波佐見高校陶芸科
序章『楽観的な臆病者』
五月は暑い。新倉玉夫は汗を拭った。大量の陶器の入ったダンボールを運びながら人を掻き分けて歩く作業は、非常に困難だった。
出店のあるメインストリートには、ここぞとばかりに人が群がっていた。ほとんどが体回りに余計な肉をつけた小母さん連中、その中にちらほらと、若夫婦や家族連れの姿があった。
人口が一万五千の長崎県 波佐見町は、年に一度の祭りに賑わっていた。陶器が盛んな町として行っている波佐見町陶器市には、全国から観光客が訪れている。
メインストリートから目線を上げると『世界の窯広場』という小さな丘があった。名前の通り、世界各国の古い窯が設置されていた。
下から見える、徳利のような形をした窯は『ボトルオープン昇炎式窯』といい、イギリスのストーン・オントレントで十八世紀の中頃から使用されていた、珍しい形をした窯だ。
玉夫の隣で観光に来たカップルの女が、興味をそそられたのか、恋人の腕を引っ張り、「近くで見たい!」と、せがんでいる。
この地で生まれた玉夫にとっては、ただの徳利窯でしかない。蔑んだ気持ちで、挑発するように胸の開いた服を着た女を見た。
最近では女の胸を見て、心が躍ったり、下半身が反応したりしなくなった。
俺も大人になったのかな。
皮肉のように聞こえ、玉夫は鼻で笑った。
『割れ物注意』と大書したダンボールを持っていると、近くの小学校から来た騒がしい集団が走り抜けていく。玉夫は足を止めた。
邪魔なのと、仕事をせずに遊び呆けている子供への嫉妬から、わざと聞こえるように舌打ちした。
辞めたい。
大空を見上げ、このまま齷齪と働く目になる自分を想像した時、玉夫は思うのだった。
大学時代、遊びでやっていたバンドに、いつの間にか夢中になっていた。就活もせずにライブ会場を回り、デビューの道を探っていた。
しかし両親には口が裂けても「就活をしていない」と言えなかった。
遊んでいると判断されて終わりだと、分かっていた。
もしかしたら、遊んでいると俺自身が感じていたからなのかもしれない。
年が明けて、周りの連中も就活に勤しみ始めた。
挙げ句の果てに、俺だけが進路未決定という衝撃の事実を突きつけられた。俺は母親の言いつけ通り、母親が働く陶器会社にコネ入社した。
結局、両親は、俺がバンドをやっていたとは、未だに気付いていない。
俺は言い出せずに今日まで過ごしてきた。
だが……。
やっぱり、こんな仕事、俺には向いていない。
もっと煌びやかで燦然と輝く仕事が、俺らしいんだよな。しかも会社の連中と来たら、俺がコネ入社と知ってんのか、馬鹿にしたような目で見てきやがるし……。
誰が好き好んで、落ちぶれた陶器会社になんて入るかよ。
バカ両親も、息子の夢ぐらい、言わなくても気づけっての!
玉夫が足取り重く自分の会社が出展しているテントに向かって歩いていると、十字路の端に来た。ここを右に曲がると、波佐見町陶器の美術館がある。
だが、玉夫の目に付いたのは、一軒の古本屋だった。出店といえば、カキ氷や籤はよく見かけるのだが、本屋とは、なんとも珍しかった。
玉夫は足元にダンボールを置くと、適当に本を立ち読みする。店主は、髪の長さから、ようやく女性だと気付くほどの、中性的な顔の女だ。女は玉夫に購入を期待してか、ちらちらと視線を送っている。
玉夫は時間潰しも兼ねて、適当に本を取ると、ぱらぱらと読み飛ばしては、次の本を手に取った。
その時に、懐かしいタイトルが目に入った。中学時代に朝の十分間読書で読んでいた、ファンタジー小説だった。
玉夫は記憶を呼び起こすと、最初に書いてあるイラストを見つめた。
その時に、店主の女が話しかけてきた。
「お仕事中ですか?」
あからさまに「買う気がないのなら、帰れ」という雰囲気に満ち満ちた声色だ。
玉夫は、おざなりに返事をすると、パラパラ漫画を見るようにページを捲り、退散しようとした。しかし最後のページで、ふと手が止まった。
◆新人賞募集! 来たれ、未来の文豪!◆
玉夫の頭に、ふと妙案が落ちてきた。
「どげんかしたとですか?」
玉夫は女の言葉に我に帰ると、すぐさま手にした小説を差し出した。
「これ、ください」
お金を払い、ポケットに本を入れた。ダンボールを担ぐと、自社のテントを目指して歩いていく。
しかし、玉夫の足は、先ほどまでとは打って変わり、軽やかに動いている。
小説家であれば、両親に隠れてできる。俺にぴったりの職業じゃないか!? バンド時代には作詞もやってたし、小説なんて、楽チンだな。
印税生活。玉夫が望む、煌びやかな世界へと誘う魅惑的な単語が、頭の中に浮かんでいた。
第一章『波佐見高校陶芸デザイン科』
1
四月の太陽が差し込む学び舎で、選挙カーにも負けない大きな声が、波佐見高校一年六組の教室で鳴り響いている。
「ばってん、波佐見焼が有田焼に劣るというふうけたことばぬかしよる連中に日本は溢れかえっとる!」
歴史教諭兼担任の藤沢は縄文時代の話から波佐見町の伝統工芸品である波佐見焼に話をすり替え、勝手に熱くなっている。油まみれのデコには残り僅かな前髪が張り付き、張り上げる声は、虫の羽音のようだ。
しかし一年六組は、口角泡を飛ばし熱弁する藤沢に聞き入っていた、ただ一人、木下洋子を除いて。
ぎゃん、きっついわぁ……。
洋子は頬杖をついて、欠伸を噛み殺した。
洋子は福岡県大川市から、波佐見高校に入学した。中学の時に父が波佐見町に転勤になると聞き、慌てて波佐見高校への受験を決めた。だからこそ、波佐見焼の歴史も知らなければ、興味も一切ない。
五十を越えたおっさんが熱くなっている姿は目に悪いと、洋子は窓の外へと目を向けた。
窓枠に、洋子の姿が映る。通信簿で評価すれば、顔は三でスタイルは二だった。五流の私立大でさえ、推薦では取ってくれない。
窓枠に映る現実と耳から侵入してくる濁声が相まって、洋子の癇に障った。
聞こえてくる内容は、普段と判を捺したように同じだった。
波佐見焼の歴史は古く、約四百年前、慶長三年から作られている。大衆向けの陶磁器として誕生し、江戸庶民にも愛されていた。明治時代には存亡の危機を迎えるが、偉大な陶工たちによって徐々に活気を取り戻していった。
耳に胼胝ができるほど聞いている。お決まりの喋り出しに、もしかしたらあまり詳しくないんじゃないかと、洋子は邪推する。
藤沢は舌の滑りよく、波佐見焼の現状に話題を移す。
「しかし現代になり中国や東南アジアの安価な陶器が全国シェアを伸ばしている。しかし脈々と受け継がれてきた波佐見焼の窯の火を消すわけにはいかん! だからこその波佐見高校陶芸デザイン科だ。お前らは波佐見焼のためにがんばらないといけない」
洋子は何を血迷ったのか、普通科ではなく陶芸デザイン科へと願書を送っていた。未だに自分の過ちを悔いているのは、言うまでもなかった。
洋子は窓枠に収まった二次元の空と自分の将来を重ね合わせる。私が今、何をやりたいのか? と問われれば「やりたいことはない」と答える。夢は? と問われれば、「ない」と即座に答える。
夢も希望も否定文に侵食された未来しか、私には待っていないんだ。
急に洋子の目の前が暗くなった。ついに将来だけでなく目先の|人生さえも影に覆われたかと目線を上げると、藤沢が仁王立ちしていた。
「なんばしよっとか、お前は?」
打って変わって低く押し殺したような声。何を押し殺しているのか、洋子は瞬時に判断し、頬を強張らせる。
「なんばしよっとかって聞いとるとぞ?」
返事如何では、右手に持った歴史の教科書が飛んでくると分かった。洋子は頭を回転させ、危機を回避できる返事を探し当てた。
「藤沢先生のお話を聞くために、耳を傾けていたんです!」
愛想笑いの甲斐もなく、怒りの篭った教科書の角が振り下ろされた。
2
授業終了を告げるチャイムが鳴ると、藤沢は熱弁が嘘のように淡々と教室を出て行った。 疼痛と熱を生み出し続ける頭を洋子が撫でていると隣の席にいた 井頭史江が声を掛けてきた。
史江はシャンプーのCMに出てきそうなほど綺麗な黒髪で整った顔をしているが、今は綺麗な眉尻を下げている。通信簿で表せば顔は四、スタイルは五だ。
「災難やったね」
史江が訛った言葉を使うと違和感がある。東京生まれの肩書きが似合う外見をしているからだった。
洋子は眉尻を上げ、口を開く。
「ったくもう、なんなん、あいつ!?」
「藤沢は波佐見焼のこととなると| 手がつけられないから《てしかわらんから》、| あんまり気にしないほうがいいよ《あんまうてあわんほうがよかよ》」
史江に宥められても、洋子の忸怩たる思いは消え去ることはなかった。
波佐見焼が大好きなら一緒に窯で焼かれればいいさ! 油分を豊富に含んでいるから、よく燃えるでしょうよ!
