく無表情だった。痛いはずなのに。まるでテレビコントのように夥しい血が鼻から噴き出し、白い体操服を汚しているのに、全く感情を感じられない。僕はそれに恐怖を感じた。糾弾されるよりも、黙って見つめ続けられるほうがよっぽど怖かったのだ。しばらくして乃梅は保健室に連れていかれた。だけどその後も、乃梅に見つめられたときの恐怖はずっと僕を付き纏っていた。

 僕は今までそのことを忘れていた。きょう乃梅を見つけたときも、話しているときでさえも。まるで新たな事実が過去に差し込まれたようだった。それほど深く埋もれていたのだ。十年分の、何層にも降り積もる記憶の中に。そして彼女が陰で能面と呼ばれるようになったのは、そのときからではなかったか。僕が仲間外れになる代わりに。

 僕はいま、そのことに罪悪感を感じるべきなのだろうか。分からない。僕にとって、乃梅はいまでもブラックボックスなのだ。どのようなことで傷つくのか全く想像できなかった。だが不思議と、乃梅に対する怖さはもう消えていた。きっと理由は二つある。一つは乃梅が変わったこと。もう一つは、僕が変わったこと。


 次の日、僕は約束したとおり午後三時に河川敷へ向かった。土手の上に立って河川敷を眺めていた乃梅は昨日と同じ格好をしていたけれど、まだ陽が高いためか麦わら帽子を頭に被っていた。

「や、来てくれたね」

 両手を後ろに回してこちらを振り向く乃梅。相変わらずの無表情だ。

「ついてきて」

 くるりと向きを変えた乃梅は帽子を片手で押さえながら、河川敷へ続く石階段を一段一段降りていった。僕は少しだけそれを見つめた後、遅れて同じように降りていく。

「はい、みんなちゅうもーく」

 昨日と同じく河川敷でサッカーをしていた子供たちに向かって、パンッと手のひらを合わせながら乃梅が言った。不思議とその声と音はよく通り、子供たちが一斉にこちらに気づく。

「姉ちゃんせんせー」

 昨日赤ティー、今日白ティーの少年が明らかにおかしなことを言った。

「乃梅先生でしょう、ヒロト君」

 腰に手を当てて、まったく、というような声色で乃梅が言う。

 予期していたことだけれど、その光景はやはり驚きだった。パラレルワールドみたいな違和感がある。

 乃梅が子供たちを見据えながら、次のように言った。

「先生はきょう、あなたたちに飛び切りの臨時コーチを連れてくると言いましたね」

 そこで一度言葉を切り、人差し指を上空にスッと掲げる。子供たちだけでなく、思わず僕もそれに注目してしまう所作だった。その指は宙でひらりと返り、今度は滑らかに落ちていく。ある高さでぴたりと固定され、僕のことを指差した。

「それはこの人です」

 演出装置が用意されていない河川敷において、最大限演出された登場のように思えた。一斉に子供たちがこちらを向き、誰だ誰だと探り始める。子供たちは最初、期待に満ちているように思えた。それこそ憧れの選手を見るような感じだ。だが数秒ののちに、ウン? と怪訝な表情になる。それでも唸りつつ精一杯考えて、やがて失望するような表情に変わっていった。

「せんせー、僕こんな人知りません」

 白ティーの少年がついに決定的なことを言った。それを口火に噴き出す少年たちの不満の声。

「俺も知らねーよこんな人」

「すごい選手っていうからさあ、柿○とか大○とか想像するじゃん。先生に近い世代っていえばさあ」

「サイン貰ってくるって家の人に行ってきたのにー」

 非難轟々である。

 いったい子供たちにどんな説明をしていたのか、と乃梅に視線を投げかけたが、乃梅は相変わらず無表情だった。この場では、毅然と言ったほうがいいのかもしれない。

「あなたたちは何も知らないようですね」

 乃梅が言った。

「彼は三井泰孝くん、○×大学サッカー部所属の四年生です」

「やっぱりプロじゃないじゃん」

 子供たちがそんな風に不満の声を上げたが、話は最後まで聞きなさいと乃梅が制する。

「彼は大学生ながらにしてプロリーガーでもあるのですよ」

「そうなの?」と白ティーの少年が目を丸くした。

「彼は昨年の大学サッカー選手権で四ゴールを上げ、優秀選手に選ばれました。その実績を買われ、特別指定選手として二部リーグの試合に出場したのですよ。途中出場がほとんどながらもゴールを上げており、ポストプレーと献身的な動きにも定評があります。卒業後はこのままウチに来て欲しいと一部サポーターに支持されている今注目の若手選手、それがこの三井泰孝くんなのです」

