(一)
「ここは大系が安いよな」
「え? ……うん」
ボクがキミに初めて声をかけた瞬間は、ドラマになるほど劇的なものじゃなかった。だいいち、別にそれは初めてでもなかったんだ。
最後の長い夏休みが終わった九月下旬。
同じゼミで卒論の指導を受けてたボクらは、何も変わらない顔で、だけど何かに焦っていた。
「卒論、堤中納言だっけ?」
「うん」
「ボクは…」
「落窪」
まだ影も形もない卒論がもしも書けたなら、ボクらはここを去る。わかりやすく予定された未来にはどこか現実感がない。そう思うのは、書けそうな気がしないから?
それはそうだ。
落窪なんて、好きで選んだわけでもない。それに卒論をどうしても書きたいなんて欲求もなかった。
「どっちの姫君が好き?」
「……さぁ。遠い昔の人だろ」
「ずいぶん醒めてるね」
「じゃあ同じ質問してもいいか?」
「んー…」
だけど気乗りがしようがしまいが、来年の四月にボクはここにいてはいけない。
紆余曲折あったけれど、どうにか就職先も決まった。もうあんな面倒な就活なんてしたくない。
「落窪の少将は、きっと私を見つけてくれないと思う」
「そ……、そんなことはないだろう」
どうせ本を買う気もないアリバイ作り。
なのにカビ臭い本棚の前で動揺したボクは、どこかおかしかった。
坂道を十分下った先のアパートは、いつの間にかがらくたに埋もれている。
田舎を離れてやってきたボクの荷物はバッグ一つ。
薄暗い六畳の部屋で、人間の声が聞きたかったボクはラジオを鳴らした。そんな原体験がこの部屋を作ったのだと、バカな友だちは言っていた。
ボクにとってこの部屋は、積み木遊びのようなものだ。
もしかしたら、鳥の巣作りのほうが近いかも知れないけれど、それは見た目だけ。だって、鳥の巣は子供を育てるためのもの。ここは……、なんだろう。
ままごと遊び。
生活ごっこ。
人はそれをモラトリアムという、らしい。
「源氏のマンガとか読んでんの?」
「全然」
「へぇ」
「そういうのが嫌いだから」
「だから虫愛づる…ねぇ」
四限の卒論ゼミが終わると、ガラガラの食堂へ向かう。
なんとなくボクはキミを誘い、キミはボクを待っていた。
「じゃあ落窪なんてクソ食らえだな」
「うん……、でも」
「ん?」
「落窪を喜んで選ぶ男にはちょっと興味があるから」
「へぇ」
落窪は少女趣味。堤中納言はアブノーマル。
稚拙なやりとりで、少しだけ気分を高めていく。
この街が嫌いだから近代の小説は嫌だ、とキミはいう。
そうだ。そんな気がするとボクも答える。
「継母がかわいそうだとは思うぞ」
「なのに落窪が好きなの?」
「…とりたてて好きってわけじゃない」
ボクはキミとどこかで会っていた? そんなファンタジーはどこにもないけれど、だけどキミとボクはどこか似ているような気がした。
そしてボクは、落窪で書く卒論だって悪くない気がした。
「本当に好きだったら、やっぱり研究できる?」
「さぁ…」
まるで無駄に思えてしまう今の時間。
息を吐くことすら面倒なボクは、いつもつまらない言い訳を用意していた。あまりにもつまらな過ぎて、もう思い出すのも嫌になる言い訳を。
だから次に古本屋で逢った時、キミに本を一冊プレゼントしよう、とつぶやいた。
キミは笑って、それから数日後、茶色の硫酸紙に包まれた本を手に取った。