大佐と皇子の密かな恋路
「悪役令嬢は触手の化け物になりたくないので、ヒロインと逃げることにしました」の続編です。
雨が三日目に入っていた。
ハルメアス・フォン・アルデンハイムは塹壕の木板に腰を下ろし、制服の袖口を機械的に拭っていた。二十二歳。帝国第二王子。東部戦線最前線の刻印者。どの肩書きも、今この瞬間には何の意味も持たない。意味を持つのは、雨と泥と、遠くから続く砲声だけだ。
副官のフリードリヒが入り口に立った。
「殿下、フランシア方面から刻印者が一人、配属されるという報せが入りました」
「名前は」
「アントワーヌ・デュポンと申すそうです。印レベル2。フランシアの内戦で名を上げた方だとか」
ハルメアスは手を止めた。レベル2。兄ジュリアノスと同じ位階だ。
「いつ来る」
「明日には」
ハルメアスは頷いた。それだけだった。
翌日の夕方、アントワーヌ・デュポンは泥濘んだ通路を歩いてきた。
三十代半ば。無精髭に、疲れた目。だがその目の奥に、まだ何かが残っている。消えていない何かが。塹壕の兵士たちの目から消えてしまったものが、この男の目にはまだあった。
「アルデンハイム公」
アントワーヌはハルメアスの前で立ち止まり、軽く頭を下げた。兄のように見下ろさない。かといって媚びるように見上げもしない。ただ、対等に目を合わせた。
「デュポン大佐」
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
それだけだった。だがその短いやり取りの中に、ハルメアスは何か奇妙なものを感じた。普通だ、と思った。普通の挨拶。兄以外の刻印者と話したのはいつぶりか、思い出せないほど久しぶりだった。
二人が初めてまともに話したのは、配属から三日後の夜のことだった。
ハルメアスが塹壕の縁に立ち、冷たい雨の中で夜空を見上げていると、隣にアントワーヌが来て、黙って同じように立った。
しばらくの沈黙の後、アントワーヌが口を開いた。
「眠れませんか」
「眠る気になれないだけです」
「それは眠れないということでは」
ハルメアスは少し考えて、「そうかもしれません」と答えた。
アントワーヌは雨の中を見たまま言った。
「私もです。この塹壕に来てから、まともに眠れていない」
「慣れます」
「慣れたくはないですね」
ハルメアスは横を見た。アントワーヌは真顔だった。冗談ではなく、本当にそう思っている顔だ。
「……慣れたくない、とは」
「眠れないのは、まだ感じているということでしょう。感じなくなってしまったら、それはもう別の何かです。人間ではないかもしれない」
ハルメアスは雨に視線を戻した。
「刻印者として、感情を抑えることを訓練されました」
「私もです。だから余計に思うんです。訓練と、感情を殺すことは、違うはずだと」
その言葉は、胸のどこかに刺さった。抜けない棘のように。
「……あなたは、フランシアで何年戦いましたか」
「六年です」
「家族は」
「妻と娘がいます。フランシアに残してきました」
アントワーヌの声が、わずかに変わった。温度が混じった。
「娘はいくつですか」
「今年で七つになります。……なったはずです。誕生日を戦場で過ごしました」
「……そうですか」
「あなたは」アントワーヌが訊いた。「家族は」
ハルメアスは少し間を置いた。
「兄がいます」
「それだけですか」
「……婚約者がいました。今は、いません」
アントワーヌは何も訊かなかった。ただ、「そうですか」と静かに言っただけだった。その静けさが、ハルメアスには心地よかった。
それからも二人はよく話した。
補給の話、作戦の話、印の制御の話。だがやがて、戦争とは関係のない言葉も交わすようになった。
ある夜、将校室で二人が向かい合って座っていた時、アントワーヌが言った。
「印の声は、どの程度まで近づいていますか」
「使った後に、少し聞こえます。遠いですが」
「声の内容は」
「意味が直接流れ込む感じです。言葉ではなく。『選ばれし者』というような」