 まるで事前に用意されていたようなセリフだった。

 子供たちは、ほんとにぃ? という顔をしているものの不満の声は消えている。これでひとまず共に練習はできるだろう。

「あとはあなたの腕次第……足次第?」

 乃梅が僕を試すように、首を傾げる。

「まあやるだけやってみるよ」

 気恥ずかしさを抑え、僕は言った。


 誰かにサッカーを教えるのは今回が初めてだった。だから一日という短い時間の中で何を教えるべきか、皆目見当がつかないのだけど――

「基礎練習から始めようか。ふたり一組でパス練習から」

 ひとまず無難なところから入ることにした。

「お兄さん、それよりミニゲームやろうよ」

 いかにも調子乗りに見える、ツンツン頭の少年が声をあげる。

「お兄さんがどっちかのチームに入ってさ。それで上手いところ見せてよ」

「あ、それ見たい見たい!」

 白ティーの少年が乗っかってくる。

 僕の実力が未知数だから、まずはそれを見てやろうということだろう。ようするに、なめられているのだ。

「それはあとで見せるよ」

 できるかぎり余裕たっぷりに見えるよう言った。

「ええー? いま見せてよ。基礎練習なんていつでもできるからさあ」

「プロでは基礎練習を疎かにする人なんていないよ。君はもっと上手くなりたいんだろう」

 そう言うと、ツンツン頭の少年が表情を変えて押し黙った。少しプライドを刺激したほうがいいかと思ったが、やりすぎたかもしれない。

 まあ最初は何事もうまくいくはずがないのだ。いま大事なのは年長者の意思を貫き通すことだ、と思う。

「さ、早くふたり一組を組んで」

 僕がそう促すと、子供たちは渋々ながらもペアを作っていった。

 ツンツン頭と白ティーの子は別々のペアになったようだ。子供たちの人数は偶数だったので僕は余ってしまったのだけど、最初はコーチとして皆の様子を眺めることにする。

 ツンツン頭がつまらなさそうにボールを蹴っていた。

「おいおい何をやっているんだ!」

 意を決して、身振りを交え大げさに声を上げた。子供たちが一斉に僕に注目する。

「僕はパス練習をやれって言ったよな」

「だからやってんじゃん」

 強めに言ってしまったためか、少年の顔がムスッとした。ここが正念場だと思い、声の調子を維持する。

「いま君たちがやっているのは、ただボールを蹴っているだけだ。それじゃあ練習にはならないよ」

 いいかい、という感じで僕は人差し指を立てる。

「君たちもバルセロナというクラブを知っているだろう」

「バルサ?」とツンツン頭の少年が言う。僕はこくりと頷いた。

「そう。世界一パス回しが上手いと言われているあの超名門クラブのバルサだよ。彼らはパス練習と言われて、君たちみたいにただテキトウにボールを蹴っているなんてことはないよ」

 子供たちがしんとする。釈然としないところはあるだろうが、何故自分たちが怒られたのかを理解したようだ。ただ、この状態がそれほど長く持つことはないだろう。では、どうしたらいいのだ? それを僕に求めてくるに決まっている。

