Act.03
結局メールの遣り取りだけでは埒があかず、翌日ピアノ教室がある光を覗いた三人で集まることになった。集まったのは例のファミレスで、恵がファミレスに到着した時には既に二人はテーブルについていた。
「ごめん、少し遅くなった」
「どうかしたの?」
「担任に進路のことでちょっとね」
一瞬、川越が何かを言いかけたけどそのまま口を閉ざしてしまう。少しだけ気にはなったけど、そのまま椅子に座ると空いている席に鞄を置いた。
「……えっと、聞いて良いのかちょっと悩むところなんだけど、その頬どうしたの?」
「転んでぶつけた」
「分かった……そういうことにしておく」
恐らく頬の色合いから転んだという理由は納得行くものじゃなかったらしい。恵自身、自分で言いながら厳しい言い訳だと思った。確かに頬は今日になってみると既に青くなっていてかなり見栄えが悪いし目立つ。それをどうにかサイドの髪で隠している状況だ。
ただ、それ以上深く突っ込んで聞いてこないところがアキの優しさだと思う。隠したいと思うことを曝かない、恵にとってそれは立派な優しさだと思う。
「それで昨日メールで話した通り、色々あってうちの家使えなくなったの。試験勉強は各自ということになるけど、問題はこれからの打ち合わせ。完全に作業に入れば打ち合わせも多少減るけど、まだそんな段階じゃない。だからどこか場所がないかと思って」
「あー、それ一つこっちから提案」
挙手したのは川越で、微妙に視線が泳いでいるのは傷を見ないようにしているのかもしれない。こういうところ、川越は変に不器用だと思う。女のあしらいは上手いのに、少しだけ笑いそうになってしまうのを恵はお腹に力を入れて堪えた。
「ケイと光には面倒かもしれないけどうちで打ち合わせやらないか?」
「川越の家? だって、あんたの家両親いるでしょ」
「その両親のお墨付き。うちの親曰く、見えない所でコソコソやられるよりかは、目の届く所で集まれって」
「……あんたの生活態度をどれだけ親が心配しているかよく分かるコメントだわ」
「お前なぁ、まぁ、俺も大口叩ける生活態度じゃないけどな。ただ一年っていうスパンを考えると経済的にもそれが妥当だろって。……あのさぁ、やっぱりそれって俺らのせいか?」
腫れた頬を指さしながら、川越は本気で申し訳なさそうな顔で顔色を窺ってくる。折角アキが流してくれたんだから、一層のこと川越も流してくれたらいいのに、そうもいかないらしい。
「全然関係ないから」
「親に怒られるまで考えもしなかったけど、でも殴られた顔して、さらに家が使えないって言われたら、いくら何でも想像つくだろ。俺が帰ったあの後、何があった」
「シュウ、それはいくら何でも突っ込みすぎ」
「でも、俺たちのせいだったら」
「だから違うって言ってるでしょ!」
恵自身が思っていたよりもずっと大きな声で、自分でも驚く。店中が静まりかえり、徐々にざわめきが戻ってくるのを黙ったまま聞いていた。俯いた顔を上げるにはどんな顔をすればいいのか分からない。
川越の無神経さに腹立ちと苛立ちが入り交じる。一体、川越は何が聞きたいというのだろう。恵の家庭環境を今さら聞いたところでどうなるものでもない。ただ、聞いただけで重苦しい気分になるだけで良いことなんて一つだってない。
そもそも、家庭環境を伝えて同情して欲しい訳じゃない。このメンバーに同情とか、そんなものは求めていない。
「……どっちにしても、明日は私も用事があるし土日挟んで明後日からは試験が始まる。場所については試験明けにもう一度話そう。どうも川越はこの傷が気になるみたいだし、私はこれで帰る」
まだ何も頼んでいないファミレスを出ると、バス停に向かって足早に歩き出す。悔しくて涙が出そうになるけど、絶対にこんなことじゃ泣かないと決めていた。俯いたまま歩いていると、背後から腕を掴まれて驚いて顔を上げる。
