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安楽の記憶  作者: nats_show
1/4

(一)

「ここは大系が安いよな」

「え? ……うん」


 ボクがキミに初めて声をかけた瞬間は、ドラマになるほど劇的なものじゃなかった。だいいち、別にそれは初めてでもなかったんだ。

 最後の長い夏休みが終わった九月下旬。

 同じゼミで卒論の指導を受けてたボクらは、何も変わらない顔で、だけど何かに焦っていた。


「卒論、堤中納言だっけ?」

「うん」

「ボクは…」

「落窪」


 まだ影も形もない卒論がもしも書けたなら、ボクらはここを去る。わかりやすく予定された未来にはどこか現実感がない。そう思うのは、書けそうな気がしないから?

 それはそうだ。

 落窪なんて、好きで選んだわけでもない。それに卒論をどうしても書きたいなんて欲求もなかった。


「どっちの姫君が好き?」

「……さぁ。遠い昔の人だろ」

「ずいぶん醒めてるね」

「じゃあ同じ質問してもいいか?」

「んー…」


 だけど気乗りがしようがしまいが、来年の四月にボクはここにいてはいけない。

 紆余曲折あったけれど、どうにか就職先も決まった。もうあんな面倒な就活なんてしたくない。


「落窪の少将は、きっと私を見つけてくれないと思う」

「そ……、そんなことはないだろう」


 どうせ本を買う気もないアリバイ作り。

 なのにカビ臭い本棚の前で動揺したボクは、どこかおかしかった。




 坂道を十分下った先のアパートは、いつの間にかがらくたに埋もれている。

 田舎を離れてやってきたボクの荷物はバッグ一つ。

 薄暗い六畳の部屋で、人間の声が聞きたかったボクはラジオを鳴らした。そんな原体験がこの部屋を作ったのだと、バカな友だちは言っていた。


 ボクにとってこの部屋は、積み木遊びのようなものだ。

 もしかしたら、鳥の巣作りのほうが近いかも知れないけれど、それは見た目だけ。だって、鳥の巣は子供を育てるためのもの。ここは……、なんだろう。

 ままごと遊び。

 生活ごっこ。

 人はそれをモラトリアムという、らしい。




「源氏のマンガとか読んでんの?」

「全然」

「へぇ」

「そういうのが嫌いだから」

「だから虫愛づる…ねぇ」


 四限の卒論ゼミが終わると、ガラガラの食堂へ向かう。

 なんとなくボクはキミを誘い、キミはボクを待っていた。


「じゃあ落窪なんてクソ食らえだな」

「うん……、でも」

「ん?」

「落窪を喜んで選ぶ男にはちょっと興味があるから」

「へぇ」


 落窪は少女趣味。堤中納言はアブノーマル。

 稚拙なやりとりで、少しだけ気分を高めていく。

 この街が嫌いだから近代の小説は嫌だ、とキミはいう。

 そうだ。そんな気がするとボクも答える。


「継母がかわいそうだとは思うぞ」

「なのに落窪が好きなの?」

「…とりたてて好きってわけじゃない」


 ボクはキミとどこかで会っていた? そんなファンタジーはどこにもないけれど、だけどキミとボクはどこか似ているような気がした。

 そしてボクは、落窪で書く卒論だって悪くない気がした。


「本当に好きだったら、やっぱり研究できる?」

「さぁ…」


 まるで無駄に思えてしまう今の時間。

 息を吐くことすら面倒なボクは、いつもつまらない言い訳を用意していた。あまりにもつまらな過ぎて、もう思い出すのも嫌になる言い訳を。

 だから次に古本屋で逢った時、キミに本を一冊プレゼントしよう、とつぶやいた。

 キミは笑って、それから数日後、茶色の硫酸紙に包まれた本を手に取った。

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