元野球部女子、仕事をクビになったんですがアヤシイ弁護士に拾われました。
栄光のマウンドが見えた。
いや、いまは夜中の0時を回ったところで、本当は住宅街の道端にいる。
なので目の前に見えているのは幻覚だ。
なんだか頭もクラクラする。
きっと体に合わなかった度の強いアルコールを入れたせいだろう。
もたれかかった背から伝わる石の冷たさが気持ちがいい。
夏の音が耳の奥から聞こえてくる。
興奮気味の声が裏返った実況が叫ぶ。
『ピッチャー振りかぶって──』
握ったボールの感触が強くなった。
この一投に乗るのはこれまでの経験すべてだ。
(すべてって、大げさだったな)
カシュ、とプルタブを開けて、コンビニで買った酒を呷る。
(それでも人生の全部を込めた気になってた)
放たれたボールが飛んでいく。
キャッチャーのミットめがけてまっすぐ。
けれど、それが失敗だった。
「打たれた……」
吸い込まれるようにして球はバッドに当たり、そのまま輝くスタンドに鋭い軌道を描いた。
すべてを込めた球はあっけなくホームランとなった。
最後の夏、最後の試合にもあっさり負けた。
思い出した後悔を酒でうやむやにしてしまいたくなる。
結局あのときもいまもなにも変わっていないと思い知ったからだ。
「仕事、クビになっちゃったなぁ」
酒缶を手にうなだれてる彼女は、花袋まどか。
とある大失敗をやらかし本日をもって二年務めていた会社を退職した。
大きくため息を吐き、飲み切った缶をつぶす。
いい加減吹いてきた夜風で思考が冷静になってきた。
帰るために立ち上がろうとしたが、ふらついて尻もちをつく。
「なにしてんだか」と呟いた瞬間、視界の端にキレイに磨かれた革靴が見えた。
同時にリンリンと鈴の音が聞こえ、ドキリと心臓が嫌な跳ね方をする。
(なんだこれ? も、もしかしてお化けが出たんじゃ。だってもう夜中だし、神社の前だし、こんな時間に人が出歩いてるわけないもん!)
ぶるっと背中が震えだしたが頭を横に振った。
現実的に考えるなら、お化けじゃなくて不審者かもしれない。
だったら一大事だ。警察を呼ぼうと慌てて携帯を探す。
「あの、すみません」
声をかけられたのを無視して、探り当てた携帯のロックを解除しようと試みた。
だが酒が手に付いていたのか滑って革靴の方へ落ちてしまう。
急いで手を伸ばすも携帯はひょいと男の手に持ち上げられる。
(ぎゃー! どどどどうしよう!)
まどかの動揺は無駄に終わった。
とくに何かされるでもなく、携帯がまどかの方へ差し出されたからだ。
「こんな時間にあなたのような若い方が、一人でなにをされてしているんですか」
涼やかな男性の声だった。優しさがにじんでいるが、呆れているのも伝わってくる。
恐る恐る顔をあげてみれば、銀フレームの眼鏡が電灯で光っていてまぶしい。
お化けにしてはきっちりと細身のスーツを着込んでいるし、鋭い眼光に身が縮こまる。
「酒くさい。まさか酔いつぶれようとしています?」
「いや、えっと、気づいたらここにいて、あなたは──?」
「失礼、いきなり見す知らずの者に話しかけられたら困りますね。私はこういうものです」
胸ポケットから名刺ケースを出し、一枚がスマホの上に重ねられた。
「土御門、法律事務所?」
「ええ。そこのビルに構えています。弁護士バッジがないと信用できないというならこちらに。調べてもらえれば、『土御門清明』で登録されていますよ。それで、あなたはどうしてここに迷いついてしまったんですか?」