振り返ったそこには息せき切った川越がいて、その顔は怒っているように見える。
「お前なぁ、どうしていつもこっちの話しも聞かずに席立つんだよ!」
「私が帰りたくなったの、悪い?」
さすがにこの言い方は不味いと思った。でも今さら取り消せるものでもなく、川越の目つきがさらに鋭いものになる。掴まれた腕が痛い。
「心配してるんだろ! もし俺たちが悪いなら謝らないといけないし!」
「だからその謝罪が必要ないって言ってるの! 心配したってお互いにできることなんて何もないでしょ! だからこれ以上首突っ込まないで!」
お互いに怒鳴り合うようにして、正面から睨み合う。恵自身、昨日の今日で気持ちがまだ落ち着いていないのは分かってる。でも、引き返せないところまできていて、爆発した気持ちが抑えられない。
「……確かに何ができる訳じゃねぇよ! でも、心配くらいするのが普通だろ」
「何それ、同情? 悪いけど家族のいる川越に言われても、全然説得力ないから。上から目線の同情なんてまっぴらごめんなの」
「シュウ!」
後を追いかけてきたらしいアキの声で、川越が振り返る。そのタイミングで掴まれた腕を振り払うと、恵は逃げだすように走り出した。
最低なことを口走った自覚は恵にもあった。けれども、どうしても生活の心配をされたり、家のことまで口出しされることが我慢ならなかった。
でも、それは川越が悪い訳じゃない。そんなことは恵にだって分かってる。伯母の言葉でグラグラしている自分が悪い。
感情が絡み合った毛糸のようで、上手く解けない。色々なことを考えては違うと否定し、疲れて足を止めたところで土手が見えた。
恵は何気なく足を止めると、土手を見渡し近くにある階段を登り始める。別に意味はない。ただ、こんな気持ちのまま家に帰ることはできなかった。
土手を上ると川があり、そこに鉄橋が架かる。鉄橋の向こう側には普段よりも大きな夕日があって目を細めた。
子どもたちが帰る時間。それは独特の寂しさがあり、川の方へ土手を少し降りると恵は草原の上に座った。最近刈り取ったばかりなのか、青草の香りがして大きく息を吸い込んだ。
心配されていることは分かる。恐らくアキとは違う川越の優しさだとは分かってる。でも心配される、同情されるような立場だと自分を知るのが嫌だった。
ただ認めたくなかった。自分は可哀相な子じゃない、そう思ったのは光じゃなくて恵自身だったのかもしれない。
途端に見ている陸橋がぼやけてきて、目尻から涙が零れる。自分の状況に泣いたりしないと思っていたのに、一度泣いたらぼろぼろと涙が零れてきて草の上に寝転がる。人を避けるためだけに掛けていた眼鏡を外して脇に置くと、ただぼんやりと空を眺める。
本当はこんな環境、嫌で嫌で逃げ出したかった。いくら光のためだっていっても、苦しくて辛くてどこかで吐き出したいと思っていた。泣くことで恵という人間が端から崩れ去っていくようで、ただひたすら空を眺めながら泣いた。
夕日がゆっくりと沈んでく中で、色を変える空を眺めていると近くで草を踏みしめる音がした。首を逸らしてそちらを見れば、少し困った顔で微笑むアキがいる。
「ごめんね。でも、一人だと危ないから」
少し離れたところで立ち止まると、そのままアキも草の上に腰を下ろした。そして、それ以上何も言わない。二人でただぼんやりと沈む夕日を眺めたまま、ゆっくりと時間が進む。
「……川越、怒ってた?」
鼻声だった恵の問い掛けに対する答えは少し間があった。そしていつもと変わらないアキの声が耳に届く。
「反省してた」
「またアキがきついこと言ったんでしょ」
「ちょっとだけね」