「私も同じです」アントワーヌは自分の左手を見た。「レベル2になってから、声が変わりました。遠いが、より鮮明になった」
「対処法は」
「封じようとしないことです」
ハルメアスは眉を上げた。
「訓練では逆を教わりました」
「訓練は間違っていません。ただ——封じることと、聞いた上で手放すことは違います。声を完全に遮断しようとすると、逆に印が深くなる気がして」
「どうやって手放すんですか」
「声に反論します。『選ばれし者だ』と言われたら、『俺はただの人間だ』と返す。声に言葉で答えることで、存在するが支配させない、という状態を作る」
ハルメアスは少し考えた。
「……試したことはありません」
「やってみてください。一人でいる時に」アントワーヌは微かに笑った。「独り言を言っている変な刻印者だと思われるかもしれませんが」
「あなたもやっているんですか」
「毎晩」
ハルメアスは思わず笑いかけて、止めた。笑うことを、いつの間にか忘れていた。
「……笑っていいんですよ」
アントワーヌが穏やかに言った。
「別に変なことは言っていない」
「いえ、変です」
「そうですか」
「でも」ハルメアスは続けた。「悪くない」
戦闘は八日後に来た。
敵の精神を無効化する。百名。味方の損失はゼロ。数字だけ見れば完璧な戦果だが、ハルメアスは帰還した後、将校室で一人座ったまま動けなかった。
扉が開いた。
「殿下」
アントワーヌだった。
「……大佐」
「顔色が悪い」
「問題ありません」
「印の声が来ていますか」
ハルメアスは答えなかった。それが答えだった。
アントワーヌは向かいに座った。
「戦闘後は特に来やすい。大規模に使った後は」
「……使うたびに、近くなる気がします」
「そうです。だから使った後こそ、対話が必要です」
「今夜は……声が、戦闘中に死んだ者たちと混じる気がして」
アントワーヌは静かに聞いていた。
「百人の精神を、俺が壊した」
「彼らは無効化されたが、死んでいません」
「分かっています。でも……」
「でも、」
「人間を道具のように使った、という感覚が消えない」
アントワーヌは少し間を置いてから言った。
「その感覚を持ち続けてください」
「は?」
「消えてしまった方が恐ろしい」アントワーヌは真剣な目でハルメアスを見た。「あなたが今感じているものは、正しい感覚です。それが残っている限り、あなたはまだ人間です」
ハルメアスは黙った。
「俺はそれが恐ろしいんです」ハルメアスはゆっくり言った。「人間でなくなることが」
「知っています」
「あなたは怖くないですか」
「怖いですよ」アントワーヌは即座に答えた。「毎日怖い。妻の顔が少しずつぼやける。娘の声を思い出せない日が増えた。それが印の進行なのか、戦場で感情を使い続けた代償なのか、分からない。ただ、薄れていく」
「……そうですか」
「怖くない人間なんていません。ただ、怖いまま動くしかない」
しばらく二人は黙っていた。ランプの炎が揺れ、影が壁に伸びる。
「大佐」
「なんですか」
「……なぜ、こういう話を俺にするんですか」
アントワーヌは少し考えてから答えた。
「あなたが一人だからです」
「みんな一人です。この塹壕では」
「違います」アントワーヌは首を振った。「フリードリヒには仲間がいる。カルナーにも。でもあなたは——皇子で、刻印者で、ジュリアノス殿下の弟で。重なりすぎている。誰も近づけない」
ハルメアスは何も言えなかった。
「私は刻印者です。あなたの事情の全部は分からなくても、印の声のことは分かる。だから話しかけた。それだけです」
「それだけですか」
「……最初は」
アントワーヌの声が少し変わった。
「今は、それだけではないかもしれません」
ハルメアスはアントワーヌを見た。アントワーヌは目を逸らさなかった。
「……どういう意味ですか」
「あなたのことが、気になっています」アントワーヌは静かに言った。「刻印者として、ではなく」
沈黙が落ちた。長い沈黙だった。
「俺は……」ハルメアスは言葉を探した。「そういうことに、慣れていません」