言われた通りスマホで検索してみる。
すぐに名前がヒットした。どうやら本物なのは間違いないようだ。
「歩いてたら……」とまどかは正座で地面に座り直し、首をすぼめた。
「なるほど。よほど運が良かったようですね。五体満足無事にいられるとは。立てますか?」
なんだか不穏な物言いをする弁護士だなと眉間に力が入る。
でも彼も言う通りだ。ここにずっといるわけにもいかない。
立ち上がろうとするも今度は足がしびれていた。
仕方ないと言いたげに土御門が手を差し出してくる。
「失礼しますよ」と支えられ、ようやく立ったときには月が二人の真上に来ていた。
「帰り道を案内しましょう。まったくどんな飲み方をすればこんなところに来るようになるんでしょうね」
喧々と弁護士が迷惑そうに言うが、まどかはなぜか急に寒気を感じて聞き取れなかった。
弁護士の手は異様に冷たくて、血が通っていないようだった。
とぼとぼと暗い道を二人で歩く。
不意に足元を温いなにかに触られたような気がして短く悲鳴を上げた。
春先ではある。夜風が吹いただけだと思いたいが、鳥肌が止まらなくなった。
(だれかに見張られてるみたいな視線、ひそひそ声も聞こえる。悪寒が止まらないんだけど……)
気を紛らわせるために弁護士の背中に話しかけることにした。
「あの、土御門さんもこんな時間までなにを?」
「仕事ですよ」とすぐに返事がきて、まどかは少し安堵した。
「あなたは? そもそもお名前は」
「花袋まどかです。仕事をクビになってしまって、それでやけ酒してました」
「酒におぼれるには十分な理由だ。不当解雇ですか?」
「い、いえ! 私がシャレにならないミスをしてしまって、改善の余地なしって」
「ではお役に立てそうになく残念です。花袋さん、ですか。どこかで聞いたことがあるような気が」
「珍しい苗字ですし」とまどかが鼻をすする。
そうこうしているうちに住宅街を抜け、商店街も通り過ぎ、駅前にたどり着いた。
人と話したことでアルコールも抜けたらしく、回らなかった呂律もいまはしっかりしている。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。送っていただきありがとうございます」
「次のお仕事が早く見つかるといいですね。もし本当はパワハラなどあればご連絡を、どうしました?」
お礼を言うために下げた頭をもとの位置に戻したら、彼の足に子どもがひっついていた。
まだ小学生くらいの背丈の男の子だ。
たしかにさっきまではいなかった。
むしろ駅前に人の気配など自分たち以外なかったはず。
「お子さんがいらっしゃるんですか」と思わず問うと、土御門が目を見開いた。
急いで自分の足元を確認すると、彼は「あっ」と驚愕の声をあげる。
「いえ、これは、見えているんですか!?」
「は、はい、えっ、見えちゃいけないものだったんですか?」
聞き返すと土御門は顔を左右に振ってからポケットをまさぐりだす。
長方形の紙を取り出すとまどかの顔にバシッと勢いよく貼り付けた。
「なんですかこれ?」
「やはり人間ではなかったか。このまま正体を暴いてやるから大人しくしろ。この妖が──」
(うそ、この人、私のことお化けだと思ってる!? あ、ありえないって、そもそも弁護士だって言ってたじゃん! この紙なんなの!?)
