(三)
十一月の街は、どこもかしこも観光客だらけ。修学旅行生がバスの降車に手間取る姿を、イライラしながら見るのにも慣れてしまった。
四年前の自分は、一人でバスに乗ったことすらなかった田舎者。そんな過去の記憶なら、都合良く忘れている。
「ごめんね」
「隠れた観光地を巡るって感じでいいんじゃねーの」
「そう?」
例によってゼミの前にぽっかり空いた二時間。ボクは古本屋の立ち読みで済まそうと思いながら校舎を出たけれど、そこで待っていたキミの提案は意外なものだった。
そう。
あの山に登ろう。
あの墓地の背景の山に登ろうとキミは言った。
「けっこうきつい…」
「運動不足の告白だな」
「…男の子とは違うの」
卒業までは実質一ヶ月半。クリスマス前に卒論を出してしまえば、ゼミの連中とも卒業式まで会う機会はなくなる。
いや、そもそも卒業式なんて出席するんだろうか、ボクは。
もうその頃には就職先の研修で頭がいっぱいで、今さらキャンパスに戻れるだろうか。それに、卒業式って何の意味があるんだろう?
「それより…」
「え?」
無駄話しながらの山登り。名前も知らない広葉樹の山は、この街の周囲ならどこにでもあるのに、いちいち名前がついている。
目指す頂上まで、普通に登ってせいぜい十五分。道もしっかりしていて、近所の年寄りが散歩する程度の山に、千年の歴史があると聞かされてもピンとこない。
「今日は発表だろ?」
「はい」
「はいって…」
キミのかかとの低い靴が、さくさくと枯れ葉を踏みしめる音。その軽快な響きは、きっと年寄りの音とは違う。そんな気がするけれど自信はない。
背丈は平均値だというキミが少しだけ小さく見えた瞬間から、ボクは騙され続けている。それはつい三十分前のこと? そうだろうか。もっと大きな事件が…。
「着いた?」
「着いた」
「まずはヤッホー?」
「少し離れるから待ってくれ」
冗談を口にしながら、意味もなく空を見た。
気持ちの悪いぐらい青い空の下で、ボクの身体はほんのわずかに汗ばんでいた。
この山の麓には、とある貴族の邸宅があったと教授は言っていた。
平安貴族の見た景色を見ている我々は幸せだ。そしてその山に登ったなら、眼下に平安貴族の住んだ街が見下ろせる。なんて幸せだ。
そんな呪文を唱えながら、ボクは一度ここに来たことがあった。
「どうだね、お気に召したかね」
「うん」
「紅葉はそれなりってとこだな」
「一年前は…」
「え?」
「一年前は死ぬつもりだった?」
民俗学の講義で、ボクは知った。山は魂が還っていく場所なのだと。
きっと今にして思えば、それが頭にあったのだろう。
ボクが何かに惹かれるように登った時期は、まだ夏の暑さが残っていた。汗びっしょりになって、山頂手前で一人の年寄りとすれ違って、そして下界を見下ろした。
そこから見た校舎は、ごちゃごちゃとした景色だった。
そこから墓地は、木々に隠れて見渡せなかった。
ボクは同じ民俗学の講義で、教授が言ったダジャレを思い出した。
「高いから他界なんだよ」、ボクはぼんやりと暮れゆく空を見つめつつ、同じフレーズを口ずさんでいた。
「半年前、教育実習に行ったの」
「………」
「一応そこは母校だったから、それなりに懐かしかった」
「いいな、ボクは母校なんて卒業式が最後だ」
「まぁ…ね」
剥き出しになった岩に腰掛けて、左手で頬をついた。
眼下の観光道路をひっきりなしに行き交うバスも、ここではまるで消音機能のついたテレビの画面。風の音と、時々聞こえるキミの声だけが、時が進んでいる証拠だ。
「実習は最悪でした」
「…意外だな」
「そう?」
「キミならそつなくこなすと思った」
それは素直な感想。
しっかり者で、誰からも頼りにされる。それは事実。
だけど……、ボクはもちろん分かっていたはずだ。
「ずっとモヤモヤしてた」
「………」
「それを騙しながら母校に戻って、だけどもう限界でした」
「はぁ…」
「人に何かを教えたいなんて、これっぽっちも思ってない。それなのに教師を目指すなんておかしいでしょ?」
「ま、まぁな」
早々に教職なんて諦めていたボクは、「そんなことないよ」と答えるべきだった?
もう遅いよな。
キミは……、キミはボクが諦めた理由だって知っているだろう?
「それで何も出来なくなって、布団にもぐってうじうじして、それからふと思い出した」
「……何を?」
「この山のこと」
登ったまま戻って来ない奴もいれば、やがて帰る奴もいる。
その時、帰った奴は以前と変わりないだろうか?
「なぁ」
「………」
「ここに来たら、あれは水蒸気だって証明すればいいのかな」
そんなことはない。他界との往還は、人を変えてしまう。帰ってきたのは去って行った者ではなく、生まれ変わった存在なのだ………と。
いつかそんな話を聞かされた記憶。
「水蒸気は絹じゃないから」
「…まぁな」
他界はどこにでも転がっている。
誰かが隠れているという噂の地にも、敷きっぱなしの布団の中にも。
無言のまま戻った下界で、いつものようにゼミが始まった。
いつもの澱んだ空気の中で、キミは珍しくもないレジュメを配り、しかしこう言った。
「堤中納言はいません」
論理的帰結としてはあまりに当然のことをキミが力説する意味は、たぶんボクだけが知っていただろう。
キミが抱えていた空白。
そしてボクの心に空いていた隙間。
ボクもキミも、いつか名前を必要としていた。
そしてキミは見事に名付けてみせた。
そしてボクは新しい名前を受け入れたくなかった。それだけだった。