「私もです」
「あなたには妻がいる」
「います」アントワーヌは頷いた。「それは変わらない。でも——今ここにいる自分の感情を、なかったことにするのも違う気がして」
「……正直な人ですね」
「嘘をつくのが苦手なんです」
ハルメアスは少しの間、ランプの炎を見た。
「俺も……あなたのことが気になっていました」
「そうですか」
「初めて会った日から。普通に話しかけてきた。それだけのことなのに、妙に記憶に残った」
「普通に話しかけるのが、そんなに珍しかったですか」
「俺に対しては、大抵の人間が何かを含んで話します。兄の弟として、刻印者として、皇子として。あなたは違った」
「ただの刻印者同士として話しました」
「それが……よかった」
アントワーヌは微かに笑った。
「私はただ、目の前の人間と話しただけです」
「それが、ここでは珍しいことなんです」
夜が深くなった頃、ハルメアスは初めてマリーのことを話した。
なぜその夜だったのか、自分でも分からなかった。ただ、アントワーヌが向かいにいて、ランプが揺れていて、雨の音がしていた。それだけのことが、何かを解かせた。
「さっき、婚約者がいたと言いました」
「ええ」
「三年間、ほとんど話しませんでした」
「……それは、なぜ」
「兄がいたからです」
アントワーヌは黙って聞いた。
「上位の刻印者は下位を支配できる。兄はレベル2で、俺はレベル1だった。呼ばれれば行かなければならない。そしてジュリアノスは——俺が誰かと親しくなることを、極端に嫌った」
「彼女に近づくたびに、呼び出された」
「そうです」
「……それで、距離を置いた」
「俺が近づくほど、彼女が標的になる。だから近づかなかった。それだけのことです。それだけのことなのに——三年間、ずっとそれを繰り返した」
アントワーヌは少し間を置いた。
「彼女は、なぜあなたが避けているか知っていましたか」
「卒業パーティーの夜に、婚約破棄を告げました。その時に——彼女は、知っていると言いました。印の構造上、俺が近づけなかった理由を、と」
「そうですか」
「怒らなかった。責めなかった。ただ、十三年間ありがとうと言って、出ていきました」
ハルメアスは手袋の上から、左手を押さえた。
「俺はその時、何も言えなかった」
「何か言いたかったですか」
「……はい」
「何を」
ハルメアスは少しの間黙った。
「避けていたのは、嫌いだったからではない。それだけです。それだけのことが、言えなかった」
アントワーヌはしばらく黙っていた。ランプの炎が一度大きく揺れた。
「あなたは彼女のことが好きだったんですね」
「……分からなかったんです、当時は。好きとか嫌いとか、そういう言葉で考えたことがなかった。ただ——遠くから見ているしかなかった。それが三年間続いた」
「今は、分かりますか」
「今は」ハルメアスはゆっくり言った。「好きだったと思います。今更、ですが」
「今更ではないですよ」
「もういません」
「いなくても、気持ちは本物です」
ハルメアスはアントワーヌを見た。
「……あなたは、なぜそういうことが言えるんですか」
「何がですか」
「傷つけない言葉が、すぐ出てくる」
アントワーヌは少し考えてから言った。
「妻に鍛えられました」
ハルメアスは思わず笑った。今度は止めなかった。
「……笑えましたね」アントワーヌが言った。
「あなたが変なことを言うから」
「変なことは言っていません。本当のことです」
「妻のことが好きなんですね」
「はい」アントワーヌは穏やかに言った。「だからこそ——あなたのことも気になっている自分が、少し不思議です。矛盾しているようで、でも両方本当なんです」
「……複雑ですね」
「そうです。でも嘘はつきたくない」
二人はしばらく黙って、雨の音を聞いていた。
「一つだけ訊いてもいいですか」ハルメアスは言った。
「どうぞ」
「彼女が帝国を出たのは、正しい選択だったと思いますか」
アントワーヌはすぐには答えなかった。