「ちちち違います! 正真正銘の人間です! そ、そうだ、私も調べたらたぶんなにかしらの記事が出てくると思います!」
「出てきたところで本人か証明できないだろう!」
「できます‼︎」とスマホを取り出して急いで名前を打ち込み、記事を見せた。
「女子高校生野球、甲子園? 花袋まどか選手?」
「そ、そうです、私のことですこれ! なにか投げるものください、丸いやつ、ピッチャーやってたんです、だから球の速さを見れば経験者かわかるでしょ!?」
いぶかしげに目を細めた土御門は、まどかの顔を札の下からのぞき込んでくる。
しかし少年に袖を引かれ、なにか耳打ちをすると大袈裟にため息を吐いた。
「わかりました。ではこれをそこの壁に向かって投げてください」
そう言うと彼の手には硬球があった。
え、と驚きつつもまどかは受け取る。どこから出したんだろう。
ずっしりとした本物のボールだ。
とりあえずこのままお化けとレッテルを張られたままでは困る。
しかもなにやら呪文みたいなものを土御門は唱え始めているし。
まどかはピッチングの構えを取った。
アップもしていないからどれほどのスピードが出るかわからないが、一か八かだ。
リリースポイントから勢いよくボールを放つ。
力の乗ったボールは派手に壁にぶつかり跳ねかえった。
110kmは出ていはずだが、やはり練習していないとコントロールがきかない。
はぁ、と息を吐いて振り返れば土御門が口をあんぐり開けていた。
「花袋さん、明日予定はありますか」
札を剥がされながら訊かれ、思わず「は?」と聞き返した。
人間だと証明できたのだろうが、またいきなり態度が変わりすぎだ。
「無職なので空いてますけど、なんですか?」
「まずは疑ったことを謝罪します。あなたは人間です。それどころか……。勘違いしたお詫びとして、なにか力になれることがあればと思いまして」
「力に?」
「つまり、弊事務所で働く気はありませんか?」
驚天動地。青天の霹靂。
今度はまどかが口を大きく開く。「はい!?」と再度聞き返した。
「もし働く気があれば朝九時に事務所に来てください。それでは、おやすみなさい」
少年のこともあの札がなんだったかの説明もまったく受けていない。
だが次の瞬間には、まどかの視界がぶつんと電池が切れたように暗くなった。
* * *
は、と目が覚めた。
心臓が大きく跳ね、いまにも飛び出しそうにドキドキと動いている。
目の前には見慣れた天井が広がっており、変な夢を見ていた気がする。
しかし机の上に見慣れないものがあった。
「げっ、夢じゃなかったんだ、あれ」
土御門法律事務所の名刺だ。
彼の最後の言葉を急に思い出す。
時間を確認すると七時を回ったところだった。
(信じる? それとも無視する?)
自分に問いかける。
実は無職になったのもまだ家族に伝えられていなかった。
早急に次の仕事を決めなくてはなのだが、本当に働かせてくれるのだろうか。
そもそも狐に化かされていたらどうしよう。
(もしあの弁護士がうそをついてないとしたらこんな棚ぼたないよね。よくわかんないけど、よし、どうせ無職だ。一応行ってみるか!)
当たって砕けろを信条にしてきたまどかは、手早く準備を済ませ家を後にする。
軽妙に駅まで向かう足。
彼女のかばんになにやら人型の紙がするりと入り込んだのには気づかなかったようだ。
マップアプリの案内に従って事務所が入っているビルの前までたどり着いた。
「あれ?」
なにやら昨晩と違和感がある。
きょろきょろと辺りを確認し、信じられないことに気づいてしまった。
「神社がない……。うそ、でもここにたしかにあったよね?」
何度確認してもただのマンションが建っているだけだ。
とたんに恐ろしくなっていったん帰ろうと駅の方へ体の向きを変えた。
けれど「おはようございます」と声をかけられたせいでつんのめる。
「来てくれて助かります、花袋さん。コーヒーでも飲みますか?」
昨晩介抱してくれた弁護士がさわやかな笑顔で立っていた。
実在してくれていた事実によかったと胸をなでおろすが、同時に眉間にしわもよせた。
「おおおはようございます土御門先生……。あの、昨日ここに神社がありましたよね?」
「神社?」と土御門は首を傾げる。
「はて。ここはずっとマンションですし、神社が建っていたという記録もありませんが。相当酔っぱらっていたようですね。体調の方は?」
「へ、えと、大丈夫です。見間違い? そんなわけ──。あ、待ってください!」
すたすたとビルに戻っていった土御門を慌てて追いかける。
(そんなに酔っぱらってたかなぁ。暗かったけど、マンションと神社を間違える?)