答えたアキの声から少しだけ笑う気配がある。多分、アキのことだから容赦なく川越に言ったに違いない。
「ちょっと川越に同情するわ」
「酷いなぁ、それじゃあ僕が悪者みたいだ」
「ごめんね」
恵が思っていたよりもあっさりと謝罪の言葉は口から出てきた。涙と一緒に剥がれたのは、もしかしたら恵の下らないプライドだったのかもしれない。泣くことをしなかったことで、心の中にドロドロしたものがずっと溜まり続けていた。それが今はどこかすっきりした気分になっている。
斜めに見ていたのは川越じゃなくて自分自身だ。強がるばかりでどうにもできない弱い自分だ。
「恵は頑張ってるよ。だから謝ることは何もない」
「でも折角の心配を地面に叩きつけるような真似をした。川越にも謝らないといけないね」
「そうだね。あれはケイも言い過ぎだったから。でもこれからも心配はするよ、友達だから」
「うん、反省してる。……よし!」
勢いをつけて起き上がれば、既に川面に夕日の姿はない。ただ遠くにあるビルの隙間に少しだけその顔を覗かせるだけだ。
「大丈夫、私まだ戦える気力充分あるし。それに住むところさえあれば、貯蓄でまだまだ生きていける!」
「僕としては頑張りすぎるのもちょっと、と思うけど」
「何言ってるの、ここで頑張らなくていつ頑張るっての。それに、明日は殴り込みだし」
「何それ」
振り返ってアキを見れば、その顔に困惑が浮かぶ。確かに状況を考えれば言葉が悪かったかもしれない。
「出版社から連絡来て、明日、夕方に出版社に行くことになってる」
途端にアキの顔が驚いた顔になり、そして笑顔に変わる。
「凄い、それって」
「どんな話しなのかは分からない。でも今はゲームを作るつもりだし、今すぐプロとかいう話しだったら断るつもり。だからどう転がるかは分からない」
「でも、そんなチャンス」
「なるよ。プロにはいずれなる。でもそれは今じゃない。ただそれだけのこと。私が今やりたいのはあの進み出したゲームを完璧に作り上げること。そしたら何かが変わる気がする。もっとずっと強くなれる気がする」
言霊というのが本当にあるのか恵には分からない。ただ、力強く言った言葉は心の中に落ちてきて、そして熱をもって広がっていく。
「だから頑張ろう、一緒に」
少し呆然とした様子のアキをしっかりと見据える。そしてアキもこちらを見ている。でもその口角が徐々に上がり、アキはその場で立ち上がる。
「そうだね、やらないと」
「トップ賞狙うよ」
「僕も頑張るよ」
「そうして。ついでに私の本気を見せる」
唐突にポケットから携帯を取り出すと、既に見慣れた名前を電話帳から探し出すと通話ボタンを押した。しばらくコール音が鳴ってから、電話先に相手がでる。けれども相手からの声はない。
「朝霞だけど」
「……知ってる」
「ごめん、私が言い過ぎた。だから試験明けにもう一度きちんとこれからのことを話しさせて欲しい」
でも電話向こうからの声はなく、電波状態が悪いのかと思い少し移動してみる。けれども、そんな心配は杞憂だったらしく、受話器から盛大なため息が聞こえた。
「お前……何で先に謝るんだよ。謝るの俺の方だろ?」
「別にどっちが先に謝ろうといいじゃない。私が悪いと思ったから謝った。それの何が悪いのよ」
「あのなぁ、そういう問題じゃなくて! っ……俺も悪かった。余計なこと口にした」
ぶっきらぼうながらも謝る川越につい恵の口元から小さく笑いが零れる。
「心配してくれたの、素直に嬉しかった。だから有難うもついでに言っておく」
「ついでかよ」
「そう、ついで」
「まぁ、お前らしいけどな。あのさぁ、やっぱり俺の家にしないか? 親に話したら光が来ても構わないって言ってるし、これから場所を探す時間も勿体ない」