「あなたがいる帝国で、あなたに近づけば彼女が傷つく。あなたも傷つく。それが続く限り、彼女にとって帝国は安全な場所ではなかった」
「そうです」
「なら、正しかったと思います」
「……そうですか」
「あなたが近づけなかったことも、彼女が出ていったことも、どちらも間違っていない。ただ、状況が間違っていた」
ハルメアスは目を閉じた。
その言葉を、ずっと待っていた気がした。誰かに言ってもらうことを。間違っていたのは俺ではなく、状況だったと。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
雨の音が続く。印の声は今夜、遠かった。
転機は、思いがけない形で来た。
深夜、ジュリアノスがまた呼び出しをかけた。印の力が身体を動かす。拒絶できない。ハルメアスは通路を歩いた。
途中でアントワーヌとすれ違った。
アントワーヌはハルメアスの顔を見て、すぐに何かを察した。
「どこへ」
「……兄のところへ」
「呼ばれましたか」
「ええ」
アントワーヌはハルメアスの腕を掴んだ。強くではなく、ただ確かめるように。
「終わったら、来てください」
「……部屋にですか」
「はい。待っています」
ハルメアスは何も言えなかった。ただ頷いた。
兄の部屋での呼び出しは、いつも通りだった。言葉で削り、支配を確認し、ハルメアスが自分のものであることを繰り返し刻もうとする。兄の「愛情」の形は、いつもそれだった。
「俺から離れるな」
「……離れることはできません。呼ばれれば来る」
「それでいい」
だが今夜、ハルメアスの中で何かが変わっていた。
兄の言葉を聞きながら、アントワーヌの顔が頭の中にあった。待っている、と言った声が。それだけで、胸の奥に、消えない何かが灯っていた。
戻ると、アントワーヌは本当に待っていた。
「大丈夫ですか」
「……慣れています」
「慣れていることと、大丈夫なことは違います」
ハルメアスは椅子に座った。アントワーヌは向かいではなく、隣に座った。それだけのことが、今夜は違って感じた。
「兄は……俺を愛しているんだと思います」ハルメアスはゆっくり言った。「あの人なりの形で」
「そうかもしれません」
「でも俺には——それが愛なのか支配なのか、ずっと分からなかった。愛と支配の違いが、俺には分からなかった」
「今は、分かりますか」
ハルメアスは少し考えた。
「あなたと話していると、少し分かる気がします」
「どういうところで」
「あなたは、俺に何かを要求しない。ただここにいる。それが……」
言葉を探した。
「怖くない」
アントワーヌは黙って聞いていた。
「兄のそばにいると、いつも次に何が来るか考えていた。どう答えれば傷つかないか。どう振る舞えば呼び出されないか。でもあなたのそばでは、そういうことを考えなくていい」
「……そうですか」
「それが、愛と支配の違いかもしれないと、最近思っています」
アントワーヌは静かに言った。
「安心できる人のそばに、いてください」
「あなたのそばが、今一番安心できます」
アントワーヌはしばらく黙っていた。それからハルメアスの手に、自分の手を重ねた。
「私も」
それだけだった。だがその二文字が、今夜のすべてだった。
ハルメアスがジュリアノスに反撃したのは、その十日後だった。
呼び出しに応じながら、ハルメアスは初めて、印の力を意志的に逆方向に放った。兄の印に干渉する。訓練で禁じられていた行為。
ジュリアノスの動きが止まった。青黒い光が噴き出し、兄は倒れた。
ハルメアスは通路を走った。アントワーヌの部屋に向かった。
「兄を……攻撃した」
扉を開けて、それだけ言った。
アントワーヌは立ち上がり、ハルメアスの顔を見た。それから部屋の中に引き入れ、扉を閉めた。
「印の反動は」
「来ています。声が近い」
「座ってください」
ハルメアスは座った。アントワーヌが向かいに座り、ハルメアスの両手を自分の手で包んだ。
「声に反論してください。今すぐ。声の言葉を言ってみて」