「もっと速くパスを交換するんだ」

 先回りして僕は言った。

「一分間、ふたりの間で何回パスできるか。バルサユースには、君らと同じ年代で六十回以上パスできるのがいるらしいぜ?」

 ツンツン頭をはじめとする子供たちの目の色が変わる。ライバル心に火がついたのだ。

「じゃあ僕が一分数えておくから、用意はいいか?――はじめ!」

 子供たちが一斉に、勢いよくボールを蹴り出した。速いボールはコントロールが難しく、すぐにあらぬところへ弾いて時間をロスする。

「ああー、ミスった!」

「パスちゃんと出せって!」

「ほらもう二十秒切ったぞ! 速く速く!」

 白熱している子供たちを煽り続ける。

 実はいま彼らにやらせていることは、完全に本の受け売りだ。過去に得た知識が思わぬところで役に立つものである。

 土手の上から降り注ぐ乃梅の生暖かい視線を感じたが、気にしないことにした。気にしないったら気にしない。


 時間が経つのはあっという間だった。

 いつのまにか太陽が低い位置まで沈み、夕焼けが空を赤く染めている。

 本日の締めくくりであるミニゲームを終えた子供たちは、敗残兵のように河川敷に倒れこんでいた。僕も同じだった。最初は子供たちの練習を監視していた僕だったが、場を盛り上げるため熱い演技をしているうちに、いつのまにかのめり込んでしまったのだ。とくに最後のミニゲームでは、走れ走れと子供たちに叫び続けながら、自分でも馬鹿なんじゃないかと思うぐらい必死に走った。フォワード、ミッドフィルダー、ディフェンダーを全て引き受け、くさび役やおとり役を何度もこなしたのである。ぶっちゃけ死にそうだった。たぶん、ひと試合終えた後のネドヴェドより辛い。

 途中からすっかり存在を忘れていた乃梅がひとり歩き、ペットボトルやタオルを子供たちに渡し回っている。どうやら乃梅が家から持ってきたもののようだ。子供たちは何気なく受け取っているので、いつものことなのかもしれない。

「三井くんお疲れ様、ナイスコーチング」

 最後に僕の元を訪れた乃梅は、そう言いながら首にタオルをかけてくれた。

「すごく良かったよ。まさかここまでしてくれるとは思わなかった」

「最後は結局一緒に走り回っていただけだったけどね」

 何とか呼吸を整えつつ言葉を返す。

「それが良かったの」

 乃梅は僕にペットボトルを渡した後、人差し指を立てながら言った。

「だって自分たちより上手な人が、一緒になって真剣にサッカーしてくれる。そんな機会って滅多にないでしょう?」

 たしかに、自分が子供だった頃はそんな機会はなかった。この町には一緒にサッカーをやってくれる年上の人なんていなかったし、少年サッカークラブのような、世代を超えて上級生たちと切磋琢磨する場が存在したわけでもなかった。テレビで有名選手のプレーを見ることはあるけれど、それはやっぱり遠い世界で、ここでは自分たちだけがサッカー界の基準だった。自分たちの中で一番上手ければ、それで良かったのだ。おそらくそれは十年経った今も変わっていないのだろう。

 子供たちに何を教えなければいけないか。僕はそんなことばかり考えていたのだが、余計なことだったのかもしれない。

「それに教え方もすごく上手だった」

 しかしまるで思考を読んでいたかのように、乃梅が僕のネガティブな考えを否定する。注意するのではなく、褒めることで。

 乃梅は前屈みになっていた背を伸ばすと、少し離れたところにいる子供たちに目を向けた。

「あの子たち学校では結構ヤンチャ坊主でね、なかなか言うこと聞いてくれないって先生たちみんな苦労しているんだよ。何故か私の話はよく聞いてくれるから助かるんだけど……」

 そのとき僕は座っていたので見上げる形になったのだが、子供たちを見つめる乃梅はとても優しげに見えた。いまは何故そのように見えるのか、昔と変わらない無表情なのに不思議だった。

「お兄さん、サッカーすると性格変わりすぎだよー」

 それまでへたれ込んでいた白ティーの少年が、とつぜん駄々をこねるように言った。

「スパルタだしなー」

「それに最後のミニゲーム、ひとりで楽しんでたじゃん。フィジカルでごり押ししてさ」

「びっくりするぐらい大人げないよね」

 それを皮切りに次々と飛び出す非難の声。

 おい乃梅、彼らは全然納得していないようだぞ。

「けど」と、ツンツン頭の少年が口を挟んだ。

「まあプロの試合に出ているだけあって上手かったな」

「ぼくたちが出会ったなかでは一番上手かったよね。当然だけど」

 白ティーの少年が合いの手を入れる。その他の少年たちも、そこは異論がないという様子だった。実力については一応認めてもらえたようだ。

 ツンツン頭の少年が言う。

「三井さん、このままプロになるんだろ? しゃーねーから応援してやるか」

 その言葉は胸の奥に深く突き刺さった。だけど外面上は平静を装い、子供たちに対応した。


「じゃあせんせーたち、また」

 子供たちはそんな別れを告げ、遠く電車が走る鉄橋の方へ消えていった。乃梅と僕は反対方面である。知らなかったけど、乃梅いわく祖父祖母の家までは途中まで道が同じらしい。