「それは……ちょっと私には敷居が高いというか」
「何だよ、お前もアキみたいなこと言うのかよ。異性の家には行ったことがありませんとか」
「言わないわよ!」
怒鳴りつけてから、川越の言葉を反芻する。そして口元が緩みそうになるのを耐えながら川越に声を掛けた。
「……アキってそうなの?」
「そうだよ。だからケイの家に行くのにもガチガチに緊張してさ。まぁ、ケイのアパート見て緊張とか吹っ飛んだけど」
「悪かったわね、ボロ家で」
「でも、大事な家なんだろ。とにかく、一度お前に会ってお礼が言いたいってうちの親がうるさいんだよ。試験最終日にでもうちに来て、居心地悪かったら他を探せばいい。どうだ?」
川越が辟易している様子は電話からでも伝わってくる。恐らく余程親にうるさく言われているのかもしれない。確かに一度行ってダメだったら次を探したって遅くはない。
「分かった。私は別行動になるから、試験最終日までに川越の住所送って」
「助かる。悪いな、無理言って」
「別に謝ることはないけど。明日は用事あるから試験勉強一緒にはできないけど、試験明けからまた宜しく」
「こっちこそ。それじゃあな」
恵も同じ言葉を返して電話を切れば、複雑な顔をしたアキと視線が合う。
「僕の名前が出てたけど」
「アキ、うちに来るの緊張してたんだって?」
「……シュウの奴、余計なことまで」
顔を顰めるアキに恵が笑えば、アキは諦めたのか肩を竦めて見せた。
「試験最終日、川越の家に行くことになった」
「そうみたいだね。いいの?」
「一度だけでもってお願いされちゃったからね。まぁ、先のことは川越の家で話し合ってもいいし」
「光くんもきちんと連れてきてね」
「勿論。夏休み中はこき使ってやる」
「その言い方だと夏休み後は?」
さすがこういう言葉尻を捕まえることがアキは上手い。だからこそ、恵はニヤリと人の悪い笑みをアキに向けた。
「高校入学が決まるまで追い出す。悪いけど高校浪人されるだけの余裕はない!」
「酷いなぁ、夏休み中に全部の曲を作らせるつもり?」
「当たり前でしょ。もし後から修正したいんだったら、いくらでも直せるんだから高校入学決まってからやればいいのよ。さてと、帰ろうか。付き合わせてごめん」
久しぶりに清々しい気分で、謝罪するのに笑顔というのはおかしいに違いない。それでも恵は笑顔のままアキに謝罪の言葉を投げる。すると同じようにアキもいつもと同じ穏やかな顔で笑う。
「友達だから当然です」
その言葉が恵にとってどれだけ嬉しいか、アキには分からないに違いない。でも、その嬉しさは恵だけが知っていればいい。
草原の土手を二人並んで上ると、並んで藍色の空の下を歩く。川越の家や家族のこと、これからの予定、くるくると会話は変わるけどそれが楽しい。
友達がいて、川越とアキ、そして光がいてくれて本当に良かった。恵は初めてそう思えた自分にホッとした。
* * *
翌日、電車を乗り継いでようやく出版社に到着すると、恵がまず最初に困ったのは受付だった。さすがに大きな出版社だけあって、建物も受付も立派で気後れする。
駅のトイレで髪はきっちり纏めたし、鞄に忍ばせてあったワックスできちんと前髪も整えた。頬も青みがかっているけど、これなら転んだとごまかせる範囲だ。制服の崩れがないことも確認したけど、どうしても怯んでしまいそうになる。
大きなガラスで自分の姿を確認すると、時計を見て十分前であることを確認してから恵は自動扉の前に立った。自動扉が開き、受付の女性二人がにこやかに出迎えてくれる。
「今日、十八時に野田さんとお約束していますケイと申します」
「承っております。そちらのエレベーターで五階にお上がり下さい」
「有難うございます」