うーんと悩んだところで答えは出ないが、土御門が存在している。
それが余計ややこしい。しかし朝から脳を疲れさせるのも嫌だった。
* * *
コーヒーを買って、ビルの二階にある事務所にやっと入室した。
古い木目調の家具で統一されており綺麗に整ってはいるが、少し埃臭い。
「それで、私はどんな仕事をすればいいんでしょうか」
「簡単な事務仕事をお願いしたいと思っています。書類整理や来客対応、電話の取次ぎ。法律の知識がなくても構いません。まずは一か月ほど試用期間を設けさせていただきます。給料などはこちらに記載がありますので確認してください」
「はい」と書類を受け取った。
契約書を一通り読み終え、サインをして土御門に提出する。
試用期間、と言ってもしばらくはアルバイト扱いのようだ。
早速書類整理を頼まれたので、積みあがっていたファイルの前で腕まくりをした。
これまでの裁判の記録や、依頼人についての資料が山になっている。
どうやら土御門は事務仕事が苦手らしい。
まどかと出会った日にちょうど求人を出そうと考えていた矢先だったそうだ。
説明を半分聞き流しながら、まどかはカテゴリーわけするために軽く資料を見る。
「先生は裁判強いんですか?」
「ドラマやゲームみたいなことは起こりませんよ。実際に法廷に立つよりも前の段階で解決することも多い」
「へぇ、異議ありってやってるところ見てみたかったな〜」
「今日は午後に法廷に行きますし、花袋さんも見学してください」
「いきなりですか?」
なんだか嫌な気配もぷんぷんする。
だが上司が言うなら従う以外に選択肢はないだろう。
一時間もすればあらかた片付いてくる。
オフィスの一角が見違えるようにきれいになり、まずはコーヒー代くらいは働いたなと胸を張った。
土御門は来客対応中だ。
大人しそうな老婆が背中を丸めて、土御門の言葉に一つずつうなずいていた。
「それでは代理人としてお気持ちをお伝えしておきます。結果は後日また話しましょう」
「ええ、なにからなにまでありがとうございました。先生に相談してよかったですわ」
「こちらこそ、お辛い中声をあげてくださってよかった。このあとはお出かけなさるんですか?」
老婆はスーツケースを持ってきていて、服装も少ししゃれている。
「友人から旅行に誘われてますの。気が晴れるだろうからって……」
「そうですね、どうぞゆっくりと過ごしてきてください」
柔らかな笑顔を作った老婆は丁寧に礼を述べると事務所を後にした。
一息ついた土御門が机に広げていた書類をまとめ始める。
誠実に対応していた顔が無表情に戻っていた。
まどかも茶器を下げようとしたが、「これを見てください」と土御門に写真を渡される。
老夫婦が山登りに行った際に撮ったもので、笑顔の二人が仲睦まじい様子でピースをしている。
片方は先ほど見た老婆だとすぐにわかった。
土御門と話していた時の重苦しい表情とは真逆で、ほがらかな顔はこの瞬間がしあわせだと伝えてくる。
「隣に写っているのが彼女の夫です。近所からも評判のおしどり夫婦でケンカなども一切なかった。しかし夫は定年退職後に豹変し、妻の雪子さんへモラルハラスメントを行うようになりました」
「うそ、ぜんぜんそんな風には見えない!」
「よくあるケースです。いままで仕事に出ていた夫が家にずっといると夫婦ともにストレスがたまる。ささいな言い争いが思わぬ結果を生んだだけ。といっても夫の良治さんの変貌っぷりは、雪子さんが耐えられず離婚を決意するほどに過激な物でしたが」
写真をもう一度見た。
老後二人でどう過ごすか夢見ていたに違いない。
疲れ切った妻の顔は、どんな言葉を浴びせられてきたのか想像するのも悲しくなる。
「熟年離婚ってやつですか」
「この後良治さんと彼の弁護士と最終調整をします。雪子さんがそばにいなければ会話することができますから」
「そんなにひどいんだ……」
見知らぬ夫婦へ同情の念が湧く。
しかしひとつ引っかかることがあった。
(つまり示談ってことだよな。そもそも私、行かなくてよくない? ただの事務員なのに?)