 僕は乃梅が家から持ってきた荷物(タオルが入ったカバンとクーラーボックス)を肩に下げ、乃梅は麦わら帽子を片手に、並んで歩いた。乃梅が川に近いほうを歩いている。夕陽がどこまでも世界を赤く染めていて、その色で焼き付きを起こしてしまいそうだった。かつての人々はこの景色を見て日ノ下町と名付けたのかもしれない。

「今日は本当にありがとう」と乃梅が言った。

「何かお礼したほうがいいよね。何がいい?」

「えーっと……」

 そんなことは全く考えていなかったので、僕は困ってしまった。

 夕陽に向かって歩く乃梅の姿を見てみると、あらためて美しい女性だと思った。汗のせいで髪の毛が額に張り付いている。それを煩わしいように片手で払うとき、やはり無表情なのだけど、それすらも扇情的に感じさせる魅力がある。

「別にお礼なんていいよ」

 湧き上がってくる邪な感情を振り払い、僕は言った。

「そういうつもりでやったわけじゃないから」

「そう?」と乃梅が言ったとき、がっかりしてしまった。僕はとてつもなく馬鹿なのである。

「だけどサッカーすごく上手くなっていたね」

 乃梅が言った。

「テレビで何度か見ていたんだよ? だけど実際に見ると違うというか。むかしの延長線上で考えていたから、ちょっとビックリした……言葉では表しにくいのだけど」

「まあずっとサッカーしていたからね」

 照れ隠しのように言ったのだけど、それは不思議と自分で言って自分の心に来る言葉だった。

 中学、高校、大学。これまでずっとサッカーに打ち込んできた。そしてプロ。望めばそれが手に届くところまで来ている。

「子供の頃からの夢が叶うんだから、すごいよね」

「子供の頃からの夢?」

 何の話だ、と思う。

「転校するときに言っていたでしょう? 僕は絶対プロのサッカー選手になるのでみんな応援していてくださいって」

 転校前最後のホームルームで、たしかに僕は教壇に立ってそのようなことを言った。あのときはプロのサッカー選手になること以外何も考えられなかったし、何も考えようとしなかった。乃梅は隅っこの席で無表情だけど皆と同じように拍手していて、僕はやっぱり乃梅とはできる限り目を合わせないようにしていたと思う。

「羨ましかったな、あのときは」

 乃梅が少しだけ目を細めた。前を見つめながら、遠くを眺めているようだった。

「私はあの頃、夢もやりたいこともなかったから。あんなふうに自分の夢を語れる人が羨ましかったの」

「そっか」と僕は返事した。

 不意に乃梅が首を曲げ、隣から僕の顔を覗き込もうとした。最近の乃梅の癖なのかもしれない。僕は決まりが悪く、目を逸らしてしまう。

「ねえ、もしかして、なのだけど」

 ゆっくりゆっくり、本音が探られていくようだった。

「もしかして、迷ってる?」

「乃梅はよく喋るようになったよね」

 僕は言った。反射的に出た言葉だった。

「それに先生になるって、どうしたのさ一体。昔はそんなキャラじゃなかったじゃない」

 自分でも棘がある言い方だと分かったが、止まらなかった。

「どんな心変わりがあったんだ? 表情だって、随分豊かになった気がするよ」

「嫌だったからね」

「え?」

 頭にスッと差し込まれるような声だった。思わず乃梅の顔をまじまじと見つめた僕は、彼女の本気の表情をはっきりと目にしてしまった。濁りのないふたつの瞳が、真っ正面から僕を見返している。口が真一文字に結ばれて、訴えかけているように見えるのだ。自分にも他の人と同じように感情があるのだということを。