洋子は、炎の中で悶え苦しむ藤沢を想像する。
「ちおい、顔が悪人面になってるぞ」
史江の手刀に洋子は我に帰る。
「……ったぁ。てか『ちおい』って何? 波佐見の方言と?」
洋子の手刀で痛みがぶり返した洋子は、頭を擦りながら聞いた。
洋子は同じ九州の福岡生まれなので大体の言葉は伝わる。だが、波佐見には独特の方言が多数あり、たまにニュアンスで判断していることがあった。
史江は恥ずかしそうに口を押さえた。
「ごめんごめん、私らの中学で流行った言葉なのよ。もう完全に口癖になっとった。でも、私も何となく使っとったから、どういう意味なんだっけ、ツッコミの時に使うんだけど」
もごもごと独り言を呟く史江は
「おーい、 千佳、ちょっと来て」
奥の棚からスケッチブックを取り出している 武富千佳を呼んだ。千佳は高校には不釣合いなほど身長が低く、顔立ちも幼い。顔は五でスタイルは一だ。でも、とある層ではスタイルは五に変換される。
スケッチブックを脇に挟むほどの筋力がないために頭の上に持ち上げる様は、マサイ族のようだ。
史江と千佳は、中学時代からの友人らしい。ちなみにクラスのほぼ全てが同じ中学の出身だ。例外は洋子のみ。
よく溶け込めたなぁ。我ながら、愛嬌と人懐っこさに自信を持つ。
「どーしたのっ?」
千佳のお下げが、犬の尻尾のように跳ね回っていた。
「ちおいってさ、私たち、よく使っとるけど、どんな意味だったっけ?」
史江に聞かれ、千佳は腕を組んで考える。おさげも千佳に付随するように力なく垂れ下がってしまった。
洋子が生きているようなおさげに興味が湧いていると、千佳は勢いよく顔を上げた。
「ちおいに意味なんてないんだよ!」
千佳が自信満々に答えるので、洋子は口をあんぐりと開けてしまった。
つまり史江たちが使う意味のない言葉の意味を洋子は聞き、千佳は意味のない言葉の意味を考え、意味のない言葉だと断定した、と。
詳しく分析すると、一連の流れがまさに意味のないものだと見せ付けられ洋子は、虚脱状態になった。
「……じゃあ結局、ちおいってどんな時に使っとると?」
かろうじて言葉が出た。
千佳は目を爛々と輝かせ、説明をする。
「つまりね、相手がおかしいことを言ったときに、すかさず入れるツッコミなんだよ! さらに勢いよくツッコミたい時には『ととちおいっ!』がお勧めだよ」
「薬みたいに用法、容量を守って正しく使わないといけないのね……」
無意味な言葉の奥深さに、洋子は僅かな驚きと多大な呆れの感情を持った。
「ほらほら、馬鹿なことばっか言っとらんで、さっさと移動しよう、次は美術でしょ」
論議の発端となった史江は、ちゃっかり美術の準備を済ませていた。周りを見渡してもいつの間にか教室は三人だけになっていた。史江に急かされながら、洋子と千佳は慌てて準備をして教室を出た。
時間が経つのが早い。洋子は、三人で過ごす無意味な一時を楽しんでいたんだと自覚した。
3
美術の授業は、写生となった。校舎敷地内で風景を描く。完成した絵は授業の終わりに提出をしなければならなかった。
洋子たちは話し合いの末、校庭から見える山を描くことにした。
洋子たちは、校舎前に設置された赤煉瓦造りの花壇に座る。天気は晴れで、太陽の照らす光で、山や田圃が輝いている。洋子は栄養を吸収しようと、大きく息を吸った。
「気持ちよかね、天気はいいし、長閑だし」
左側に座る史江が笑いかけた。
「鬼木にある棚田は、もっとすごかよ。山を開拓して、田圃が段々に並んどるとよ」
史江は髪を掻き分ける。耳に付けている金色のピアスが、太陽光に反射していた。
洋子は史江がピアスを付けていることに違和感を覚えた。貴金属を身に付けるような人種と史江は、どうしても結びつかない。洋子は思わず、男からのプレゼントかと推測する。
いやいや、余計な詮索は無用だ。
洋子は好奇心を、ぐっと抑えこんだ。
誰にだって、隠し事ぐらいある。史江が話したいときまで、追及するのは止めよう。
「へぇ~、今度、連れてってよ」
洋子としては頭で考えずに出た言葉だった。しかし、史江は気まずそうに目線を外す。
「そうね、いつか……ね」
消え入りそうな声で呟くのみだった。
史江の反応が気がかりだった。しかし史江の横顔からは「もう触れるな」と言っているような気がした。
洋子も一息ついて、真っ白な画用紙に鉛筆を当てる。一応、提出しないといけない課題なので、洋子は集中して、目の前に広がる山々を描写した。
山と手前に広がる田園を描き終わり、完成に近づいていた時、洋子はふと顔を上げた。いつの間にか、洋子たちの周囲に他のクラスメイトが見受けられるようになっていた。
花壇の奥にある芝に、一人で描写している詰襟の男子生徒と仲睦まじく見せ付けるように描いている男女の姿があった。
洋子は右側に座る千佳を肘で突いた。
「ねえ、あの二人ってさ、付き合ってると?」
見ず知らずの人間に対して洋子は好奇心に従順だった。聞こえないように配慮して、千佳に聞いた。
千佳は耳元で声を潜めた。
「 未来と 学? そうよ。確か中学の時から付き合っとったはずよ。もう、かなり長かね」
「へぇ、未来と学っていうんだ」
通信教育誌みたいなカップルだな。
「あそっか。洋子ちゃんは知らんとよね。 立花未来と 奥学って名前とよ。出逢った瞬間に互いが恋に落ちたんだって」
運命的な許婚みたいな? ないないない! 川を流れる桃から男の子が出てくるぐらい有り得ないって!
