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Noise —ノイズ—

作者: jin kawasaki
掲載日:2026/06/05

その夜、蓮見レンは最上階の自室で、琥珀色の液体が揺れるグラスを眺めていた。

窓の外には、数日前に列島を襲った未曾有の大水害の爪痕が、夜の闇に紛れて広がっている。

レンは現代の音楽シーンを牽引するフロントマンだ。

彼の紡ぐ言葉は「予言」と崇められ、そのファッションは翌日にはストリートの制服になる。

フォロワー数は一千万を超え、彼の一挙手一投足が社会の熱量を左右していた。

しかしその夜の彼は、少しばかり酔っていた。

あるいは、あまりに純粋すぎたのかもしれない。

画面の向こう側では、被災地の惨状を横目に贅沢な食事をアップロードする者、無意味な論争に明け暮れる者たちが溢れていた。

レンの指が、スマートフォンの画面を叩く。

「これほどの災害が起きているのに、一円も寄付しない連中の神経が理解できない。想像力の欠如は、魂の死と同じだ。」

投稿ボタンを押した瞬間、それが巨大な爆弾となってネットの海に投下されたことを、彼はまだ知らなかった。

翌朝、レンを叩き起こしたのはマネージャーの悲鳴に近い電話だった。

「レン! すぐにSNSを消して! いや、もう遅いか……」

スマートフォンの通知欄は、これまでのキャリアで見たこともない速度で更新されていた。

称賛ではない。そこにあるのは、剥き出しの「悪意」だった。

「何様のつもり? お前はいくら出したんだよ」

「金持ちの説教ほど反吐が出るものはないな」

「寄付を強要するなら、まず自分の口座残高を公開しろよ」

「偽善者。音楽だけやってろ」

炎上は瞬く間に拡大した。

ニュースサイトは「カリスマ、寄付未実施のファンを糾弾」と煽り、コメンテーターたちは「公衆への配慮を欠いた発言」と断罪した。

レンは自嘲気味に笑った。

実は彼は、投稿の数時間前、既に一億円という大金を、匿名の個人として複数の自治体に振り込んでいた。

名前を出せば「売名」と言われ、出さなければ「無関心」と言われる。

彼はただ、純粋に「助け合うべきだ」という正論を、最も尖った形で口にしたに過ぎなかった。

だが世間は彼に「傲慢な金持ち」という役を求めていた。

「レン、今すぐ『一億円寄付しました』と公表しよう。そうすれば火は消える」

事務所に駆け込んできたマネージャーの提案を、レンは首を振って拒絶した。

「それをやったら、俺の負けだ。善行は証明した瞬間に、ただの取引に成り下がる」

炎上は一週間経っても収まらなかった。

それどころか、過去の派手な生活や高価な楽器のコレクションまでもが「被災者の感情を逆なでする」と叩かれた。

スポンサーは次々と離れ、予定されていたアリーナツアーの中止が検討され始めた。

SNSのコメント欄は、かつての信者たちによる呪詛の言葉で埋め尽くされている。

「レン、もう限界だ」

事務所の社長が、冷徹な声で告げた。

「君が匿名で寄付した領収書をこちらで預かっている。これを公開する。君のプライドよりも、会社とスタッフの生活を守るのが私の仕事だ」

「待ってください。それをやれば、俺の言葉は死ぬ」

「言葉はもう死んでいるんだよ。今の君は、ただの『他人を攻撃した金持ち』だ」

レンは事務所を飛び出した。

向かったのは、被害の最も大きかった地方の避難所だった。

変装し、キャップを深く被り、彼はボランティアとして泥を掻き出した。

誰にも気づかれず、ただの「一人の人間」として、重いスコップを振るった。

避難所の片隅で、一人の少年が泥にまみれたギターを抱えて泣いていた。

レンが声をかけると、少年は言った。

「これは父さんの形見なんだ。もう鳴らない」

レンは無言でギターを受け取った。

弦を張り替え、ボディの泥を拭い、ひどく狂ったチューニングを合わせる。

そして、静かに爪弾いた。

それは、彼が世界中でヒットさせた曲ではなかった。

ただ、その場に流れる空気を、湿った土の匂いを、そして少年の涙を肯定するための、名もなき旋律だった。

「……お兄ちゃん、音楽の人?」

「いや。ただの、通りすがりの偽善者だよ」

その様子を、避難所にいた誰かがスマートフォンで撮影していた。

音質も画質も最悪の、たった三十秒の動画。

その動画がSNSに投稿されると、空気は一変した。

「蓮見レンが被災地で泥まみれになっている」

「あのギター、あの子のお父さんの……」

拡散のスピードは、炎上の時よりも速かった。

そして時を同じくして、ある地方自治体の公式アカウントが「寄付者への感謝」として、誤って(あるいは意図的に)匿名寄付者の内訳を一部公開した。

そこには、レンの本名と、桁外れの金額が記されていた。

ネット上の熱狂は、今度は「懺悔」へと変わった。

「俺たちは何を叩いていたんだ」

「レンは本物だった」

「疑ってごめん」

しかしレンは、それらのコメントを一切見なかった。

彼は自宅に戻り、静かに新しい曲を書いていた。

タイトルは『Noiseノイズ』。

一ヶ月後。

レンは音楽番組の生放送に出演した。

司会者は熱烈な称賛とともに、彼の「隠れた善行」を掘り起こそうとした。

「一億円の寄付、そして現地での活動。なぜ黙っていたのですか? 叩かれている間、辛くはなかったですか?」

カメラがレンの顔をアップで捉える。

彼は少しだけ皮肉な笑みを浮かべ、マイクを引き寄せた。

「勘違いしないでほしい。俺は、君たちが満足するために寄付をしたわけじゃない。俺がそうしたかったから、そうしただけだ」

スタジオが静まり返る。

「寄付をしたから偉いんじゃない。寄付をしないから悪じゃない。ただ、誰かが困っている時に、自分の持っているものを少しだけ分ける。それは本来、SNSで騒ぐようなことじゃない。――静かに行われるべきことだ」

彼はギターを手に取った。

「この曲は、俺を叩いた奴らと、俺を聖者扱いする奴らに捧げる。うるさすぎるんだよ、お前たちのノイズは」

かき鳴らされた不協和音。

それは、偽善と本音、称賛と罵倒が入り混じる現代社会に対する、最高にクールで残酷なレクイエムだった。

視聴者数は過去最高を記録し、SNSは再び爆発した。

しかしレンは、二度と投稿をしなかった。

彼のスマートフォンは、あの日、被災地の泥の中に置いてきたからだ。

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