お礼を言ってから、恵は受付の女性に言われた通りエレベーターで五階に上がる。徐々に心拍数が上がってくるのを感じながらエレベーターを降りた。
エレベーター前に扉は一つ。左右に長い廊下が広がるけれども、その扉の下にオークル編集部という看板があり、そこが恵の目的地でもあった。深呼吸してから恵は気合いを入れてノックした。
しばらくすると中から扉が開き、先日イベントで会った野田が現れた。
「お手数を掛けてしまい申し訳ありませんでした。本来ならこちらから出向くのが筋なんですが、一応、こちらの身元を確認して貰うためにお呼びしました。こちらへどうぞ」
中に入るのかと思えば、野田は部屋に向かって「編集長」と声を掛けると扉を閉めた。てっきり編集部というものが見ることができると思っていた恵の期待は、あえなく崩れ去った。
廊下を少し歩くともう一つ扉が現れ、野田がその扉を大きく開ける。
「すみませんが、こちらでお待ち下さい。今、お茶をお持ちします」
言われるままに恵が中に入ると、そこは応接室だったらしい。二客の一人がけソファと三人用の長ソファが一客。そしてテーブルがあり、壁際には立派な生け花が飾られている。そして一番奥にある大きな窓から見える景色は、普段目にすることのない景色で思わず窓際へと近づく。
少なくとも恵の近所から見る景色とは全く違う。窓に手をついて灯る明かりを眺めていれば、背後で扉の開く音がして慌てて振り返る。
「すみません、勝手に」
「いえ、構わないですよ。でもお茶を淹れてきましたのでどうですか?」
野田に促されて慌てて座ろうと思ったが、上座とか下座とか色々あった気がする。果たして恵はどこに座るべきか分からずオロオロしていれば、野田が笑う気配がした。
「どうぞ、こちらへ」
「はい、有難うございます」
手で示された一人がけのソファに腰掛ければ、ふかふかしたクッションにお尻が落ち着かない。本当に貧乏性だと心で嘆きながら、野田の持ってきてくれたお茶を手に取った。口をつけて茶托に戻したところで再び扉が開き、いかにもキャリアウーマン風な女性が入ってきた。
「ケイさん、こちらがうちの編集長、高野と申します」
「初めまして、ケイさん」
「初めまして、こんにちは」
緊張して自分の声が上擦るのを感じながらも、慌ててソファから立ち上がり頭を下げた。
「別にそんなに緊張しなくてもいいわよ」
そう言って高野は恵の目の前に腰を下ろすと、テーブルの上に本を並べた。全部で五冊。それは恵が今年になってから出した同人誌だった。
「これ全部見せて貰ったわ。随分ハイペースで本を出しているみたいだけど、アシスタントはいるの?」
「いえ、一人で描いています」
「一度野田の方からスカウトしたら断られたそうだけど、理由を教えて貰える?」
やっぱり、これは吊し上げなんだろうか。
もの凄く居心地が悪い気分で、恵は高野の後ろに立つ野田をちらりと見上げた。けれども野田は笑顔のまま小さく頷いた。
「今、実は友人たちと来年のコンテストに向けてゲームを作っています」
「ゲーム? ということはイラストを担当しているの?」
「はい、そうです」
「漫画はしばらく描く予定はないの?」
「一応、練習に毎日描くようにはしています。そうでないと感が鈍るので」
「プロにはなりたい?」
「なりたいですけど、高校卒業してからなりたいと思っています」
途端に手帳にメモを取っていた高野が顔を上げた。その顔はさも意外と言わんばかりのもので、恵としては少し緊張する。
「ゲームが作り終わったらではなくて?」
「正直言うと、お金が必要なのでギリギリまでは同人誌を作りたいと思っています」
「うちで必要なお金を払うから、ゲームを作り終えたらすぐ、二年専属でお願いしたら描いて貰えるの?」