洋子は、木陰の下で乳繰り合うご両人を盗み見た。
千佳にもう少し根ほりぐらい聞けるかもしれんな。きっかけとか、別れの危機とか教えてくれるかも……。
洋子が野次馬根性を剥き出しで千佳に再度の質問をしようとした。しかし、千佳の視線は明後日の方向に釘付けになっていた。
洋子は視線の先を追った。
二人の男子生徒の姿があった。一人は先ほど見かけた男子生徒だった。もう片方は、見た記憶のない、天然パーマが特徴的な男子生徒だった。
天然パーマが男子生徒に肩を回して、何事かを話していた。男子生徒が首を振るたびに頭に拳骨を食らわせている。
端から見て、仲良く写生はしていないと分かった。
「……困ったもんだよね」
千佳は洋子の視線に気付いたのか、ぽつりと呟いた。
「あの男子も、昔から苛められとると?」
「 相沢健君? うぅん、どうだったかな?」
千佳は困ったように笑った。
まあ、何にしたって――
洋子はスケッチブックを置き、すくっと立ち上がった。
「洋子ちゃん……?」
千佳が驚きと不安を持って見上げていた。
洋子は力強く、一歩を踏みしめた。
「精神衛生上、良くないから止めてくる」
宣言して踏み出した瞬間に、千佳が洋子の手を取った。
「止めときなって。ほっといたら、きっと収まるからさ」
千佳らしくない、大人な意見だった。なのに顔には、真剣さと必死さがあった。しかし洋子は制止を振り切った。
おそらく千佳は厄介事に関わるなと言いたかったのだろう。しかし、最低でも一年間は同じクラスになるのだ。厄介事は早めになくしたほうがいい。
出る杭は打つ! 使い方は間違ってるけど、とにかく打つ!
「ちょっと、止めなさいよ」
大股で近づいていった洋子は、天然パーマを注意した。
洋子は天然パーマから応戦されるだろうと予測していた。
『んだ、こらっ!? てめえ文句あんのか、こらっ!?』
パンチパーマでメンチを切られると考えて、先の行動までシュミレートしていた。
だからこそ、洋子は反応に戸惑ってしまった。
天然パーマは大きな瞳を潤ませ、目線を右往左往させているのだ。体が小動物のように震えている。
背丈も、近くで見ると私とあんま変わんない。なんかパーマの感じから、トイプードルみたい。……かわ――いやいや、甘くしちゃいけない!
洋子が乱暴に天然パーマの腕を取ろうとした瞬間――。
「止めろ」と冷めた声で、洋子の手は払いのけられた。
洋子が驚き、目を向けると、苛められていたはずの相沢が、厳しい目をしていた。あらゆる事象を排除するナイフのような目つきだった。
払いのけられた手が、じんじん痺れている。洋子は、善意も踏みにじられたような気がして、頭に血が昇った。
「何よ! 助けてあげたとやろ!?」
洋子の怒声を、相沢は「頼んでねえよ」と、冷たく突き放した。
相沢は厳しい表情のまま、芝の上に投げ出されたスケッチブックを拾う。
天然パーマは洋子から逃げ出すように校舎に走り去った。相沢は、いつの間にか、写生を再開している。
何事もなかったかのような相沢の態度。まだ言い足りないと詰め寄ろうとした洋子の腕を握り締めたのは、苦笑いを浮かべた千佳だった。
「洋子ちゃん、早くしないと、授業が終わっちゃうよ」
強引に花壇へと連れ戻されている間、カップルが驚愕と書かれた顔で洋子を見ていた。
授業中に自信満々で手を上げたが、不正解だったような気恥ずかしさが洋子を襲っていた。
洋子は結局、課題の提出をすることができなかった。怒りに満ちた洋子は、消しゴムで書き損じごと画用紙を破ってしまったからだった。
どれもこれも全て、あの相沢ってやつのせいよ!
4
昼休みを挟んで、午後からは、陶芸の授業がプレハブ美術室で行われていた。
粘土の持つ土臭い匂いが充満した部屋で、誰一人として私語することなく、ジャージ姿で電動轆轤を廻している。
一年六組の生徒たちは波佐見焼の中でも最も伝統的な磁器、〝くらわんか碗〟を作っていた。くらわんか碗は江戸時代に使われた食器であり、米だけでなく、汁物にも使われていた。名前は京都の淀川で商人が食事などを売った『くらわんか舟』に由来している。
江戸時代には庶民に手の届かない代物であった磁器を安価で広めた由緒ある器である。
波佐見町に住む波佐見高校の生徒であれば、歴史も作り方も全ては脳に刷り込まれていた。
たった一人を除いて。
洋子は、冷や汗を流していた。
ただ、目の前に割り当てられた粘土や轆轤を持て余していた。
陶芸デザイン科に席を置いているとはいえ、洋子は陶芸に関しては素人だった。初めに何をすべきなのかすら分からなかった。史江や周りのクラスメイトに聞こうにも空気が許してくれない。
空気が充満した風船のような室内、もしも、私のせいで破裂したら……。
考えるだけで、冷たい汗が大量に流れた。
美術教師も、奥にある美術準備室に篭りっきりだ。いくら陶芸デザイン科とはいえ、みんながみんな、熱中しすぎではないだろうか。
単なる図工だと、浮かれていた昼休みが懐かしい。
写生の時間に相沢を苛めていた天然パーマでさえ、目の前で形を変える粘土に心血を注いでいた。
出身が波佐見町であるとか、陶芸デザイン科だからとかが、みんなを創作意欲に突き動かしているのか? 多分、違うような気がする。
授業が終わった後、立ち寄ったトイレで、洋子は史江に疑問をぶつけてみた。
史江は手櫛で長い髪を整えながら、説明してくれた。
「ああ、私たちの作った器が、陶器市に出品されるからね」
波佐見町では年に一度、陶器市という祭りが催されていた。波佐見町内にある波佐見焼の窯元が奮って参加し、県外からの観光客も大勢が訪れる。
陶器市には波佐見高校も運営の手伝いとして参加し、陶芸デザイン科の生徒が作った器は、特設のテントに並べられる、ということだ。
「だから、窯元の目に触れられる。もし気に入られたら、就職先は決まったも同然だからね、みんな、気合が入るとよ」
洋子は前髪を直す振りをして、目を床に向けた。
「……史江も、やっぱ窯元に就職すると?」
「私は、お父さんが一人で波佐見焼を作ってるから、将来的には継ごうと思っとるとよ」
史江は、さも当然といった口ぶりだった。
洋子は少し距離を置かれた気分になった。
「洋子、早く教室に戻ろう」
鏡越しに、史江が呼ぶ。
「う、うん」
洋子は、どうにか返事をした。
前を歩く史江の背中が前よりも遠くに感じられた。夢も目標もない私は史江にどう映ってるんだろう?
なぜか不安になった。
5
帰りのホームルームも終わり、洋子は学校指定の革鞄に教科書を詰め込んでいた。
「ねえ、帰りにさ『トンボ』寄ろうよ」
史江が肩に鞄を担いで話しかけてきた。
「何、トンボって?」
「駄菓子屋だよぅ!」
洋子の質問に耳元で千佳が答えた。ニンニク一片ぐらいの大きさの鼻をふんふんと鳴らして「ふがし~、ふがし~」と息巻いていた。
いつの間に現れたのか? 小さな体躯を生かして、隠密行動とかできるんじゃなかと?
洋子が千佳の秘めたる可能性に空想を膨らませていると
「ちょっと、よか?」
透き通った声が、背後から話しかけてきた。
洋子が振り返ると雀斑が印象的な女の子が笑顔で立っていた。
「あれ、 飛鳥ちゃんだ。どげんしたと?」
千佳が、まん丸の目を声の主に向けた。
「うん、木下さんに用があって」
「洋子に? 滝口が?」
今度は史江が質問した。
二人の呼び名から名前が滝口飛鳥だと判明した。
洋子は呼び名を滝口さんにしようと決めて口を開いた。
「用って何?」
飛鳥は「ああ」と呟きながら、鞄から書類を取り出した。よく見ると作文用紙で、文字が記入されていた。
「歴史の課題だったレポート、木下さんだけがまだ出しとらんとけど。期限は一応、今日までやったけんが……」
歴史の課題? 何、それ?
