(四)
エレベーターの扉が開いた瞬間、春の陽射しを感じる。
誰でも目にする有名な観光地なのに、いつも人が少ないってキミが笑っていた場所。
今日も目の前には数人のおばちゃん客。
ボクは今、最初で最後の表敬訪問に臨んでいる。
卒論なんて遠い昔の記憶。
あの日からたった一ヶ月で、ボクはなんでも書けそうな気になって、その自信のままに書きあげてしまった。夢を見ているような不思議な時間の中で、あっという間に。
いや――。
ボクは夢を見ていた。キミという中心を得て、そして失った。
「この街を去ったら、効き目あると思う?」
「また別のお守りがあるだろ」
「へー」
キミと最後に会ったのは大晦日の夜だった。
人混みの中、神社の石段を登る。キミは黒っぽいコートを着て、露店のライトはちらちらと白い息を反射した。
「短い時間だったね」
「……まぁな」
コスプレした人たちが行列を作り、どこかのテレビカメラは無言で追っていく。
頼りになんかしていない。祈ったって無駄。なのに人々が出掛けるのは、信心のポーズが欲しいから?
「この街の冬は寒すぎる、と思わない」
「まぁ、夜は冷えるな」
「生まれた町はもっと冷えるんだっけ」
「まぁ……、そうだな」
着ぶくれした人ばかりの景色のなかで、ボクはぼんやりしていた。
今日はなぜか火の用心の神様に変身しているけれど、いつもは荒ぶる魂を鎮める場所。そんな都合のいい話ばかりの講義を、いつも熱心に聞いてる学生がいた。
それはボクじゃない。
キミでもない。
「あとは口頭試問だけなのか?」
「残念ですけど、試験は特にありません」
「そりゃ残念だな」
あの日、ボクはこの街にいた。
いつもと同じように、薄暗い下宿で寝っ転がって、まだ続く残暑を感じていた。
そして翌日の昼過ぎ、用もなく出掛けた図書館でそれを知った。
「口頭試問って何聞くんだと思いますか?」
「ボクなら、将来の夢は何ですか、だな」
「夢じゃなくてリアルな将来があるでしょ?」
「リアルな将来には夢がないだろ?」
つながらない歴史年表は無意味なのかい?
小さな隙間は、忘れているうちにふさがるものだったかい?
そこだけはリアルな煙の臭いに眩暈を感じながら、ボクとキミはゆっくりと火縄を手にした。そしてざらつく藁の感触は、少しずつボクの意識を侵食し始める。
「もうすぐ学食のカツ丼が食べれなくなるね」
「何の肉だか分からないのが魅力なのになぁ」
消えないようにぐるぐる回しながら、キミの顔を見た。
この街でボクたちはどれだけ生きていたのだろう。当たり前のことを答えられなくなって、いつかようやく雲に包まれた。
「大人の世界に行きたくないから、子供の世界があるって思いこんでた」
「キミは思いこみたかった?」
「そう……でしょ?」
「そう…だよな」
放っておいてもやがて現実に立ち戻る。
だけどそれは言い訳に過ぎなかったから、あと少しの間ボクはこの街のノイズであり続けるだろう。そしてキミは一足先に旅立つのだろう。
「キミは聖母だったかも知れないし、観音様かも知れない」
「どっちかと言えば後者かな」
「どうして?」
「深い意味はないけど、キリスト教とは縁遠いから」
キミはボクの変容に憧れ、ボクはキミがいつか消え去る恐怖を感じていた。
互いの誤解。
互いの買いかぶり。
ボクもキミも、あるはずのない救いばかり求めていた。それだけのことだ。
今ごろキミは卒業式に並んでいるだろう。
卒業が決まった瞬間から、今日の予定も決めていた。ボクにはやり残したことがあったから、少々高いお金を払ってエレベーターに乗った。
縦横に貫く線の彼方に、大学らしきものが見える。
ここからは記念写真のように止まった景色も、もう一度エレベーターに乗れば元に戻る。
口頭試問はあっという間に終わった。
「これは平安時代に即しているとは言えない」と主査の教授は渋い顔。なのに副査には院を受けるのか、と聞かれた。何を言ってるんだとボクは呆れた。
落窪は下宿に似ている。
さんざんに散らかったミニチュア宇宙にいたから、いつも姫君は美しかった。掃き溜めに鶴? そうじゃない。この宇宙には一つのゴミだって存在しなかった。
そうそう、キミは高いところが好きだったくせに、ここを嫌っていたよね。絶対にこのタワーだけは登りたくないと口にしてた。馬鹿でかい駅ビルが出来ても、まだ見上げた先のタワーに。
だけど本当は、ここと大学の屋上の標高は同じぐらいらしい。だからキミはいつもタワーな高さだった。そして、二人で登った山はもっと高かったんだ。
いつか披露しようと思っていた笑い話。
だけどそれはボクがあの日取り残された証だった。
エレベーターよりは面倒で、だけどエレベーターより高みに行ける二本の脚。
キミは絶対安全な天空にたどり着いた。
戻ろうと思えばいつでも戻れる天空に。
少将の冒険はもう終わった。
そして今、文字通り空っぽの天空がボクの手の中にある。
手放せるはずもない、キミの、キミたちの記憶を抱えて、もうすぐこの街を去る。
2006.11.2 完結
プロジェクト名「武蔵野」、これにて完結である。岡本正の曲から浮かんだストーリーは、もちろん曲とはほとんど無関係に、京都の話となった。
それは私が京都で大学生活を送ったからだ、と言ってしまえばそれまでだが、日文専攻のディープなノリで描くには、他の場を設定し辛かったのも事実である。
落窪や堤中納言(あえて「物語」と冠していないのも実はこだわり)の知識がまるでない人には、恐らくこの物語は意味不明であろう。「キミ」の叫び自体の理解は、さして難しくもなかろうが。
教授に対するスタンスは、恐らく文学部以外の人間ならそれなりに理解出来よう。ただし「文学研究に意味がない」と書いたつもりはない。むしろ、生きていくためにもっとも必要な学問だからこそ、教授に苛立っているはずだ。
……と、解説はまだ早すぎるのでやめておく。
ともあれ、ボクとキミのストーリーは終わった。続編などあり得ない終わり方になったことだけは満足していたりする。
感想や疑問点、質問は大歓迎。ローカルな部分はいずれ別に解説するので、「これを教えろ」と言ってもらえたらありがたい。
そして筆者夏少は、「川辺の祭」執筆に戻るのであった…。
「またかよ」と思った人へ。
そう思うのは無理もない。
あれはいつまでもリフレインさせるものだから。