高野の口元が楽しげに弧を描く。でもどちらかといえば、それは意地の悪い笑みで恵としては答えに詰まる。
二年の専属。専属といえば聞こえはいいが、もし雑誌掲載されない場合でも契約に縛られることになる。
「その間、同人活動などは認めて貰えますか?」
「無理よ」
「それならお断りします」
途端に面白く無さそうな顔をした高野を見て、恵は切られたことを自覚した。
「絵にはその時の流行り廃りがあることは知っているかしら」
「分かります」
「そう。それなら投稿生活を始めるよりも先に、まずうちへ原稿を持っていらっしゃい。その出来次第で連載を考えるわ」
話しは終わりとばかりに高野はソファから立ち上がると、そのまま扉に向かって歩き出してしまう。慌てて恵は立ち上がると辛うじて「有難うございます」という言葉をその背中に掛けた。
一体何がどうなったのかよく分からない。だからこそ説明を求めるために視線を野田に向けた。そしてその意図は伝わったらしく、野田はさらに笑みを深くした。
「ケイさんの漫画が認められたってことですよ。厳しい物言いでしたけど、ケイさんがプロとして活動を始めてもいいと思った時に原稿を持ってきて貰えたら、その時には高野が目を通すということです」
「あの」
「うちに直接原稿を持ち込んで貰えたらすぐにでも掲載するってことですよ」
「でもすぐには無理で」
「えぇ、それも分かった上での言葉です。少し漫画を離れるそうですが、これからも描き続けて下さい。そして来年、またここでお会いしましょう。これが高野の名刺です」
野田はスーツのポケットから名刺入れを取り出すと、その中から一枚取り出し恵に差し出してくる。それを受け取り名前を見れば、高野紅葉となっており肩書きにオークル編集長となっていた。
「うちは少女漫画誌です。年齢層は中高生がメインになります。ターゲットを考えた漫画を三十六ページ、読み切りでお願いします」
その言葉でようやく恵の中にもじわりと実感が湧いてきた。確かにプロになることは考えていた。でも、まさかこんな形で確約が貰えるとは思ってもいなかった。
どうしよう、顔がにやける……。
「分かりました。再来年二月には必ず原稿を持参してきます」
「時折メールをさせて頂きますので、何か不都合が起きたらその時に教えて下さい」
「分かりました。あの本当に有難うございます」
勢いよく恵が頭を下げてお礼を言えば、野田は笑顔ながらも少しだけ困った様子に見える。
「あくまでその読み切りの反応が良ければ連載、ということになります。だからお礼はその時に頂けませんか。今からお礼を言って貰うのはちょっと心苦しいものが」
「いえ、これから先の未来を見せて貰いました。勿論、さらに先を見るには結果次第ですが、その入口に近づけたことが嬉しいです。本当に有難うございます」
その言葉で困惑した様子から一転、野田の顔にも笑顔が戻る。
「次回読み切り、ぜひとも頑張って下さい。それから、練習に漫画を描いているということですが、よければそれも見せて貰えたら嬉しいです」
「分かりました。今練習用に描いているものが仕上がったらメールに添付して送らせて頂きます」
「お願いします。それからできたら連絡先、住所、名前、電話番号をこちらに書いて頂けますか?」
渡されたボールペンと紙に、自分の連絡先を書いていく。でも、ボールペンを持つ手が震える。それでも読める字で書き上げて野田へ渡せば、笑顔で「今日はお疲れ様でした」と言って丁寧に頭を下げてくる。慌てて恵も頭を下げたけど、じわじわと湧いてきた実感に叫び出したい気分だった。
野田は建物の出入り口まで送ってくれて、最後にもう一度お礼をしてから建物を出た。既に暗くなっているにも関わらず、それが気にならないくらい足下がふわふわしていて現実感がない。