けれど法律事務所の仕事なんてなにが正しいのか、まどかには判断がつかなかった。
悩んだ末にいったん飲み込むことにした。
アルバイトだろうと棚ぼただろうと手にした仕事をさっそく失いたくはない。
「では準備してください」と土御門が満足げに資料をクリアファイルに入れる。
写真を返そうとしたが、ふと気になるものが目に映り動作を止めた。
「あの、先生。旦那さんの肩にある黒いものってシミですか?」
「うん? あぁ、たしかにシミがありますね」
指をさしたところ、夫の肩の辺りにべったりと丸く黒いものがついている。
それを認知したときから腹の奥が冷えてジクジク痛くなった。
「気味が悪く見えちゃって、すみません。お返しします」
「そういえば、ウォームアップをしなくても投球にスピードは出るんですか?」
「え? あ、昨日のですか。ある程度は出なくはないかと。急にどうしてそんな話になるんですか?」
「野球に少々興味がありまして。よければまた教えてください」
はぁ、と間抜けた返事が出た。
いま聞くことかよとはやはり問いただす勇気はなかった。
* * *
バタン、と重厚そうなドアが閉まる。
裁判所に着き、相手の弁護士たちと合流したまでは一緒だった。
だがまどかは弁護士ではないのでもちろん外に締め出されていた。
(ますますとうしてここに連れてこられたんだろうか……)
ため息をこぼしても行きかう人に怪訝な顔をされるだけだ。
部屋の中ではきっと示談の手続きが進められているのだろう。
すれ違った夫の方は、やはり優しげな雰囲気の人だった。
とても奥さんにモラハラをするようには見えず、写真のときと大きく印象は変わらなかった。
けれどモラハラを行った際の音声ファイルや動画が証拠として提出されている。
(人って表面だけじゃ判断がつかないものだよね。私だって、部長はもっと優しい人だと思ってたくらいだし)
前職の苦い記憶を思い出しそうになり、慌てて首を横に振って追い出した。
(いくら反省しても戻れないしな。──ん?)
ふとだれかに袖を引っ張られた感覚があり、意識がいまに戻ってくる。
確認してみれば、昨日土御門にひっついていた少年がまどかの横に立っていた。
悲鳴をあげそうになったのを寸前でこらえ辺りを見回す。
(この子も夢じゃなかったんだ! もう、昨日がどこから夢でそうじゃないのかぜんぜんわかんない!)
恐る恐る少年の方へ体の向きを変え、目線を合わせるためにしゃがもうとしたが止められた。
「そのまま」と子どもらしい声だが鋭く言われる。
そういえばこの少年の姿が見えたことを、土御門がえらく驚いていたのを思い出した。
(それってつまりこの子がもしかしたら幽れ……)
もう一度袖を引っ張られたので、驚いたせいで少しだけ足が地面から浮く。
それから手に何かをあてられた。触って確かめてみるとボールだ。
手によくなじむ硬球だったのでうっかり握りしめる。
「おじいさんが部屋から出てきたら、これを投げてほしいんだ」
「は、はい?」
「思いっきり投げて。黒いのが見えたんだろ」
突然何を言っているのか理解ができず首をかしげた。
「写真の。見えたって清明が言ってた」
「だとしてもここは裁判所で、野球場じゃないよ。ボールなんて投げたらいけません。しかも人に向かってなんて」
「人じゃない。鬼だ」
頭がくらくらと揺れた。
いきなり現れておいて、なんて要求を投げつけられたものだろう。
いたずらがすぎる。ちゃんと叱ろうと口を開けたが、ドアノブが動いたのも見えた。
「もう出てくる!」と少年が叫んだ。
そしてドアがゆっくり開いた先にいたのは、──人間ではなかった。
まどかは衝撃的な光景に目を疑い言葉を失う。
そこにいたのは真っ黒な煙、いやもやに包まれた人型のなにかだ。
頭からは角のようなものが二本生え、口が孤を描き両端が裂けている。
まさしくそれは絵巻にいるような一番想像しやすい鬼の姿だった。
「花袋さん!」
不意に部屋の奥から名前を叫ばれ、止めていた呼吸を再開した。
鬼に驚いて膝が震えている。
怖い。当然だ。突然異形が目の前に現れたら誰だって恐怖を抱く。
鬼はまどかたちを見つけると、よろよろとぎこちなく歩きながらこちらに向かってきた。
(あれが旦那さん!? ぜ、ぜんぜん違う!)
