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王都の夜に、肯定を一杯――元歌舞伎町の内勤、潰れかけの酒場を買い取る

掲載日:2026/09/15

王都の夜に、肯定を一杯――元歌舞伎町の内勤、潰れかけの酒場を買い取る


 気がつけば、俺は剣と魔法の王都で、潰れかけた酒場を買い取っていた。赤錆の浮いた看板には『酔いどれ山羊亭』と書かれ、床板は歩くたびに軋み、厨房には酸っぱい葡萄酒と古い油の臭いが染みついている。前世で歌舞伎町の片隅にあるホストクラブの内勤として、売上表と給与明細を睨み続けていた俺には、その店が廃屋ではなく、まだ誰も掘り当てていない金鉱に見えた。


 王都には貴族の令嬢や裕福な女商人が大勢いたが、彼女たちが気兼ねなく夜を過ごせる場所はほとんどなかった。酒場へ入れば酔った傭兵に肩を抱かれ、いかがわしい店へ近づけば、翌朝には社交界中の噂になる。政略結婚、家業の重圧、子を産めという親族からの催促を抱えた女たちは、宝石を買うことはできても、愚痴を最後まで聞いてもらうことには金を払えなかった。


「性的な奉仕は一切させない。ここで売るのは酒でも男でもない。夢と、客が安心して弱音を吐ける時間だ」


 俺が集めたのは、路地裏でくすぶっていた顔立ちのいい青年たちだった。没落騎士家の三男ルーカス、銀髪のエルフであるシリル、巨体のせいで用心棒にしか雇ってもらえなかった寡黙な獣人ガイ。三人は穴の開いた靴や擦り切れた上着で現れ、俺が用意した燕尾服を前にすると、詐欺に遭った者のような顔をした。


「この服を着て、何を盗めばいい。女の財布か、それとも宝石か。俺は鍵開けなんてできないぞ」


「どちらも盗むな。椅子を引き、話を聞き、客が自分で選んだ服や仕事や生き方を認めるんだ。ただし、嘘をついて褒めるな」


 訓練はグラスの持ち方から始めた。相手の目を見つめすぎないこと、触れる前には必ず許可を得ること、容姿だけでなく知識や決断力を褒めることも教えた。料理人には香草を漬けた酒と果実水を用意させ、酒を飲めない客が肩身の狭い思いをしないよう、どちらも同じ形の細いグラスへ注がせた。


「今日のドレスは美しい、だけでは足りない。その刺繍を選んだ理由を尋ねろ。答えを聞いてから、彼女自身の選択を褒めるんだ」


「ずいぶん面倒だな。剣を振るほうが簡単だ。型どおりに動けば、少なくとも剣は文句を言わない」


「人の話を聞くのは、剣を振るより疲れる。だからこそ、金を受け取れる仕事になる。面倒だと思うなら、客の前へ出る資格はない」


 店名は『シャンデリア』へ改めた。すすけた梁には光魔法を封じた硝子飾りを吊り、壁は深い藍色に塗り替え、入口には女性の警備員を二人置いた。指名制度と担当制を導入したが、客が望めば担当を変更でき、接触や店外への同行についても、客本人の同意を書面で確認する仕組みにした。


 香草酒の水割り一杯は、職人の日当の半分に当たる値段だった。最初の客となった女商人は、値段札と薄い酒を交互に見ながら、眉間へ深い皺を寄せた。その隣ではルーカスが緊張のあまり、磨いたばかりのグラスを二度も布で拭いていた。


「こんな薄い酒に、銀貨を三枚も払えというの。街の酒場なら三杯飲めるわ。それとも、このグラスが純金でできているのかしら」


「酒ではなく、あなたが誰にも邪魔されず、一時間お話しになる席の代金です。もちろん、お帰りになりたいときには、いつでもお帰りいただけます。今朝、倉庫番を三人解雇なさった理由から伺ってもよろしいでしょうか」


 女商人は閉店まで話し、翌週には商売仲間を四人連れて戻ってきた。貴族令嬢たちも、最初は扇で口元を隠して笑っていたが、家柄を尋ねず、婚約者の自慢も要求しない青年たちの前では、少しずつ背もたれへ体を預けた。誰かの娘や妻になる前の自分として扱われる時間に、彼女たちは酒以上の価値を見いだした。


 そして、この商売の目玉がシャンパンタワーだった。王室御用達の高級魔導発泡酒を満たしたグラスを何段にも積み、注文が入ると、天井の魔石が客のドレスと同じ色に輝く。普段は家族の都合で席順まで決められている令嬢が、その一瞬だけ店の中心になれる仕掛けだった。


 ある晩、侯爵令嬢アデライドから、星雫の魔導酒十本の注文が入った。青い火花がシャンデリアを駆け上がり、楽団の太鼓が三度鳴ると、燕尾服の青年たちがグラスの塔を囲んだ。ルーカスはアデライドの前へ片膝をつき、差し出された指先へ唇を近づけたが、触れる寸前で止まった。