「……『選ばれし器』と言っています」
「それに答えてください」
「……俺は、ただの人間だ」
「もう一度」
「俺は、ただの人間だ」
「もう一度」
「俺は——ただの人間だ」
声が、少し遠のいた。
「……遠くなりました」
「そうです」アントワーヌはハルメアスの手をまだ離さなかった。「印の反動は、一人で受けると深くなる。誰かが繋いでいると、拡散する」
「本当ですか」
「確かめたわけではありません。でも私は、そう信じています」
ハルメアスはアントワーヌの顔を見た。
「なぜ信じているんですか」
「フランシアで、一度だけ、戦闘後に印の声が激しくなった夜がありました。その夜、隊の衛生兵が手を握ってくれた。何も言わずに。声が静かになった。だからかもしれません」
「……その衛生兵は今」
「死にました。その翌月に」
短い沈黙が落ちた。
「ごめんなさい」
「謝らないでください。戦場ではよくあることです」アントワーヌは静かに言った。「でも——よくあることだからといって、悲しくないわけではない」
「……そうですね」
「ハルメアス」
アントワーヌが、初めて名前だけで呼んだ。
「脱走しましょう」
ハルメアスは目を見開いた。
「兄が回復したら、あなたは殺されます。反撃した代償として」
「……分かっています」
「一人で逃げますか」
「……あなたを巻き込む気はありません」
「巻き込まれたいんです」アントワーヌはハルメアスの手を強く握った。「あなたを一人で行かせたくない」
「でも——」
「処刑される覚悟はできています。それよりも」
アントワーヌはハルメアスを真っ直ぐに見た。
「あなたが一人で、印の声と戦いながら逃げていく姿を、想像したくない」
「……なぜそこまで」
「好きだからです」
静かな声だった。誤魔化しのない声だった。
「妻のことも好きです。両方本当のことです。でも今ここで——あなたを一人にしたくないという気持ちが、私の中で一番大きい」
ハルメアスは長い間、アントワーヌを見ていた。
「……俺も」
「ええ」
「俺も、あなたに一緒にいてほしい」
「なら、一緒に行きましょう」
その夜、二人は塹壕を出た。
フリードリヒが巡回の途中で、二人の背中を見た。青白い印の光が雨の中に滲んで消えた。フリードリヒは止めなかった。報告もしなかった。ただ、その背中を見送った。
「殿下……」
雨の音が、言葉を飲み込んだ。
廃村の教会の隅に隠れた夜、二人は壁に並んで座っていた。
「追跡が来ます」アントワーヌが言った。「三日後には」
「兄が来る」
「そうです」
沈黙が落ちた。雨が屋根を叩く。
「怖いですか」ハルメアスが訊いた。
「怖いですよ」アントワーヌは答えた。「でも——ここに来て正しかったと思っています」
「なぜ」
「あなたの顔が、塹壕にいた時と違う」
「どう違いますか」
「塹壕では、常に何かを計算している顔でした。次に何が来るか、どう振る舞うか。今は違う」
「……そうですか」
「今夜のあなたは、ただここにいます」
ハルメアスは自分の手を見た。印の線が微かに脈打つ。だが声は遠い。
「あなたのそばにいると、声が遠くなります」
「私もです」
「印同士が、打ち消し合うんでしょうか」
「分かりません」アントワーヌは微かに笑った。「でも悪くない」
「……俺が言った言葉だ」
「気に入ったので借りました」
ハルメアスは少し笑った。それからアントワーヌの方を向いた。
「一つ、訊いてもいいですか」
「どうぞ」
「妻のことを、愛していますか」
アントワーヌはすぐに答えた。
「はい」
「なのに、俺のことも」
「はい」
「……矛盾していると思いますか、自分で」
「思います」アントワーヌは静かに言った。「でも——矛盾していることと、嘘をついていることは違います。どちらも本当なんです。それが答えです」
「……俺には、よく分からないですが」
「分からなくていいと思います。ただ——今夜、あなたがここにいてくれることが、私には大切です。それだけは本当のことです」
ハルメアスはしばらく黙っていた。