ボールを両手で握ってその場にしゃがみこみそうになった。
しかし少年が背中を叩いてきたので何とか倒れずに済む。
だが簡単に恐怖は収まらない。
どうしよう、と嫌な汗が全身から噴き出した。
鬼のもやが揺れたおかげで、背後にいた土御門の姿を見つける。
するとあろうことか、土御門は胸をパンパン叩いて帽子のツバを触る仕草をした。
(え、なに。この状況で何してんのあの人)
思わず目をこらすと、土御門はサインを繰り返した。
どことなく焦っているようにも見える。
その仕草のコミカルさにまどかの緊張がどんどんほどけていく。
(というかストレートで投げろって指示したいのか、あれ。まさか本気かこいつら)
少年も「はやく! いそいで!」とまどかの裾をぐいぐい引っ張る。
鬼は床に黒いもやを落としながらあと一歩の距離まで来ていた。
このままではこちらを襲ってきそうだ。明確な悪意を感じ取ってしまった。
「~~~ッ! 責任はそっちが取ってよ!」
ぐ、とボールをにぎりこんだ。
気づけばまどかの目の前にはマウンドが広がっていた。
自分のために演奏されている応援歌が鼓膜を震わせる。
土の匂いが鼻をかすめたとき、左足を上げた。
ボールを握った右腕を後ろに引く。
あげた足を地面に下ろし、ぐ、と踏み込む。
溜めた力と勢いを球に伝えるために、しならせながら腕を振りかぶった。
そのまま完璧なリリースポイントから投げる。
次に耳に聞こえたのはパンッというはじける音だった。
マウントも応援歌も消え、ここが裁判所だとすぐに我に返った。
目の前では襲い掛かろうとしていた鬼が固まっている。
そのどて腹には穴が開いていた。
「よし! やはり見立ての通りだった!」
嬉しそうな声が部屋に響いている。
そしてもやが完全に消え去り、ぼかんと口を開けた老人が立ちすくんでいた。
「うまく払えたね、お姉さん。120kmは出てたんじゃない?」
そういうと少年はいたずらっぽく笑い、姿を消した。
「──え、なに、どういうこと、なにこれ、なんなの」
投げたはずのポールもなくなっている。
老人は弁護士と一緒にもう歩き出していたし、土御門はなぜか踊っている。
まどかにどっと疲労がのしかかり、気づけば意識が飛んでいた。
* * *
目が覚めてから見えた光景は知らない天井だった。
ベタな展開だ、と呆れつつ上半身を起こす。
土御門法律事務所に帰ってきており、少年がこちらを覗き込んでいた。
「ヒッ、おばけ!」とのけぞれば、少年が頬を膨らませた。
「お化けじゃないよ。あそこの眼鏡の助手やってるの」
指がさされた方を見ると、土御門がご機嫌にケーキを切り分けていた。
「さっき見たの、夢だったのかな。まさか人に向かって本気で投げるなんて」
まどかの問いに少年は首を横に振った。
「夢じゃないよ」と小さく言って彼は自分の頭を叩いた。
その瞬間、ぽんと狐の耳が彼から生えた。ついでに尻尾も。
「それにボクも人間じゃないんだよね。狐だよ、こんこん」
呆然とするまどかを見かね、土御門が切り分けたケーキが乗った皿を机に置く。
「花袋さんのおかげで仕事がうまくいきました。こちらはお礼です」
「あの、せ、先生は弁護士で、ここは法律事務所ですよね」
「そうですよ。紹介が遅れました、こちらの子狐はこんたと言います。昨日に続き驚かせて申し訳ない」
「モラハラの旦那との離婚の話を進めていたんですよね」
「えぇ。無事、正式に離婚が決まりました」
「それでなんであんな黒いもやもやが部屋から出てきて私がストレートして消えてなにがどう!!」
「一から説明するので落ち着いてください。まず、私は弁護士の傍らもう一つの仕事をしています。そっちは代々引き継いでいる家業でして、陰陽師という言葉を聞いたことは?」
陰陽師、と口の中で繰り返す。
