Noise —ノイズ—
その夜、蓮見レンは最上階の自室で、琥珀色の液体が揺れるグラスを眺めていた。
窓の外には、数日前に列島を襲った未曾有の大水害の爪痕が、夜の闇に紛れて広がっている。
レンは現代の音楽シーンを牽引するフロントマンだ。
彼の紡ぐ言葉は「予言」と崇められ、そのファッションは翌日にはストリートの制服になる。
フォロワー数は一千万を超え、彼の一挙手一投足が社会の熱量を左右していた。
しかしその夜の彼は、少しばかり酔っていた。
あるいは、あまりに純粋すぎたのかもしれない。
画面の向こう側では、被災地の惨状を横目に贅沢な食事をアップロードする者、無意味な論争に明け暮れる者たちが溢れていた。
レンの指が、スマートフォンの画面を叩く。
「これほどの災害が起きているのに、一円も寄付しない連中の神経が理解できない。想像力の欠如は、魂の死と同じだ。」
投稿ボタンを押した瞬間、それが巨大な爆弾となってネットの海に投下されたことを、彼はまだ知らなかった。
翌朝、レンを叩き起こしたのはマネージャーの悲鳴に近い電話だった。
「レン! すぐにSNSを消して! いや、もう遅いか……」
スマートフォンの通知欄は、これまでのキャリアで見たこともない速度で更新されていた。
称賛ではない。そこにあるのは、剥き出しの「悪意」だった。
「何様のつもり? お前はいくら出したんだよ」
「金持ちの説教ほど反吐が出るものはないな」
「寄付を強要するなら、まず自分の口座残高を公開しろよ」
「偽善者。音楽だけやってろ」
炎上は瞬く間に拡大した。
ニュースサイトは「カリスマ、寄付未実施のファンを糾弾」と煽り、コメンテーターたちは「公衆への配慮を欠いた発言」と断罪した。
レンは自嘲気味に笑った。
実は彼は、投稿の数時間前、既に一億円という大金を、匿名の個人として複数の自治体に振り込んでいた。
名前を出せば「売名」と言われ、出さなければ「無関心」と言われる。
彼はただ、純粋に「助け合うべきだ」という正論を、最も尖った形で口にしたに過ぎなかった。
だが世間は彼に「傲慢な金持ち」という役を求めていた。
「レン、今すぐ『一億円寄付しました』と公表しよう。そうすれば火は消える」
事務所に駆け込んできたマネージャーの提案を、レンは首を振って拒絶した。
「それをやったら、俺の負けだ。善行は証明した瞬間に、ただの取引に成り下がる」
炎上は一週間経っても収まらなかった。
それどころか、過去の派手な生活や高価な楽器のコレクションまでもが「被災者の感情を逆なでする」と叩かれた。
スポンサーは次々と離れ、予定されていたアリーナツアーの中止が検討され始めた。
SNSのコメント欄は、かつての信者たちによる呪詛の言葉で埋め尽くされている。
「レン、もう限界だ」
事務所の社長が、冷徹な声で告げた。
「君が匿名で寄付した領収書をこちらで預かっている。これを公開する。君のプライドよりも、会社とスタッフの生活を守るのが私の仕事だ」
「待ってください。それをやれば、俺の言葉は死ぬ」
「言葉はもう死んでいるんだよ。今の君は、ただの『他人を攻撃した金持ち』だ」
レンは事務所を飛び出した。
向かったのは、被害の最も大きかった地方の避難所だった。
変装し、キャップを深く被り、彼はボランティアとして泥を掻き出した。
誰にも気づかれず、ただの「一人の人間」として、重いスコップを振るった。
避難所の片隅で、一人の少年が泥にまみれたギターを抱えて泣いていた。
レンが声をかけると、少年は言った。
「これは父さんの形見なんだ。もう鳴らない」
レンは無言でギターを受け取った。
弦を張り替え、ボディの泥を拭い、ひどく狂ったチューニングを合わせる。
そして、静かに爪弾いた。
それは、彼が世界中でヒットさせた曲ではなかった。
ただ、その場に流れる空気を、湿った土の匂いを、そして少年の涙を肯定するための、名もなき旋律だった。
「……お兄ちゃん、音楽の人?」
「いや。ただの、通りすがりの偽善者だよ」
その様子を、避難所にいた誰かがスマートフォンで撮影していた。
音質も画質も最悪の、たった三十秒の動画。
その動画がSNSに投稿されると、空気は一変した。
「蓮見レンが被災地で泥まみれになっている」
「あのギター、あの子のお父さんの……」
拡散のスピードは、炎上の時よりも速かった。
そして時を同じくして、ある地方自治体の公式アカウントが「寄付者への感謝」として、誤って(あるいは意図的に)匿名寄付者の内訳を一部公開した。
そこには、レンの本名と、桁外れの金額が記されていた。
ネット上の熱狂は、今度は「懺悔」へと変わった。
「俺たちは何を叩いていたんだ」
「レンは本物だった」
「疑ってごめん」
しかしレンは、それらのコメントを一切見なかった。
彼は自宅に戻り、静かに新しい曲を書いていた。
タイトルは『Noise』。
一ヶ月後。
レンは音楽番組の生放送に出演した。
司会者は熱烈な称賛とともに、彼の「隠れた善行」を掘り起こそうとした。
「一億円の寄付、そして現地での活動。なぜ黙っていたのですか? 叩かれている間、辛くはなかったですか?」
カメラがレンの顔をアップで捉える。
彼は少しだけ皮肉な笑みを浮かべ、マイクを引き寄せた。
「勘違いしないでほしい。俺は、君たちが満足するために寄付をしたわけじゃない。俺がそうしたかったから、そうしただけだ」
スタジオが静まり返る。
「寄付をしたから偉いんじゃない。寄付をしないから悪じゃない。ただ、誰かが困っている時に、自分の持っているものを少しだけ分ける。それは本来、SNSで騒ぐようなことじゃない。――静かに行われるべきことだ」
彼はギターを手に取った。
「この曲は、俺を叩いた奴らと、俺を聖者扱いする奴らに捧げる。うるさすぎるんだよ、お前たちのノイズは」
かき鳴らされた不協和音。
それは、偽善と本音、称賛と罵倒が入り混じる現代社会に対する、最高にクールで残酷なレクイエムだった。
視聴者数は過去最高を記録し、SNSは再び爆発した。
しかしレンは、二度と投稿をしなかった。
彼のスマートフォンは、あの日、被災地の泥の中に置いてきたからだ。




