(二)
湿っぽい朝の空気を吐いて、キャンパスを歩く。
年が経つほどに出不精になったボクが、週に一度だけ午前中の講義に出る日。
なぜか残ってしまった般教に、見知った顔はいない。卒論しか残ってないキミも、もちろんいない。
「疲れた…」
「この校舎が好きでしょ」
「ありふれた皮肉だ」
今さらのように見上げた校舎は赤茶けた煉瓦色。大学ご自慢の重要文化財だが、別にボクらは観光客じゃないからどうでもいい。
般教ばかりでいつも騒々しいから、ようやく脱出してキミに逢えて、ボクは嬉しい。
ボクはそんな身も蓋もない言葉を、いつか口にしそうだった。
四限の卒論ゼミにはまだ時間があった。
いつもの調子でサテンでも行こうとボクは誘ったけれど、キミが指差した先は目の前の校舎。そして、訝しがるボクの手を引いて、階段を登りだした。
ボクはちょっとだけ恥ずかしくて、だけどキミの指先はツルツルして温かいと、ぼんやり身を任せていた。
「今日はいい景色だし」
「確かに整然と並んでるな」
「見るのはそこじゃないでしょ」
無骨なフェンスに囲まれた屋上から見えるもの。
姫君も見たかも知れない山々は、まだ色づく前の濃い緑。
それから…、最近開通した道路。眼下に広がる共同墓地。広告で見るような墓石が碁盤の目に並ぶ。そんな立地だから、実はこの校舎も心霊スポットらしい。三階と四階の踊り場は危険だと真顔で教えてくれる奴もいる。
「キミは信じない方か」
「信じてる?」
「残念ながら…」
こぎれいな墓地に住む幽霊なら、きっと行儀がいいだろう。まるで偽物のように。ふっとキミの髪を揺らす風を見て、ボクは笑う。意外に冷たい風が、時々キミの声をかき消していく。
ここに住んでいる者の特権は、四季の連続を感じられること。だから京都で物語を読めば、京都でしか書けない卒論が書けるとゼミの教授は言っていた。
ボクは正直、そんな教授を鼻で笑っていた。わかった気になってはポエムを押しつける教授にボクは飽き飽きして、だから教授が専門にしていない作品を選んだ。
そしてそれは、キミも同じだった。そうだろう?
「あの教授なら十二単の姫君が見えるかな?」
「見えるんじゃない。あの辺に」
「新しい墓ばかりだぞ」
「心の眼で見るんです、ハイ」
夕暮れの小さな教室で、淡々と時間が過ぎていく。
もう卒論提出まで二ヶ月半。ゼミ生の現状報告は、妄想報告と呼び替えても良さそうだ。
ここでは誰もが偉大な学者。そして誰もがポエマー。
近代のゼミに行った友人は、無理矢理作らされる同人誌のようなものと言った。あまりに分かりやすくて笑えた。
「無理してる?」
「何が?」
そんな楽しいゼミの後、また食堂でお茶を飲む。飲みながら、ボクはキミに叱られた記憶を思い出していた。
あれは六月、ボクの中間発表の日だ。
やる気のないボクが源氏でありきたりな発表をしたおかげで、教室はだれきっていた。半分は居眠りで、半分はぼんやり外を眺めている、そんな景色のどちらにもキミはいなかった。
正方形に並べられた机のちょうど向かいにいたキミは、ボクを睨んでいた。
「すごく退屈そうな顔」
「いや………、それなりに楽しんでるって」
「へぇ」
あの時、ボクは睨まれる理由が分からなくて、ただ目をそらした。
いや違う。
分かっていた。すべて分かっていたから、ボクは嘘をつくのを少しだけやめたんだ。
「なんとなく、やる気はあるんだ」
「いつ…」
「最初から。少なくとも四月から」
「そうなの」
「そうは見えない、と。正直な反応だ」
「え、……まぁ」
本音をいえば、ボクは今何をしたらいいのかまるで分からなくなっている。
光源氏のつまらない物語はもう書けないだろう。
じゃあ何だ? ジェンダーか? あれだってただの物語だろう。
「友達が死んじゃって」
「え…」
「まぁたぶん、そいつはボクが友達だったなんて知らなかっただろうけど」
「……その人の分も頑張ろうってこと?」
紙コップのコーヒーがなくなったら、気を紛らすものもない。
ボクは追いつめられて、どうでもいいことばかり口にしていた。
「そんなつもりもないな、たぶん」
「………うん」
地下の食堂を出たら、外はもう暗かった。
不規則なざわめきの中に、どこかの劇団の発声練習が混じる。そういえばキミはサークル活動してなかったのかい?、と聞こうと思ってすぐにやめた。
「そういえば、プレゼントの本ですけど」
「ん? 返品?」
「かわりにもう一冊?」
「クーリングオフはもう終わってる」
キミの声は無国籍。
キミの声は記憶を無くしてる。
だからキミの声はボクに響いた。
「落書きがあったの」
「ふぅん」
「知りたい?」
「どうぞ」
「え?」
「話したいんだろ?」
「…別に」
この土地の言葉をまるでしゃべらないキミ。そしてボク。
四年も住んでいれば、意識しない限り染まってしまう。
何か理由があるのだろう、とボクは思った。
「自分もかくありたい、だって」
「それだけじゃ全然分からない」
「でしょうね」
だけどそんなことは、キミにだって分かっていた。
少しずつ下がっていくこの街の体温を、ボクたちは感じていたんだ。