洋子は史江に答を求めて目を向けた。史江は腰に手を当てていた。
「あんた、まだ出しとらんやったと?」
洋子は首を横に振った。
「……早く出しなさいって」
再度、首を横に振る。
「いや、何でさっきから……って、あんたまさか……!?」
やっと気付いてくれた。洋子は力なく頷いた。
史江は大切な花瓶を割ったように手を目に当てた。
私、課題なんて聞いていない……。しかも今日までって、絶対に間に合わない。あの油ギッシュな教師から怒られ決定、確定、運命。
暗澹とする洋子の肩を飛鳥が叩いた。
心中を察してくれたのか、笑顔で作文用紙を差し出してくれた。
「これ、余りものだから使ってよかよ。あと職員室の藤沢先生の机の上に置いておけばバレんと思う」
飛鳥は小悪魔っぽく笑った。
今度は史江が、ブレザーの腕を捲った。
「しょうがない、私と千佳が手伝うから、さっさと終わらせましょ」
史江は言い終わると、すぐに洋子を教室から連れ出す。千佳も史江に従いていった。
捕虜と化した洋子は、礼を込めて飛鳥に手を振った。飛鳥も嬉しそうに返した。
「図書室なら資料も沢山あるでしょ。丸写しは、さすがにばれるし、あんたの教育上よくない」
まるで母さんだ。洋子は笑い声を零した。
「むー、洋子ちゃん。今の状況で、何ば笑いよっと?」
千佳が責めるように口を突き出した。
洋子は嬉しかった、私が窮地に追い詰められた時に、率先して助けようとしてくれた史江、千佳、飛鳥という存在が。
「いや、やっぱし、持つべきものはコネだよね」
洋子の頭に史江の手刀が振り下ろされた。
「友情って言いなさい」
6
「レポートの課題は波佐見焼の歴史だったわね。図書室なら腐るほど資料はあるわ」
史江は勢いよくドアを開けた。図書室の床には朱色のカーペットが敷いてあり、壁にはお手製の書物人気ランキングが掲示されていた。
館内に、人の姿はない。千佳が『図説・波佐見町史』と書かれた本を持ってきた。赤い表紙に金色で題名、見るからに古そうな本だった。
洋子たち三人は、壁側の席に座る。千佳がページを開きながら丁寧に説明する。
「ねえ、申し訳なかとけど、今さら勉強したって遅くない? 書く内容だけでも教えてもらえれば」
何てったって締め切りは今日なんだ。
しかし千佳は、ページを開く手を止めなかった。
「洋子ちゃんはさ、どこまで波佐見焼について知っとる?」
「……まあ、けっこう歴史が古いとか、有田焼に劣っているとか、かな」
出典は歴史の授業での藤沢だ。
千佳は、分厚い本を洋子に差し出した。
「波佐見焼の始まりは、慶長三年。ちなみに有田焼は、元和二年。年にして約二十年近く波佐見焼のほうが古いんだよね」
「へえ~、意外」
洋子は驚きを率直に口にした。基本的に、歴史が深い事物が現代に根付いていると思い込んでいたからだった。
「よく言われるんだよねえ、波佐見焼は有田焼を模倣したんじゃない? みたいな陰口をさ。でも実際、私たちのほうが早く作ってたんだよ」
洋子は、ばつが悪く、首を引っ込めた。洋子も同じように考えていたからだった。
「……だから、有田町と仲が悪かと?」
藤沢の口ぶりからも、有田町との仲が良くないと感じていた。
「違う」
洋子の問いに答えのは、史江だった。史江は本を持つと、別のページを開いた。
筆で描かれたと思われる絵には、鎌や鍬を持った、農民らしき大勢の人が殺し合っていた。
「当時、波佐見焼の材料である薪炭が取れる山、幕の頭では、有田町との争いが日常茶飯事だったと。幕の頭は、有田町との境目にあってね、お互いが同じ薪炭を巡って盗み、殺しが行われていたと。結果的に、何人もの死傷者を出す惨事になった。だから、互いの藩が話し合い、領地を決めたんだ。領地の目印となる三領石を建て、争いはなくなったとけどね」
洋子は首を傾げた。
「じゃあ、仲違いする必要なんて全然ないじゃん」
史江は首を振った。
「違うよ。三領石が置かれた場所は、今では波佐見町の領内になっている。つまり波佐見町は、かなりの領地を奪われたんだよ」
「何でまた?」
「当時の大村藩主、 大村純富は、金で領地を売った」
史江の声には、怒りが篭っていた。
「田畑永代売買禁止令が出てたから、あくまで話し合いの末に決めた、となっているけどね」
「ごめん、分からん」
急に歴史の用語が頻出して、洋子は混乱した。
「享保の飢饉が起こったんだよ。冷夏と虫害で、米ができなかったんだ。だから純富は、飢餓から藩に住む者を救うため、大量のお金が必要だったんだよ」
史江は唇を噛んだ。背に腹は代えられないと、おそらく当時の陶工たちも同じような思いだったのではないだろうか。
「領地だけじゃない」
次に話し出したのは、千佳だった。
「どうして有田焼が全国区になったと思う?」
「そりゃ、昔から流通してたからでしょ。波佐見焼だって、同じじゃなかと?」
「そうだよ、確かに波佐見焼は全国に流通していた。でも、波佐見焼として全国に出回ったわけじゃないんだ」
洋子は一気に情報を入れてしまったために、頭が痛くなってきた。
「有田焼として全国に送られていってたんだよ」
「ん~、何で?」
「波佐見町には、江戸まで焼き物を送る方法がなかったんだよ。だから、隣の佐賀藩から送られていたからね……もう、一緒くたにされてたんだよ! 絶対、わざとだよね、波佐見焼っていう名前を広めたくないっていう、姑息で矮小で卑怯な、いかにも有田人らしい考え方だよね!」
いきなりスイッチの入った千佳が、口角ぺっぺと激しく泡を飛ばして捲し立てる。おそらく波佐見町の偏った被害妄想的思考も含まれていると直感した。
「どう、分かったでしょ? 有田の人間なんて、許しちゃおけないんだよ、ね?」
千佳が目をひん剥いて洋子に同意を求める。洋子は千佳の迫力に圧倒されながら、何度も首を縦に振った。
「ちおい、洋子を洗脳すんな」
千佳に史江の手刀が下ろされる。波佐見町の呪縛から取り払われたように、千佳が我に帰る。
「はっ……、私は何を……。『図説・波佐見町史』には亡霊が宿るっていう学園七不思議は、本当だったのね」
洋子は、取りあえず何も聞かなかったと、脳を誤魔化す。
「まあ、今も言ったような歴史もある、って覚えておいて。じゃあ、さっそく課題をやっちゃおうか」
史江が、にかっと笑って、歴史考察を締めた。
夕日がどんどん沈み、今日が終わっていく。課題が完了するのはいつになるだろうと、暗澹とした気持ちになった。
ただ波佐見町は有田町に対して憎しみともいえる感情を抱いていると分かった。
7
洋子は清々しい気持ちで教室の扉を開けた。課題を提出した洋子は、ない胸を張って教室を歩いた。
鞄を置いて机に座る。黒板に白い文字が見えて目線を向けた。でかでかと黒板に『本日の授業は陶芸のみ』と書かれていたのだ。
隣の席では史江が何も疑うことなくジャージを紺色のサブバッグから取り出していた。周りの生徒たちも、以下同文。
洋子は、脳内で生まれた数ある疑問を、一つの言葉に集約した。
……何で?