「私は嫌だったの。無表情と言われることが。無感情と思われることが」

 そう言われることが分かっていたのに、彼女の口から出たとき、ショックは大きかった。

「陰で能面って言われるのも嫌だった」

 乃梅は容赦なく僕の古傷を抉っていった。それで自分も傷つくと分かっているのに、彼女は僕の傷口を抉るためだけに全力を注ごうとしていた。

「体育大会でボールをぶつけられたときも、すごく痛かった。あのとき三井くん、結局謝ってくれなかったでしょう?」

「悪かったよあのときは。どうかしていたんだ」

 耐え切れず、僕は謝った。だけどそうじゃない。彼女は語りたかったのだ。

 乃梅は少しのあいだ僕のことを見つめていたけれど、ついに視線を逸らし、いつのまにか歩みを止めていた足を前に運び始める。僕も慌てて歩みを再開する。すぐ隣に並んだけれど、乃梅はこちらを向いてくれず、気まずい空気が流れた。風景はどんどん流れていく。もう川を離れて住宅地に入っており、いつ別れを告げられるか分からない。決定的な溝が出来ていくようだった。放っておけば修復できなくなる、決定的な溝――

「実はプロのサッカー選手になる夢、一度諦めたんだよ」

 破れかぶれで、僕は自分のことを話し始めた。

「実はサッカーの世界のこと、あんまり分かってなかったんだよね。高校サッカー選手権で活躍して鳴り物入りでプロデビューって思ってたんだけど、世の中はもうクラブユースの時代になっていたんだな」

 俯いてひとりで喋る。

 苦し紛れに話し始めただけのことなのに、当時の思いが胸を締め付け、苦しくなった。だけど僕は言葉を吐いた。一度話し始めると、流れていくように止まらなかった。

「そこには僕よりはるかに上手い奴らがいてさ。同じ年齢のくせに十倍上手いんだ。十倍だよ。信じられなくない? それに、僕は高校ですらレギュラーじゃなかったんだ。一応全国大会には出場したけど、そんなのプロの目に適うわけがない。だからその時点で諦めようと思った。いちおう大学でもするけど、サッカーはそこで終わり」

 苦しさに耐えられず、水面から金魚が顔を出すように空を見上げる。空はもうすっかり暗くなっていた。

「だけど不思議なもんで、肩の力が抜けると結構物事ってうまくいくんだよ。大学二年の後半からレギュラーで出て、三年のときに大会で優秀選手に選ばれてさ。今度は向こうから声をかけてくるようになった。望んでなかったのに、また芽が出てきたんだ。さてどうするか。プロになるか、それとも別の道に進むか。ぶっちゃけプロになったとしても三、四年でクビ切られることもあるし、全然安泰じゃないんだよなあ」

「別の道って、他にやりたいことあるの?」

「ないね」

 乃梅が口を挟んできたことに動揺したのだけど、それを隠すためにきっぱりと言った。しかしそれは紛れもない本心でもあった。他にやりたいことなんて、ない。

「そうなんだ……大変だね」

「ああ、大変だよ」

 本当に大変だった。

 どちらに向かえばいいのか。答えなんてどこにも書いているはずがないのに、その答えを探して自分のルーツを探っていた。それに意味がないことは、自分が一番知っているはずなのに。

「三井くん」

 しばらく無言で歩いた後、乃梅が僕の名前を呼んだ。声に反応して目を向けようとしたが、その前に乃梅が腕をそっと掴む。

「公園、寄っていかない?」


 昔、河川敷でサッカーを始めるまではよく遊んでいた公園だった。

 公園には誰もいなかった。ジャングルジムがあったはずの場所には見たこともない遊具が設置され、砂場には何故か柵が張り巡らされている。滑り台は象を模したファンシーなものに変わっていた。

 暗くなった辺りを照らすために電灯が灯り、スポットライトを浴びたみたいに木製のベンチが浮き上がっている。だけど乃梅はそこに座らず、敷地の端に設置された鉄棒の上にぴょんと飛び乗った。

「荷物下ろしてもいいよ?」

「中身入ってなくて軽いから大丈夫だよ」

「そう」

 乃梅は帽子を浅く被り、遠くの空を眺めた。暗闇に動く雲を見つめるように。その姿は不思議と絵になって、いったい乃梅は十年のうちに何回こうして空を見上げる機会があったのだろうと僕は思う。

「三井くん、さっき私が表情豊かになったって言ったよね」

 まさかの傷口を抉る言葉に、僕は反応できなかった。

「本当に、そう思う?」

 乃梅が首を曲げて僕を見つめてきた。相変わらず無表情なのだけど、電灯の明かりで作られるコントラストが異様に寂しげに見える。おそらくそれは、再会してから初めて彼女が見せた十年分の疲労だった。僕は返す言葉が見つからず、口を塞いでしまう。