「今宵、星よりも早く私たちを照らしてくださったのは、ただお一人。気高く、美しく、ご自分の道をご自分で選び取るアデライド様です。星雫の魔導酒十本、今宵の塔は、アデライド様のためだけに輝きます!」


 青年たちは一斉にグラスを掲げ、低く甘い声を重ねた。楽団の弦が細く鳴り、琥珀色の酒が最上段へ注がれると、グラスの塔を金色の光が流れ落ちた。舞い上がった光の花びらが、アデライドの濃紺のドレスへ触れる前に、小さな星となって消えていった。


「その微笑みに金の光を。その明日に銀の祝福を。今宵の女王、アデライド様へ――尽きない夢と、星雫の祝杯を!」


「アデライド様へ、褪せない夜を。その一歩に祝福を、その選択に喝采を。あなたの物語が、今宵よりさらに輝きますように!」


 楽団が華やかな舞曲を奏で始め、客たちは扇を振りながらグラスを掲げた。ルーカスは最上段のグラスを取り、両手でアデライドへ差し出した。彼女は頬を赤くしていたが、いつものように扇で口元を隠さず、金色の光を映した酒を受け取った。


「今夜だけは、誰の娘でも婚約者でもなく、私が女王なのね。誰かの後ろへ立つ必要もない。私の名前を、こんなに大勢が呼んでいるわ」


「今夜だけではございません。ここへいらしたとき、あなたはいつでも、ご自分の物語の主役です。私たちは、そのためにお席をご用意しております」


 隣席の令嬢が対抗して財布を開こうとしたため、俺は給仕長へ目配せした。すぐに、その夜の注文上限を知らせる銀色の札が運ばれる。令嬢は札を押し戻し、魔導発泡酒をさらに十二本並べるよう求めた。


「まだ払えるわ。あの方より一段高い塔を作ってちょうだい。明日の買い物を控えれば、それで済むことよ」


「今夜お受けできるのは、あと一本までです。次にお越しになるためのお金まで、当店へ置いていく必要はございません。塔の高さで、あなたの価値が決まることもありません」


 前世の店では、売掛という名の借金が客と従業員の双方を壊していた。だから『シャンデリア』では、前金か即金以外の支払いを認めず、契約魔法を使った借用証書も禁止した。金を使わせる商売だからこそ、使わせてはならない一線を、経営者が先に引かなければならなかった。


 意外な変化は、開店から三か月ほどして始まった。青年たちに姿勢や歩き方を教えるため、昼間の店内でソーシャルダンスの稽古をしていたところ、窓越しに見ていた女性客から、自分たちにも教えてほしいという声が上がった。夜会へ出る令嬢だけでなく、夫を亡くして踊る機会を失った夫人や、商談相手と踊れず悔しい思いをした女商人まで申し込み、昼間の店は練習場として使われるようになった。


「殿方を誘わなければ、練習にも参加できないと思っていました。夫を亡くした女が舞踏会へ出れば、再婚相手を探していると噂されます。けれど、私はただ、もう一度ワルツを踊りたかったのです」


「ここでは、お一人でいらして構いません。女性同士でも踊れますし、足を踏んだくらいで婚約話が壊れることもありません。床板が抜けないかぎり、追加料金もいただきません」


 昼の講習では酒を出さず、果実水と焼き菓子を用意した。壁際には杖を置ける棚を作り、体力に自信のない客には、椅子に座ったまま拍子を取る練習も教えた。やがて『シャンデリア』は、夜の娯楽店であるだけでなく、女性が安心してソーシャルダンスを練習できる場所としても有効だと評価され、王立舞踏協会から正式な講師を招くまでになった。


 開店から半年後、店の前には毎晩、高級馬車が列を作った。荒くれ者がたむろしていた通りには仕立屋、花屋、菓子店が移転し、夜でも女性が歩けるよう街灯と巡回警備が増やされた。向かいの酒場の主人は、磨いたジョッキを並べながら、こちらへ聞こえる声で「薄い酒とお世辞に大金を払うなど、狂気の沙汰だ」と吐き捨てた。


 俺は反論せず、二階の事務室で帳簿を閉じた。階下からはシャンパンタワーを祝う甘いコールに交じって、昼の練習で覚えたステップを試す靴音が響いている。夢を売ることと、孤独につけ込むことの境目は薄く、その線を見失えば、この店も前世で見た夜の底へ沈むだろう。


「今月も売掛はゼロ。注文上限を超えた客もゼロ。苦情は、ルーカスに足を踏まれた夫人が二人か」


「申し訳ありません。剣なら避けられるのですが、ワルツはどうにもなりません。明日は靴へ鉄板を入れて練習します」


「相手の足が潰れるからやめろ。明日から昼の初心者組へ戻れ。店で一番必要なのは、顔でも剣でもなく、失敗したあとに学び直せる男だ」


 ルーカスは耳を赤くして階段を下りていった。やがて軽快な舞曲が始まり、色とりどりのドレスが磨かれた床の上で回り出す。俺は新しい帳簿を開き、最初の頁へ「客の明日まで奪って、今夜の売上にしない」と書き込んだ。


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