「俺も」ハルメアスはゆっくり言った。「あなたがここにいてくれることが、大切です」
二人は並んで、雨の音を聞いていた。
その夜、アントワーヌがハルメアスの肩に手を置いた。ハルメアスはそれを払わなかった。払う理由がなかった。ただそのまま、壁に背を預けて、雨が止むまで二人で座っていた。
追跡部隊が来たのは翌日だった。
広場にジュリアノスの声が響く。「ハルメアス!出てこい!」
教会の裏口から逃げた。森の中を走った。だが追跡部隊の若い刻印者、ルーカスが前方に現れた。
ルーカスはアントワーヌに印の力を向けた。アントワーヌの身体が硬直する。
「やめろ!」
ハルメアスは印の力でそれを相殺した。アントワーヌは解放されたが、身体が揺れた。
ジュリアノスが追いついた。
「戻ってこい」
「嫌だ」
「お前は俺のものだ」
「違う」ハルメアスは静かに言った。「もう、誰のものでもない」
兄の目の色が変わった。だが傷が完全に治っていない。全力を出せないと悟り、ジュリアノスは撤退した。
「次に会った時は、決着をつける」
霧の中に消えていく兄の背中を、ハルメアスは見ていた。
アントワーヌが隣に来た。
「大丈夫ですか」
「……なんとか」
「声は」
「来ています。少し」
「反論してください。今すぐ」
「俺は、ただの人間だ」ハルメアスは言った。「ここにいる。逃げている。それだけだ」
「そうです」アントワーヌは頷いた。「それだけです」
二人は森の奥へ向かった。
五日後、アントワーヌの手が冷たくなり始めた。
廃屋の朝、ハルメアスがアントワーヌの左手に触れて、気づいた。人間の体温ではない。
「あなたの手が」
「分かっています」アントワーヌは静かに言った。「印レベル3への移行が始まっています。前回の戦闘で受けた傷が、治癒しようとして逆に印を深くしました」
「俺のせいだ」
「違います」
「俺と一緒にいるから——」
「私が選んだことです」アントワーヌは遮った。「何度でも同じことを言います。私が選んだことです」
ハルメアスはアントワーヌの冷たい手を、両手で包んだ。
「妻の記憶は」
「……完全に消えました」アントワーヌの声が揺れた。「顔が思い出せない。声も。娘の笑顔も」
「……」
「代わりに、戦場の記憶だけが残っています。死んだ人たちの顔が、消えない」
アントワーヌは自分の左手を見た。青黒い色が、指先から手首まで広がっている。
「一つ、お願いがあります」
「何ですか」
「レベル3に完全に達する前に——人間でいられるうちに、終わらせてください」
ハルメアスは息を呑んだ。
「……できません」
「ハルメアス」
「できません」
「レベル3になれば、私はもう人間の形を保てない。あなたを傷つけるかもしれない。あなたに傷つけられたくない」
「だから俺に頼むんですか」
「あなたにしか頼めません」アントワーヌはハルメアスを見た。「信頼しているから、頼んでいます。信頼できない人には、こんなことを頼めません」
ハルメアスは震える手でアントワーヌを抱きしめた。
「……消えないでください」
「できる限り、そばにいます」
「できる限りでは嫌だ」
「……ごめんなさい」
二人はしばらく、そのまま黙っていた。
「あなたのことが、好きです」ハルメアスは言った。「誰かにそう言ったのは、初めてです」
「私も」アントワーヌはハルメアスの背に手を回した。「あなたのことが、好きです。この塹壕で出会えて、よかった」
「よくない状況ですが」
「そうですね」アントワーヌは微かに笑った。「でも——あなたと話せて、よかった。あなたの笑顔を見られて、よかった。それは本当のことです」
「……俺も」
「眠れない夜に隣に立っていてくれて、よかった。婚約者の話を聞いてくれて、よかった。声が遠くなる感覚を、一緒に感じてくれて、よかった」
「……全部覚えているんですか」
「全部です」
ハルメアスは目を閉じた。
「俺も全部覚えています」
「なら、それで十分です」
翌朝、アントワーヌの左腕から細い触手が一本、皮膚を突き破った。