洋子は一瞬、疑問が降って湧いた、が――。
まあ、陶器市も近いからかな。
と簡単に考え直せた。むしろ、授業がなくてラッキーだとも思った。
完全に課題提出の効果だった。
陶芸の時間、ひ弱な美術教師が、洋子を準備室へと連れて行った。
訝しく思いながらも、洋子は準備室へと入った。洋子の顔から、さっと血の気が引いた。課題の提出に浮かれているところを、思い切り床に叩きつけられた気分だった。
準備室には腕組をした藤沢が立っていた。唇を硬く結んだまま、洋子を椅子に座るように、顎で促す。
洋子は、怖々と席についた。四畳ほどのスペースには、所狭しと波佐見焼が置かれている。
正面に立つ藤沢は、鼻息荒く、洋子を睨みつけた。
完全に、課題提出について怒られるのだと直感した。藤沢は史江たちに手伝って貰ったと気付いたんだ。きっと卑怯だと思ったんだろう。利口とか協調性があるとか、好意的な受け止め方だってあったろうに……。
しかし藤沢は、洋子の予想外の言葉を発した。
「陶器作りは、どこまで進んどるんだ?」
洋子は驚いて、顔を上げた。どうやら課題の話ではなかったらしい。一度、安堵したが再び胸を潰すような恐怖にも似た感情が襲ってきた。
「……粘土に触るところまでです」
つまり、何も進んではいない。
次こそ怒られると歯を食いしばった。が、藤沢は予想に反して困ったように眉尻を下げるだけだった。
「お前は他県の人間だからな、分からんのも無理はなか。でもな、だったら聞けばよかろう。教師じゃなくたって、お前は千佳や史江と仲がよかとやろ?」
「は、はい……」
何か滅茶苦茶、私に気を掛けてくれてない? 何か、浮気を隠すために恋人に尽くすみたいな裏を感じるのは、気のせいか?
藤沢はジャージの袖を捲った。
「俺が教えてやる。はよ完成させんば、陶器市に間に合わんごとなっぞ」
何だろ、優しさを気味悪く感じる時もあるんだね。
藤沢は洋子が無礼な感情を抱いているとも知らずに新品の粘土を机の上に置いた。
「まずは、土を練れ」
ほぐせってことね。
洋子は藤沢の意図を汲み取って、掌で粘土を押した。授業中にクラスメイトが同じような行為を行っていた。洋子は見様見真似でやった。
「よし。暫く続けろ」
藤沢はパイプ椅子に腰を下ろして言い切った。
簡単に言ってくれるが、中々に根気と力のいる作業だぞ。猫の手じゃなく、男手が必要だと思うよ。
さすがに藤沢に手伝ってとは言えないので、洋子は黙々と作業を続けるしかなかった。
「なあ、木下」
腰が痛みを訴え始めた頃、藤沢がいきなり口を開いた。
「何ですか?」
正直、休みたくてたまらなかった。口を開くのも億劫だったが、無視すると後が怖かった。
「学校生活は楽しいか?」
洋子は視線を粘土に向けたまま、答える。
「ええ、ま」
頭は回っていない。舞台上でのセリフのように答えた。手は粘土を押さえ込んでは、丸く戻し、また押し込む。一人餅つきみたいだな。
「将来の夢は?」
「史江や千佳と楽しく学校生活を送ることです」
即答だった。意外と本音だし。夢とか目標はないけど、今のまま史江や千佳たちとずーっと一緒に入れればいいな……
洋子の手は一瞬、はたと止まった。
○×窯とか会社名を言ったほうがよかったんじゃ……。みんな陶器会社で働く将来を夢見てるんだから。波佐見高校陶芸デザイン科の模範生はきっと楽しい学園生活なんて夢を語っちゃいけないよね?
一気にドバーっと冷や汗が流れた。藤沢が激怒する恐怖に耐えながら、粘土を練りこんだ。しかし藤沢は黙りこくったまま無言を貫いた。
生殺しの時間は五十分間も続いた。
8
休み時間、屋上から天高く昇る太陽が、雲に覆われていた。洋子は息の詰まる準備室から屋上へ脱出していた。
鉄格子に体を預け、ぼうっと曇り空を見ていた。深海から上がったように洋子は大きく息を吸い込んだ。
あんまり深く考えなかったけど、よく考えれば授業を全部、とっ替えるって普通じゃないわよね……。波佐見高校だけじゃなく、波佐見町そのものが焼き物を中心にできあがってるみたいだ。
史江や千佳は、波佐見焼については深い知識を持っている。クラスメイトも波佐見焼作りに心血を注いでいる。
みんなすごいよなぁ……、偉いよなぁ……。
私とは大違いだ。
洋子はコンクリートに視線を落とした。
たまに距離感が掴めなくなる。
私はただ史江や千佳と楽しく学校生活を送れればいいだけだからな。夢とか目標なんて高尚な意識は持ち合わせていない。
コンクリートがどんどん影に覆われていった。洋子には光を当てる術はなく、ただ呆然と見送るしかなかった。
「……何やってんだよ?」
突然、声を掛けられた洋子は、音源へだらりと首を回した。
隣には短髪が風に揺れる相沢がいた。鉄格子に腕を乗せて視線は波佐見町の山々に向けられていた。
洋子は意外に思った。写生の授業中の件以来、相沢には嫌われていると思っていたからだった。しかし現在の藤沢からは敵意のようなものは感じなかった。
「別に。休み時間の目的に則って、休憩をしていただけよ」
相沢は答えない。相槌すらない。しかし、なぜか嫌な気分ではなかった。
さて、そろそろプレハブ室に戻らねば。
洋子はスカートをはたいて立ち上がった。
「……お前、陶器作りはどこまで進んでるんだ?」
藤沢にも同じことを聞かれた。陶器、陶器、どいつもこいつも口を開けばインコみたいに同じ言葉を繰り返してさ。
洋子は嫌気が差してきていた。
「まだ土を練っただけよ。でも今日中には完成すっと思うよ」
相沢の背中が「完成」という単語にぴくっと反応した。
しかし特に意見もなく、相沢はまた無言になった。
洋子は相沢の態度に疑問を持ったが、背中を向けて屋上の出入口へと向かった。
「おい」
相沢の声が背中から聞こえた。洋子は足止めを食らったと多少のイラつきを覚えて振り返った。
「何よ?」
声に険が篭る。
しかし相沢は答えない。最初と全くポーズを変えずに立っていた。
「………………何でもない」
洋子は思いっきり肩透かしを食らった。
何よ、こいつは? マジで意味不明! 苛められとる所ば守ったら切れるし、話しかけといて何も言わんし……!