アニメや漫画に出てきているのを見たことはあった。
「占いを行ったり、病魔や妖魔を払ったりするあの陰陽師です。土御門家は安倍晴明の子孫でして、いまでも呪術を使います」
「あ、あべの」
「あなたは昨日こんたたちのようなものが住まう異界に偶然迷い込んだんですよ。今朝神社がなかったのはそのせいです」
ぽかんと開いた口がまったくふさがらなくなった。
神社の件も。お化けと疑われていたときの行動も。
鬼の件も実際に体験してしまった以上「まさか」と否定ができない。
「つ、つまり、私を雇おうと思った理由って……」
ごく、と唾を飲み込む。
土御門はククク、と笑って口角をあげた。
「あなたには怨念を払う力があるのです。昨晩にあなたが投球をしたとき邪が払われていまして、これはもう捕まえ、いえスカウトしておかないとと思いまして! 正直一人二役もやるのは負担が大きかったので分業したかったんですよね。本当に助かります」
いろんな感情が言葉にならず固まるまどかの肩を土御門が叩く。
「怨念は人の心の隙に入り込み、悪さをするもの。私は弁護士としてそういうものたちの心を揺さぶり、あなたは払う。これでもっと仕事をガンガン回せますねぇ! ……あの旦那さんも怨念に取りつかれたのです。それゆえに本来なら起こさなかった衝動に駆られてしまった」
「ならあの人が奥さんにひどいことをしたのは怨念のせいってこと!? だったら元通りに、」
「増幅させるだけです。欲望や葛藤、嫉妬、悪意のある考え方。だれしもが持つ自分ですら気づけないほど小さなものを表に出させてしまう。かわいそうですが、あれもまた本心だったのでしょう」
妻の悲しみがこもった顔を思い出した。
突然信じていた人の態度が豹変するのは残酷だ。
しかも自分の意思ではなく、なにかしらの邪魔が入ったからだなんてやりきれない。
そのことをまどかが悔やんでももはや仕方がない。
目の前にあったケーキを勢いよく頬張った。
それにしても、まさか自分にお祓いの才能があったとは知りもしなかった。
もちろん半信半疑だ。なにか騙されていてこのあとひどいめにあうかもしれない。
(と、思いたいけどやっぱり自分で見た以上嘘だと思えないんだよなぁ。そんな理由で拾ってもらえたなんてばかばかしい話がある?)
いままで野球を頑張ってきて、根性だけが取り柄だった。
進路はうまくいかなかった。
だから華やかな舞台から降りて普通の人間として生きていこうと決めた。
けれどそれすらままならなかった。
下手な正義感でヘタをこいて、無職だ。
(ばかばかしいけど、この人は私を必要としてくれてるんだよね……)
だったら、もう一度根性を入れ直して頑張ってみるのもいいかもしれない。
(いや、私にはたぶんもうこれしかないはずだ。正直意味わかんないけど、私のボールで人を救えるっていうなら面白いじゃん)
両頬を叩いて拳を握る。
「私が頑張ったら特別手当とか出ますか。危険なこともありますよね、襲われかけたし。──仕事はやります。私のやってきた野球が役に立つなら、頑張ります」
「よろしい」と土御門もケーキを食べ終わり、新しい契約書を差し出してきた。
「これからよろしくお願いしますね、花袋さん。甲子園のときからあなたには特別なものを感じていたんです」
「はい!?」
「いやぁ、実は私、野球がそこそこ好きでして。女子で140kmを投げる子がいると話題でしたよね」
にこ、と人のよさそうな笑顔を作った土御門とうなずくこんたというケモ耳少年。
そして花袋まどか、二十五歳。
球速140kmを出したこともある女子甲子園きってのスター選手、だった。
プロにはなれなかったいまでも行方を気にするファンがいるほどだ。
まさかこの男もその一人だったとは、と背中に悪寒が走った。




