水仙
「椿、ついてくるなよ」
乱暴な、それでもどこか甘い彼の声に、私は悲しみを覚えはしても、憎いとは思わなかった。ただ自分だけ彼の瞳に映る兄様が憎かった。
どんなに私が追いかけても、そのために転んで怪我をしても、助けてくれるのはいつも兄様で、彼は見向きもしない。それでも私が憎むのは兄様だった。
だって私は知っていた。
兄様がいないときは彼が、私を助けてくれること。兄様さえいなければ彼は私に優しくしてくれること。
やめてよ、と言えなくて、ただおとなしくいじめられて泣いていた私を、助けてくれたのは彼だった。ぶっきらぼうに慰めてくれたのは彼だった。
それは兄様の代わりにしてくれたこと。兄様のためにしてくれたこと。わかっていても、私は優しくされたことを忘れられない。
「椿は綾女が好きなんだよ」
兄様は私の気持ちを知っていて、彼を独り占めする。
「知ったことじゃねぇ」
彼が吐き捨てた。
憎い兄様。双子の片割れ。性別が違うのに、見分けがつかないほどの同じ顔。
最愛の半身を、こんなに憎むようになったのはいつからだろう。愛しい分だけ憎しみが募る。
同じ顔をしていても、彼の目にはいつも兄様。
「綾女…」
優しく諌める声。そんな声で、彼を呼ばないでほしい。
兄様が彼を誘う娼婦のように、汚らわしく感じた。
「綾女さん、兄様、失礼します。お茶が…」
ドアが細く開いていた。
見てしまった。抱き合う二人。窓からの光が二人の影を金色に縁取って、とてもきれいで、私は立ち尽くした。
二人には私の声が聞こえなかったのか、私の存在に気付かず、唇を求め合う。
私はティーセットをその場に捨てて、駆け出した。
私がティーセットを投げ捨てる音は二人に届いたらしい、慌てて追いかけて来たのは、彼だった。
中庭に池がある。私はそのほとりで、追いかけて来る彼を待った。
「おい…」
背後から声が聞こえて、声をかけられ、私は振り向いた。
「…見てた、のか?」
静かに頷くと、彼はバツが悪そうに首の後ろを押さえた。
「あれは…」
「やめてください。綾女さんと兄様のことなんて、私、とっくに知ってました」
「椿、俺と一緒に戻ってくれ。葵が、気にしてる…」
こんな時にも、綾女さんは兄様のことばかり。傷付いたのは私なのに。私の気持ちは、知っているはずなのに…。
「戻る?兄様とあなたが睦み合っていたあの部屋へ?」
私はわざと、二人を貶める言い方をした。
「椿…」
「やめてください。…気持ちわるい」
言った途端抱き締められた。そのまま唇に、彼のそれが押しつけられる。兄様に触れた彼の唇が、今私に触れていることに、恍惚とした気分になる。
「これで満足か?」
彼は口を拭ってそう言った。
私の手が、彼の頬を打っていた。
「私にも、兄様と同じように触れてよ!兄様にするようにキスをして、同じように愛して…」
「…」
「何もかも兄様と同じにしてくれないなら満足なんてできません」
言い捨てて、また逃げた。
さくっと土を踏む音がして、彼が振り向くとそこに兄様がいた。
今まで私に注がれていた視線を、兄様に奪われたことが悲しくて、それでも私は、二人を見つめずにおれなかった。
池の水を掬う兄様を、彼が見ていた。
声は聞こえない。だけどきっとこの時、二人は誓ったんだろう。水辺に咲く水仙の影になることを…
「椿、ごめんね。昼間は…」
「兄様や綾女さんが謝ることじゃありません」
私の部屋の扉をノックして言う兄様に、私は扉を開けずにそう言った。
次の日から、彼は家に来なくなった。
母様が彼を家に入れなくなった。
私が告げ口したから。
兄様は表面上は何も変わらないかに見えた。
「椿、おりておいで、お茶が入ったよ」
私は怖くて、家族での食事以外で兄様に会うことがなくなった。
母様が忙しくて、三人で食事を摂れない時は、私は夜になってから一人で食べた。
兄様と二人きりになるのが怖かった。
「椿、お茶、ここに置くよ」
お茶の誘いに応じなかった私に、兄様はお茶を運んできてくれた。
「椿…ごめんね。君を傷付けて…」
傷付いたのは兄様も同じだ…。
同じ、そのことに安心して、私は扉に近寄った。だけど扉は開けずにその厚い木の板に額を付ける。
「椿、愛してるよ」
私も、兄様を愛してる。
だから、憎いの。
「ごめんね」
その日は母様はいなかった。
兄様は私にだけ別れを告げて、家を出た。
「最後に綾女に会いたかったら、町外れの湖へおいで。僕らがいつも、秘密で会ってる所だよ」
私に邪魔されて、兄様と彼は二人だけでこっそり会っていたのだ。
また、黒い憎しみが心を埋める。
私は夜、兄様の後をつけた。
兄様は私の存在に気付いていただろうけれど何も言わず前を歩いていた。
そのとき兄様が急に駆け出して、私は慌てた。
追いかけたけれど、兄様も彼もいなくて、私を助けてくれる人はいなくて、やっと湖に辿り着いたとき見たのは、あの時と同じ、月明りに金の輪郭を浮かび上がらせた、抱き合う二人。きれいな…。
きれいな彼の、赤い血が、地面を濡らした。
湖のほとりには水仙が咲いていて、白く花灯を灯す。
「兄…様…」
綾女さんはこちらを見て、一瞬目を見開き、それから今まで私には見せたこともない優しい笑顔を見せて頽れた。
力の抜けた体をそっと支えて、兄様がゆっくりこちらを見た。
「最後に、会えたかい?」
私は立ちすくんでいた。
「どうしたって赦されない恋だから、こうするしかないんだ」
言って兄様は、彼をそっと抱いて水の上に差し出す。
血溜まりの中にナイフが落ちている。
綾女さんのお腹を刺したナイフ。
綾女さんは弱々しく兄様の手を掴んで、最後の愛を囁く。
兄様は彼の体を水の上に差し出したまま、放そうとはせずに、言葉を返す。
「愛してる…綾女…」
その言葉を聞いた途端、私には今夜ここに呼ばれた理由がわかった。
私は血にぬれたナイフを拾い上げ、兄様を背後から抱き締め、そのお腹を刺した。
「ありがとう、椿…」
兄様の言葉に、綾女さんも微笑んだ。
二人は抱き合って、湖に沈んだ。
あれから私は誰も、何も愛せない。愛しい兄様の愛したものじゃないと愛せない。同じじゃないと生きられない。
愛と憎しみの狭間で、私はきっと生きたまま鬼に生まれ変わった。
兄様を刺してからずっと、夏でも氷のように冷たいこの手が、その証拠。
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