洋子は大股でずかずかと相沢に近づくと、肩を掴んで強引に振り向かせた。
相沢は目を見開いて驚いた様子だった。初めて、正解のリアクションを洋子に見せた。
「あのね、あんたね、言いたかことのあっとやったら、ちゃんと言葉にしなさいよ!」
洋子は、はっきりとした口調で相沢を注意した。
別に、今すぐに言葉にして欲しいわけじゃなかった。ただ、足止めと写生の件での八つ当たりだった。
相沢は固まっていた。
洋子はすっとした胸で、出入口に再び向かった。しかし、また足が止まった。
背後から圧し掛かられている感触と胸を囲んでいる両腕。耳元では軽い息遣いが感触と共に伝わってきた。
洋子は背後から相沢に抱きしめられていた。
洋子の目の前の景色が真っ白になった。何も考えられない。ただ体を強張らせるのみだった。
「――俺は、どうすればいい?」
相沢は苦しみ、悶えるように呟いた。
「 喜久子……!」
洋子には相沢の言葉を脳に留める余裕はなかった。どのくらい、抱きしめられていたのか、チャイムの音と共に相沢は体を離した。
「悪い」の一言で相沢は屋上から去った。
守ったら切れられ、怒ったら抱きしめられた。本当に相沢の反応は草野球投手のように的外れだった。
9
事故みたいなものだ。洋子は言い聞かせながらプレハブ美術室に戻った。なるべく教室内を見ないように準備室へと歩いた。
誤って目測すると、洋子自身がどうなるか、予測できなかった。主語は脳に登場させたくなかった。
千佳が驚いたように近づいてきた。
「洋子ちゃん、どげんかしたと?」
「何がよ?」
洋子は足を止めた。
千佳は洋子の顔を指す。
「まっかっかだよ」
洋子は千佳に指摘され、言い訳する余裕もなく準備室へと逃げ込んだ。椅子に座り額に手を乗せた。
確かに、過保護な母親なら卒倒しそうなほど顔が熱を持っていた。
相手が相沢じゃなかったら、素直に喜べるんだろうけどなぁ……。
洋子は一息ついて、気を取り直すと作業の続きに取り掛かった。藤沢は別の授業があるのか、姿を現さなかった。
手びねりは細やかな気配りの要る作業で、心が磨り減らされていく。しかし、藤沢に口うるさく指摘されていた午前中よりも、幾分かは陶芸を堪能する余裕ができた。
洋子のくらわんか碗が完成したのは、五時限目終了のチャイムが鳴った頃だった。
泥の付いた手を避けて、器用に汗を拭く。完成品は左右対称には程遠い形をしていたが、充足感と一緒に、洋子は背筋を伸ばした。
粘土の器を持って準備室を出ると、クラスメイト全員の注目を一斉に浴びた。目線の先には洋子の器があった。凝り固まった空気が弛緩していくように、全員が洋子から目を離す。プレハブ美術室内は、またテンプレートな教室風景に戻った。
洋子が教師に器を提出すると、確認もそこそこに緑色のサンテナーに入れた。当然ながら、他の生徒全員の分が全て入っている。
「お疲れ、後は六時限目が終わるまで、休憩しといてよかよ」
美術教師は目尻を下げて、洋子の労を犒った。
洋子はジャージから制服に着替えるために更衣室へ戻った。校舎に戻る途中で、手から粘土を洗い落とす。
更衣室は無人だった。ひっそりと静まり返り、外を流れる風の音が鮮明に耳に届く。洋子は出席番号の棚を開けた。
おや、と洋子は手を止めた。一冊の本と手紙が置かれていた。
本はハードカバーの小説だった。タイトルやペンネームを確認する。字の羅列に目が回る洋子に思い当たる節はなかった。背の部分にラベルが貼られていた。どうやら図書館の本らしい。
洋子は手紙に手を伸ばした。白い封筒には便箋で丁寧な文字が書かれていた。
『放課後、図書館に来て。千佳や史江には本を返すと伝えなさい』
千佳や史江といった固有名詞を使っている辺り、顔見知りの犯行だと予測できた。
次の文が洋子の目を引いた。
『あなたに教える、波佐見高校の真実を』
10
ホームルーム前の一年六組は賑やかだった。授業が終わったという開放感からか、全員が談笑に耽っていた。
当然、洋子たちも三人で固まっていた。
「本当に、洋子ちゃんが間に合って、よかったよ~」
千佳はおさげを嬉しそうに跳ねさせながら話す。史江も頬を緩ませている。
「まあね、藤沢のおかげでもあるわね」
洋子は鼻で、ふんと笑った。
「ホントホント、藤沢先生を見直しちゃった。無駄に熱いだけじゃなく、心憎い気配りも兼ね備えてたんだね。やっぱり現代の教育基本法を馬鹿にしちゃいかんね!?」
藤沢の行為と最近発布された教育憲法の繋がりは分からないが、洋子は口に出さなかった。きっと千佳は、雰囲気で言ってるに違いないのだから。
洋子は史江に目を向けた。史江は千佳と歓談をしていた。洋子は違和感を覚えた。髪を掻き分ける史江には昨日見たものがなかったのだ。
「ねえ、史江。あんた、ピアスは付けとらんとね?」
途端に史江の動きが固まった。強張った笑顔で、確かめるように耳に手を当てた。
「……今日は焼き物だけやったけんが、ね。汚したら、駄目やから」
しどろもどろに言い訳をした。
大切なものだと思ったとけどなぁ……。洋子は心の中で首を傾げた。しかも昨日だって、陶器の授業はあったし。
洋子の思考は藤沢の登場によって停止した。クラスメイトは蜘蛛の子を散らすように席へと戻った。
藤沢は、だらだらと連絡事項を伝える。洋子から見ても取るに足らない情報だった。藤沢にも歴史の授業のような覇気が欠如していた。
洋子たちの起立と礼で、藤沢は退散する。鞄を担いだ史江と千佳が洋子の下へと来た。
「か~えり~ましょっ?」
千佳は下校時が一番良い笑顔をする。
洋子は二人に気付かれないように、スカートのポケットに手を入れた。着替えた時にロッカーに入っていた手紙に手が触れた。
「……ごめん!」
洋子は二人に向かって手を合わせた。
二人がきょとんとしている間に、洋子は机の中からハードカバーを取り出した。
「図書館に本ば返さんといけんかったとば、すっかり忘れとった」
千佳と史江は互いに目を合わせ、合点がいったように頷いた。
「そうね、じゃあ、明日、洋子」
「洋子ちゃん、じゃあぁ~ね」
二人は「あんたは、本を借りるキャラじゃない」などといった突っ込みを入れることなく、そそくさと教室から出て行ってしまった。
あまりにあっさりなのも寂しい。
洋子はいつの間にか無人になっていた教室で、鞄を肩に掛け、とぼとぼと図書館に向かって歩いた。
11
放課後、洋子は約束通り、図書館へと向かった。図書館は静まり返り、人の気配がしなかった。
室内を歩いて回った。ほんの少し、緊張していた。宛名のない手紙の差出人が気になっていた。
図書室の奥から物音が聞こえた。洋子は音のしたほうへと足を向けた。ぶ厚い本を捲る姿が目に入った。
夕日が逆光となり、黒いシルエットしか見えない。洋子は目を細めながら近づいていった。
黒い影が洋子に顔を向けた。
「ありがとう、来てくれたのね」
笑って洋子を出迎えた相手は、飛鳥だった。雀斑顔なのに優等生のような優美さを兼ね備えた掴みどころない女子生徒だった。
洋子としては歴史の課題について、足を向けて寝られない恩があった。
にしても、と洋子は意外に思っていた。
あんな怪しげな、もったいぶった手紙を飛鳥が送るとは、どうにも考えつかなかった。
洋子は飛鳥の持っている本を指差した。
「何を読んでたと?」
飛鳥は「ああ」と思い出したように、背表紙を洋子に見せた。
『有田焼の全て』と記されていた。
「……何であっと?」
口に出して、洋子は言葉足らずだったと気付いた。
何しろ、今現在、私たちがいるのは、波佐見高校なのだ。波佐見焼について特出した教育機関に、なぜ有田焼の本があるんだ?
飛鳥は可笑しそうに口を押さえた。
「大丈夫よ。本を読んだからって、私もあなたもスパイだなんて思われたりしないから」
どうやら飛鳥は、私が身を案じていると勘違いしたらしい。
でも、スパイって。たかが焼き物如きで、スパイなんて……ねえ?