「今です」
アントワーヌの声は穏やかだった。
「ハルメアス。頼みます」
ハルメアスは震える手で短剣を取った。
「愛しています」
この言葉を、生きている間に言えてよかったと思った。
「私も」アントワーヌは微かに笑った。「愛しています。あなたと過ごせた時間が、私の宝物です」
刃を押し込む瞬間、アントワーヌの顔に苦痛はなかった。あったのは、安堵だった。
アントワーヌの身体から力が抜けていく。その瞬間、印が激しく光り、ハルメアスの印に流れ込んだ。左腕に青黒い斑点が浮かんだ。レベル3の兆候。
「あなたこそ選ばれし器——」
「黙れ」
ハルメアスは言った。アントワーヌを抱きしめたまま。
「俺はただの人間だ。愛した人がいた。それだけだ」
声が、遠のいた。
ハルメアスは泣いた。一人で、声を出さずに、泥の床に座ったまま。
ジュリアノスとの最後の対峙は、霧の深い廃村の広場だった。
ハルメアスが廃屋から出てきた姿を見て、追跡部隊の全員が息を呑んだ。左腕が触手に変わり、顔の半分が青黒い。だが目だけは人間のままだった。その目の奥に、苦しみがある。
「ハルメアス……」
ジュリアノスが呟いた。兄の右腕にも、青黒い斑点が広がり始めていた。
「もう終わりにしましょう、兄上」
「お前は俺のものだ」
「違います」
二つの印の力がぶつかり合い、ジュリアノスの印が暴走した。皮膚が裂け、青黒い光が噴き出す。身体が変貌していく。
そして触手の塊の中心から、声が聞こえた。
「……ハル……メアス……愛して……いた……」
その声は小さく、儚く、重く響いた。次の瞬間、塊が地面へ崩れ落ちた。
ハルメアスは兄の死体を見つめた。
愛していた。兄にとっての愛は、支配と同じ形をしていた。それでも最後の瞬間、それは本当のことだったかもしれない。
右腕にも触手が生え始めた。時間の問題だ、とハルメアスは思った。
山奥の洞窟で、皇帝が来た。
古い本を差し出した。レベル5。人間の姿を取り戻し、印を制御する側に立つ。
「断ったら」
「ここで死ぬ」皇帝は隠さなかった。
「受け入れたとして、俺は何をすればいいのですか」
「戦争を終わらせる」
ハルメアスは目を閉じた。
アントワーヌの声が聞こえた気がした。
「記憶は過去だけにあるわけではない。これから作ればいい」
アントワーヌはいない。だがその言葉は残っている。
「……受け入れます」
本に触れた瞬間、光が溢れ出した。触手が縮んでいく。人間の色が戻っていく。声が遠くなる。命令を待つ声に変わる。
「これが……レベル5」
「帝国は皇太子を待っている」皇帝は言った。
謁見の間。廷臣たちが頭を下げる。誰も目を合わせようとしない。
「挨拶はいい」
声は低く、感情がない。
戦況の報告が始まった。ハルメアスは聞きながら、胸の奥に手を当てた。空洞がある。アントワーヌがいた場所に、穴がある。
でも。
アントワーヌの声が、遠くで聞こえた気がした。
眠れない夜に、隣に立っていてくれて、よかった
「以上か」
「は、はい」
「下がれ」
廷臣たちが去った。
一人残ったハルメアスは、玉座に座ったまま、窓の外を見た。雨が帝都の石畳を叩いている。遠く、静かな雨だ。
印の声が問う。「命令を」
ハルメアスはすぐには答えなかった。
胸の奥の空洞が、痛む。埋まらない。たぶん、ずっと埋まらない。
でも、それでいいと思った。
埋まらないということは、そこに何かがあったということだ。アントワーヌがいた。声が遠くなる夜があった。雨の中で笑った夜があった。愛していると言えた朝があった。
それは消えない。
「命令を」
印の声が、もう一度問う。
ハルメアスは目を閉じ、開いた。
「戦争を、終わらせる」
それだけ言った。
雨の音が続いていた。
貴重なお時間を使ってお読み頂き、本当に有難うございました。
興味を持って頂けたならば光栄です。
作者のモチベのために☆やいいねを残して頂くと幸いです。感想などもお待ちしております。
ブクマ頂けたら……最高です!