「嬉しかった」

「え?」

「よく考えたら嬉しかった、さっきの言葉。だってそれは私がずっと望んでいたことだから」

 乃梅は再び空を見つめた。またしばらく黙るのかと思っていたけど、口が動く。ぜんぶ、と言おうとしたように見えたが、声が聞こえなかった。それは僕の耳がおかしくなったのではなく、彼女の声が出なかったからだ。小さく息を飲むのが見え、わざとではないことが分かる。躊躇しているのがひどく伝わったが――彼女は口を開いた。先ほど言おうとした言葉とは、全く違っていた。

「お医者さんに見てもらったんだけどね、どうしようもないって言われたの」

 彼女は努めて明るく言おうとしたが、顔は笑っていなかった。それはきっと無表情だからではない。

「表情筋をどう動かしてもそう見える顔だから、仕方ないって。我慢できず別の医者に行ったの。そしたら今のままじゃ駄目だけど、整形すれば治るって。私はそれを受けるとも言ってないのに、顔写真を貼り付けたボードを持ってきて、赤ペンでどこをどうするか印を……」

 そこで彼女は言葉を止めた。決壊寸前でダムが堪えるように、感情の激流をそこで押し留めたのだ。顔を一度俯かせて、十分な時間を使ってひとりで立て直そうとしていた。強い人間だと思った。僕なんか相手にならないくらい、すごく強い。

「整形はどうしてもできなかった。もうどうしようもないなあと思っていたとき、能面のことを知ったの」

 乃梅は前を向いた。自分はこの十年間を必死に戦ってきたのだと世界に示すかのように。

「能面はね、役者の芸や見せ方によって表情が何通りにも変わるんだよ。能面自体の表情は変わらないのに不思議でしょう? 私にぴったりだと思った。それに私は能面と違って、少しだけなら表情を動かすことができるし」

 そして彼女は少しだけ目を細くしたのだ。

 笑っている。たしかに乃梅は笑っているように見える。

 乃梅は表情を維持しつつ視線だけをこちらに寄越し、悪戯気味に言った。

「だからあなたたちに能面と呼ばれていたことも、少しは役に立ったかもね。感謝はしていないけれど」

「……悪かったよ、そのことは」

 いかにもバツが悪かった。

 ふふっ、と小さく乃梅が笑う。

「さて、話はこれで終わり」

 帽子を脱いで、とんっと鉄棒から地面に飛び降りた。

「今の話をするためにここに寄ったのか?」

 今更気づいたように僕は言う。

「最初は悩める人にアドバイスをと思ったけど、それはできないと思ったの。だから私も何か告白しようかなって」

 軽口を叩くようだった。先ほどまでの悲壮感はもう無い。

「どう、少しは楽になった?」

 小さな子供に向けるような言い方で、思わず笑ってしまう。

「乃梅って本当に先生になるんだな」

「なるよ、本当に」

 当然のように乃梅が言った。


 また帰ってくるときは知らせてね、そのときにお礼しようと思うから。

 その言葉を最後に、乃梅と別れた。実は分かれ道にちょうど差し掛かろうとしたときに僕が悩みを話し始めたので、ちょっと困っていたらしい。そのことを聞いて再び僕は笑った。

 帰りの電車に乗るときに――そのときには将来に関する結論は出ていたのだけど――昔の、少女だった頃の乃梅の面影が薄れていることに気がついた。どれだけ思い出そうとしても朧げにしか浮かんでこない。僕はそのことを、少しだけ寂しく思った。

              (終わり)

舟橋聖一顕彰青年文学賞というものに投稿したのですが、落選してしまった作品です。


私個人としては一番長くかけた作品で、ずっと眠らせておくのも勿体無いと思ったので公開することにしました。


テーマはタイムスリップでした。

L'Arc-en-Cielにタイムスリップという歌があるのですが、あれが好きで好きで。

※さっきタイムマシンて書いてた(汗 訂正。


いま見直してみると設定とかかなり適当な部分がありますが、個人的にはこの作品は気に入っています。


なにか感想いただけると嬉しいです。

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