洋子は波佐見焼について熱心に語る藤沢と有田町を罵る千佳が思い浮かんだ。
……あながち、なくはない、かも。
飛鳥は本を本棚に仕舞う。
「敵を倒すにはまず敵を知れってね。しかも有田焼は全国的な知名度もあって文献が多数出版されているわ。まあ、波佐見町にしてみれば願ったり叶ったりじゃない」
「でもさ、そんだけ有田焼が注目されてるのって、波佐見町からしてみれば、面白くないよね。そもそも波佐見焼に人気があれば、有田町を嫌ったりしないわけだし」
波佐見町民に根付いている感情は大部分が嫉妬だと思った。さすがに口には出さなかったが。
「そうね」
飛鳥はあっさりと首肯した。飛鳥自身も波佐見町民のはずなのに、他人行儀な反応だった。
「洋子、あんたは波佐見高校をどう思う?」
いきなり呼び捨てで来たか。しかも、口調が高圧的だなぁ。何か、クラスのときとキャラが違う。
洋子は首を傾げた。
「何が? 別に普通だよ。仲のいい友達がいて、カップルがいて、怖い教師がいて……みたいな。どこにでもある大多数の学校じゃん?」
飛鳥の顔に、さっと影が落ちた。
「……の思い通りね」
先の言葉はよく聞こえなかったが、飛鳥は確かに皮肉っぽく呟いた。
「どこが普通なのよ。焼き物のために授業を全部、替えちゃうのよ。いい、授業っていうのは指導要領っていって、国で授業時間数とか決められてるの。学校の好き勝手に決めていい代物じゃないのよ」
ああ、言われてみれば、そうか。洋子は安穏と納得した。
飛鳥は呆れたように首を横に振った。
「事の重大さに気付いていないみたいね。いいわ、手紙でも言ってたし、教えてあげる」
飛鳥は洋子を見つめて言った
「波佐見高校は異常なのよ、おかしいのよ」
当然ながら洋子には意味不明で、飛鳥のほうが異常に見えた。
飛鳥は壁際に並べられた机の椅子を引いた。無言で洋子にも座るように促す。
洋子は飛鳥の正面に座った。夕日が当たり、左側面がちりちりと熱かった。
「洋子はさ、陶芸デザイン科の設立理由は、知っとる?」
飛鳥は両肘を付いて話し出した。夕日に照らされた左側の目が朱色に染まっていた。闇に聳える獣のような目が、洋子を捉えていた。
「将来の波佐見焼を背負って立つような人材の育成、っていうのが基本理念。もちろん、波佐見高校に入学してくる生徒は、全員が知っとることなんだけど」
そういえば、似たような話を藤沢がしていたっけ。当然、洋子は飛鳥の言う理由は頭の片隅にも存在しなかった。
「だから、全員が当たり前のように、窯元に勤めることを目標としている」
ふと、飛鳥に目の焦点を合わせると、洋子は言葉にならない違和感を覚えた。
真摯な目つきで前を見据える飛鳥には、初対面で受けた素朴さが消え去っていたのだ。
やや切れ長の目つき。鼻筋も通り、唇は薄い。何よりも、体から醸し出す、雰囲気とも匂いともいえる存在感は、クラスの一員では収まりきらないものがあった。
「でもおかしいと思わない? 波佐見町に住む子供、全員が陶工を目指すなんて有り得る? スポーツ選手や芸能人、誰しもが憧れる王道とも言うべき夢を誰も持たないのよ」
洋子は史江の境遇を思い出していた。
家を継ぐ――失礼かもしれないが、女性が窯業をやるなんて、普通は考え付かない。しかし、史江は当たり前のように受け入れている様子だった。
「確かに滝口さんの言う通り……かも」
「理由は簡単よ。村ぐるみで監視しあってると」
「監視?」
およそ長閑な田舎には似つかわしくない単語が飛鳥の口から飛び出した。
飛鳥は確かめるように頷いた。
「そう。藤沢も言ってたでしょ、明治時代に波佐見焼は存亡の危機を迎えるって。原因はね、国が行った文明開化政策なの。従来の親を子が受け継ぐという仕組みを徹底的に国から排除されちゃってね、跡取りが育たなくなってしまったと。現在のようになるには百年ほど掛かったと言われているわ」
千佳や史江から聞かされた波佐見町史では触れられていなかった史実だ。もしかしたら意図的に忌避したのかもしれない。
「だからこそ、波佐見町は極度に他の職業に就こうとする者を嫌うの。幼児教育から陶工になるようにと教える、いや洗脳って言ったほうが正しいわね」
そういえば、陶芸の授業中、だれもふざけたり、私語をしたりしていなかった。歴史の授業中、藤沢の話を全員が孔子の言葉のように聞いていた。
確かに異常だ。
「じゃあ飛鳥はみんなと違う夢を持ってるっていうわけだ」
洋子は核心を突いてみた。なぜ、飛鳥が私に話を持ちかけたのか、真意を確かめたかった。
「そうね。私はねなぜだか分からないんだけど、誰しもが憧れる王道的な夢を持っちゃったのよ」
「何、聞かして?」
洋子は体を前のめりにした。
「場所を変えましょ」
12
飛鳥が連れていった場所は歴史資料室だった。
歴史資料室は特別教室棟の三階にあり、廊下を真っ直ぐ突き進めば洋子たちのクラスに着く。しかし洋子は、一度も訪れた経験はなかった。
飛鳥は、教室のドアを開けた。教科書や資料が本棚に並び、大きな地図の巻物が立てかけてあった。
洋子は、おや、と思った。室内には本独特の匂いが漂っていた。
しかし、歴史ある書物が並んでいるにも拘わらず、新品特有のインクの匂いしかしなかった。
もっと黴臭い、鼻の奥にこびり付くような匂いがしてると思っとったけど。
飛鳥は一番奥のパイプ椅子に座った。洋子は初めて訪れた場所に興味が湧いていた。
「なんで歴史資料室と?」
飛鳥は、長机の上に鞄を置いた。
「別に。誰にも見つからないから」
夢を語るだけで、誰にも見られてはいけないのか。歴史資料室のような手狭な場所なら室内に不審者がいないと、一目で分かる。
飛鳥はかなり用心しているのだと感じた。
飛鳥は、鞄を漁っていた。飛鳥が取り出したのは、クリアファイルに入れられた譜面だった。
「何、それ?」
「私の夢よ」
飛鳥が手渡した譜面には大量の書き込みがしてあった。音符を読む能力がない洋子には、暗号化された文章のように思えた。
「えっと……演奏家?」
飛鳥は困ったように笑うと、洋子から譜面を取った。
「違う」
飛鳥は舌で唇を濡らすと、鼻から空気を吸った。
次に飛鳥が口を開いた時、洋子は思わず息を呑んだ。喉を別人と取り替えたのかと勘繰るほど、飛鳥の声が様変わりしていた。高く澄んだ音が夕日に溶けていく。
洋子は、聞き漏らしがないように、耳を澄ませていた。
歌う飛鳥の表情は生き生きとしていて、夕日に負けないほど輝いて見えた。
ああ、やっぱり飛鳥は単なるクラスメイトじゃないんだなと、洋子は思っていた。顔に張り付いた雀斑も、誰かの悪戯で付けられたのではないだろうか。
飛鳥は、見た目のハンデや境遇を跳ね返すように歌を歌っているようだった。
「……どうだった」
興奮からか、飛鳥は息を乱しながら洋子を見た。洋子は思わず目を逸らした。
逆光の夕日以上に、飛鳥という存在が洋子には煌びやかに映っていた。体を斜に構えた洋子に、影が覆う。
「……いやー、すごいんだねー、あははは……」
ほんの少しでも飛鳥を共感できると勘違いした私が惨めだ。全然、違ったよ、私なんかとは。
飛鳥が近づいてくる。逆光で表情は分からない。手を差し伸べてくれた。洋子は拒絶する。
しかし飛鳥は、無理やり掴むと、洋子を影から引っ張り出した。
「私一人じゃ、無理なんだよ」
「え……?」
「洋子と一緒じゃなかと駄目と……私には無理と……」
飛鳥は俯いて震えていた。飛鳥は無力さに歯噛みしているように、洋子には思えた。
強く握られた手が痛い。でも、離してくれとは言えなかった。
「お願い、私に協力して……。一緒に歌手を目指すって言って」
懇願するように向けられた飛鳥の瞳は、揺れていた。まるでシャボン玉のような飛鳥の瞳は儚く、簡単に壊れてしまいそうだった。
飛鳥は今まで夢を隠して生きてきた。いったいどんな気持ちだったのだろう? 洋子には想像もつかない。もし飛鳥の夢を私が応援したら、学校や町からは同罪だと認識されるだろう。
「……うん、分かった」
しかし洋子は、確かに頷いた。
飛鳥は驚愕と不信を併せ持った表情で、洋子の言葉を聞いていた。
「ほんとに、ねえほんとに!?」
飛鳥は洋子の腕を掴み、何度も聞き直してきた。洋子は聞き直される度に頷いた。
破顔して喜ぶ飛鳥に洋子は少しだけ心が痛んだ。
洋子は、皆と同じように、夢が欲しかった。
夢を追う皆と同じ目線で物事を見聞きしたいだけだった。
13
歌の練習は放課後に行われていた、当然クラスメイトや教師には秘密で。洋子にとってはクラスメイトに史江や千佳が入っているので、多少の心苦しさはあった。
練習といっても、洋子は特に何もしていなかった。ただ飛鳥の歌を聴いているだけだった。
歌い終わった飛鳥は袖で汗を拭い、一息ついた
一つ一つの所作に慣れが見えた。まるで昔からこなしているルーティーンのようだった。
「どげんかした?」
飛鳥が洋子の視線に気が付いた。
急に見つめられると、緊張する。
「いや、なんかさ……私いる?」
思わず自虐的に笑ってしまった。しかし飛鳥は一切、笑わなかった。
「勿論よ、あんたがいなきゃ、私の夢は叶いっこない」
飛鳥の話している意味が、洋子には分からなかった。
「だってさ、飛鳥は歌うまいし、絶対すぐにプロになれるって。私は、よく知んないけどさ、オーディションを受ければいいじゃん」
飛鳥の眉がピクリと動いた。飛鳥は私の話をどう感じてくれてのか、分からない。でも本音には間違いなかった。
「プロになったら、私はファン第一号だって、皆に自慢して回るわ」
飛鳥は、さっと顔を背けた。顔を影が覆い、表情が見えない。
「……ありがとね」
照れているのか? まあ、何とも可愛げがあるじゃないか。
14
翌日の学校、洋子は割り当てられていた玄関の掃除を終えて教室へと戻っていた。教室に戻ると帰りのホームルームが始まり、洋子には飛鳥との練習が待っていた。
しかし、洋子の足取りは重かった。
史江と千佳の誘いを断る理由が思いつかん……。
洋子は腕組みをしながら教室へと足を向けていた。
ほぼ毎日のように帰りの誘いがあるんだ。こじ付けの理由が、底を突きかけていた。
洋子がトイレの前に差し掛かったとき、急に伸びてきた手が、洋子をトイレに引き込んだ。洋子は急激な場面の転換に頭が付いていかず、戸惑った。
焦点の定まった景色の中心には相沢の顔があった。タイルの壁に押し付けられ、相沢は洋子の腕を離さない。
二度も同じ手に乗るか、と洋子は拳を固めた。
逃した魚はでかかったと思い知らせてやる。
しかし相沢は、身体的な接触を図るつもりは全然ないようだ。ただ真っ直ぐに洋子を見ていた。
「おい、お前は何を吹き込まれた?」
相沢の声は必死だった。まるで核ミサイル発射の通報を聞いたみたいだった。
「飛鳥はお前に何をやらせようとしているんだ?」
洋子の中で心が一気に凍りついた。相沢が洋子を一心に見つめている。凍りついたはずの心が見る見る融解していった。口に出しそうになるが飛鳥の顔がちらつき、何とか堪えた。
飛鳥にとって歌手は大切な夢であり、目標であり、希望なんだ。もしクラスメイトに知られでもしたら、村八分のような状態になるんだ。だから飛鳥は誰にも言えずにたった一人で練習をしていたんだ。
洋子は固く口を結び、相沢を見据えた。
洋子の思いが伝わったのか、相沢は諦めたように視線を逸らした。
「……まあいい。どうせ俺が知っている時点で、世界の周知の事実なんだからな。あいつらが見逃すはずはないよな」
相沢は独り言のように呟いて、トイレから出ようとする。が、洋子は、とてもじゃないが見逃せるわけがなかった。洋子は相沢の腕を掴んだ。
「何よ、どういうことよ? あいつらって誰? 皆、知ってるって、本当なの?」
もし相沢の言っている内容が事実なら想定していた最悪の状況だった。今度は洋子が相沢から話を聞く番だった。
しかし、相沢は無言で洋子の腕を引き剥がした。目には怒りと侮蔑の色が、はっきりと見えた。
何で――。
バレた原因を洋子が探っても解明できなかった。洋子はよろよろとトイレを出て、教室へと戻った。
15
教室は普段通りに会話と笑い声が入り混じった状況だった。史江と千佳が洋子の姿を見つけて手を振った。
洋子も、おざなりに二人に応えた。しかし頭の中は飛鳥で一杯だった。席に戻るとき、自然を装って教室内を見回った。
教室内に飛鳥の姿はなかった。心臓がどくんと跳ね上がる。
相沢の視線を感じた。何を知っているのか、無性に聞き出したかった。
でも目立つような行為はしたくない。教室内で、洋子と相沢は口も聞いた経験がない、ただのクラスメイトでしかなかった。
千佳は洋子の席に座っていて、近づくと立ち上がり席を譲ってくれた。三人で話をしたが、洋子は内容を覚えてはいない。ただ飛鳥の姿を視界に捉えようと必死だった。
暫くして教室の扉が開き、藤沢が入ってきた。全員が所定の席へと戻る、ただ一つの席を除いて。
藤沢は教室を見渡し、名簿に目を落として――
ホームルームを始めた。
洋子にとっては、至近距離で和太鼓を打たれたような、内臓に来る衝撃があった。
胃がきりきりと痛む。背中にクラス中の視線が集まっているような気がする。試すような、面白がっているような、洋子の反応を心待ちにしている視線を感じた。
嫌な汗がじんわりと流れた。
洋子は手を挙げた。折れ曲がり、震える腕だがしっかりと藤沢に存在を堅持していた。確実に全員の注目を浴びている。洋子は机から目を離さなかった。
「何だ、木下?」
藤沢が不審そうに聞いてきた。
「……掃除場所に忘れ物をしたので、取りに行ってもいいですか?」
我ながら嘘が下手だと思う。しかも相手は、洋子の意図を知っている。飛鳥を探しに行くと気付いている。でも、でも、万が一がある。
しばしの沈黙。藤沢が鼻から大きく息を吐き出した。
「……早く行って来んか」
藤沢はそれ以上、何も言わなかった。洋子は脱兎の如く教室を後にした。
向かう場所といえば、一つしかなかった。
丑三つ時のように静まり返った校舎内に洋子の足音が響く。洋子は歴史資料室へと向かっていた。
資料室のドアを開く。
洋子は言葉を失った。資料室に飛鳥がいた。飛鳥は洋子を見ると、驚いたように目を見開いていた。
洋子は声を出そうと、喉を揮わせた。しかし、最初に声を発したのは、飛鳥だった。
「へぇ……、お別れの挨拶に来てくれたってわけ?」
――お別れって、何よ!?
大きな声を出そうとして、洋子は咽せてしまった。飛鳥は洋子の状況など知らずに名残惜しそうにパイプ椅子を指でなぞった。
「ま、あいつらも、機会をくれるだけの優しさは持ち合わせてるってことよね」
誰よ、あいつらって? 何で今生の別れみたいな雰囲気を出してると? いったい波佐見高校って、どうなってんのよ?
洋子の中で疑問が大渋滞を起こしていた。
飛鳥は譜面を持ち上げた。書き込んだ譜面を一枚一枚、懐かしそうに見ては頬を緩ませていた。
「これ、あげるわ」
飛鳥が急に譜面を差し出してきた。洋子は受け取れないと、首を振って拒否した。
飛鳥は困ったように目尻に皺を寄せると、洋子の目の前に近づいてきた。
「お願い。失くさないで」
と洋子の胸に譜面を押し付けた。落ちないように洋子が譜面を支えると、飛鳥は歴史資料室から出て行く。
「私、もうすぐ消えちゃうから」
無理やり笑った飛鳥の笑顔が、先の意味不明な発言に現実味を与えていた。
何よ、消えるって?
洋子追いかけられず、ただ立ち尽くしていた。
16
朝の校門は、いつもと変わらず洋子を迎える。周りを歩く生徒たちは、眠そうであったり、友人と楽しそうに話したり、憂鬱そうな表情をしたり、千差万別だ。しかし毎日毎日、延々と繰り返される千差万別は、普段の象徴とも言えた。
藤沢が朝、教室に現れて第一声
「えー、滝口飛鳥だが、昨日付けで高校を退学になった」
たったの一言だった。理由や補足説明も一切ない。教室はざわつきもなく粛々と受けて入れていた。
千佳や史江の話で飛鳥は援助交際をしていたらしい。
洋子は気が付いた。飛鳥の席がなくなっていた。
今日からは飛鳥のいない風景が日常になるようだ。
『私、もうすぐ消えちゃうから』
洋子は飛鳥の言葉を何度も反芻していた。