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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。

大佐と皇子の密かな恋路

作者: らっすん
掲載日:2026/03/12

「悪役令嬢は触手の化け物になりたくないので、ヒロインと逃げることにしました」の続編です。

 雨が三日目に入っていた。

 

 ハルメアス・フォン・アルデンハイムは塹壕の木板に腰を下ろし、制服の袖口を機械的に拭っていた。二十二歳。帝国第二王子。東部戦線最前線の刻印者。どの肩書きも、今この瞬間には何の意味も持たない。意味を持つのは、雨と泥と、遠くから続く砲声だけだ。

 

 副官のフリードリヒが入り口に立った。

 

「殿下、フランシア方面から刻印者が一人、配属されるという報せが入りました」

 

「名前は」

 

「アントワーヌ・デュポンと申すそうです。印レベル2。フランシアの内戦で名を上げた方だとか」

 

 ハルメアスは手を止めた。レベル2。兄ジュリアノスと同じ位階だ。

 

「いつ来る」

 

「明日には」

 

 ハルメアスは頷いた。それだけだった。

 

 翌日の夕方、アントワーヌ・デュポンは泥濘んだ通路を歩いてきた。

 

 三十代半ば。無精髭に、疲れた目。だがその目の奥に、まだ何かが残っている。消えていない何かが。塹壕の兵士たちの目から消えてしまったものが、この男の目にはまだあった。

 

「アルデンハイム公」

 

 アントワーヌはハルメアスの前で立ち止まり、軽く頭を下げた。兄のように見下ろさない。かといって媚びるように見上げもしない。ただ、対等に目を合わせた。

 

「デュポン大佐」

 

「よろしくお願いします」

 

「こちらこそ」

 

 それだけだった。だがその短いやり取りの中に、ハルメアスは何か奇妙なものを感じた。普通だ、と思った。普通の挨拶。兄以外の刻印者と話したのはいつぶりか、思い出せないほど久しぶりだった。

 

 

 二人が初めてまともに話したのは、配属から三日後の夜のことだった。

 

 ハルメアスが塹壕の縁に立ち、冷たい雨の中で夜空を見上げていると、隣にアントワーヌが来て、黙って同じように立った。

 

 しばらくの沈黙の後、アントワーヌが口を開いた。

 

「眠れませんか」

 

「眠る気になれないだけです」

 

「それは眠れないということでは」

 

 ハルメアスは少し考えて、「そうかもしれません」と答えた。

 

 アントワーヌは雨の中を見たまま言った。

 

「私もです。この塹壕に来てから、まともに眠れていない」

 

「慣れます」

 

「慣れたくはないですね」

 

 ハルメアスは横を見た。アントワーヌは真顔だった。冗談ではなく、本当にそう思っている顔だ。

 

「……慣れたくない、とは」

 

「眠れないのは、まだ感じているということでしょう。感じなくなってしまったら、それはもう別の何かです。人間ではないかもしれない」

 

 ハルメアスは雨に視線を戻した。

 

「刻印者として、感情を抑えることを訓練されました」

 

「私もです。だから余計に思うんです。訓練と、感情を殺すことは、違うはずだと」

 

 その言葉は、胸のどこかに刺さった。抜けない棘のように。

 

「……あなたは、フランシアで何年戦いましたか」

 

「六年です」

 

「家族は」

 

「妻と娘がいます。フランシアに残してきました」

 

 アントワーヌの声が、わずかに変わった。温度が混じった。

 

「娘はいくつですか」

 

「今年で七つになります。……なったはずです。誕生日を戦場で過ごしました」

 

「……そうですか」

 

「あなたは」アントワーヌが訊いた。「家族は」

 

 ハルメアスは少し間を置いた。

 

「兄がいます」

 

「それだけですか」

 

「……婚約者がいました。今は、いません」

 

 アントワーヌは何も訊かなかった。ただ、「そうですか」と静かに言っただけだった。その静けさが、ハルメアスには心地よかった。

 

 

 それからも二人はよく話した。

 

 補給の話、作戦の話、印の制御の話。だがやがて、戦争とは関係のない言葉も交わすようになった。

 

 ある夜、将校室で二人が向かい合って座っていた時、アントワーヌが言った。

 

「印の声は、どの程度まで近づいていますか」

 

「使った後に、少し聞こえます。遠いですが」

 

「声の内容は」

 

「意味が直接流れ込む感じです。言葉ではなく。『選ばれし者』というような」

 

「私も同じです」アントワーヌは自分の左手を見た。「レベル2になってから、声が変わりました。遠いが、より鮮明になった」

 

「対処法は」

 

「封じようとしないことです」

 

 ハルメアスは眉を上げた。

 

「訓練では逆を教わりました」

 

「訓練は間違っていません。ただ——封じることと、聞いた上で手放すことは違います。声を完全に遮断しようとすると、逆に印が深くなる気がして」

 

「どうやって手放すんですか」

 

「声に反論します。『選ばれし者だ』と言われたら、『俺はただの人間だ』と返す。声に言葉で答えることで、存在するが支配させない、という状態を作る」

 

 ハルメアスは少し考えた。

 

「……試したことはありません」

 

「やってみてください。一人でいる時に」アントワーヌは微かに笑った。「独り言を言っている変な刻印者だと思われるかもしれませんが」

 

「あなたもやっているんですか」

 

「毎晩」

 

 ハルメアスは思わず笑いかけて、止めた。笑うことを、いつの間にか忘れていた。

 

「……笑っていいんですよ」

 

 アントワーヌが穏やかに言った。

 

「別に変なことは言っていない」

 

「いえ、変です」

 

「そうですか」

 

「でも」ハルメアスは続けた。「悪くない」

 

 

 戦闘は八日後に来た。

 

 敵の精神を無効化する。百名。味方の損失はゼロ。数字だけ見れば完璧な戦果だが、ハルメアスは帰還した後、将校室で一人座ったまま動けなかった。

 

 扉が開いた。

 

「殿下」

 

 アントワーヌだった。

 

「……大佐」

 

「顔色が悪い」

 

「問題ありません」

 

「印の声が来ていますか」

 

 ハルメアスは答えなかった。それが答えだった。

 

 アントワーヌは向かいに座った。

 

「戦闘後は特に来やすい。大規模に使った後は」

 

「……使うたびに、近くなる気がします」

 

「そうです。だから使った後こそ、対話が必要です」

 

「今夜は……声が、戦闘中に死んだ者たちと混じる気がして」

 

 アントワーヌは静かに聞いていた。

 

「百人の精神を、俺が壊した」

 

「彼らは無効化されたが、死んでいません」

 

「分かっています。でも……」

 

「でも、」

 

「人間を道具のように使った、という感覚が消えない」

 

 アントワーヌは少し間を置いてから言った。

 

「その感覚を持ち続けてください」

 

「は?」

 

「消えてしまった方が恐ろしい」アントワーヌは真剣な目でハルメアスを見た。「あなたが今感じているものは、正しい感覚です。それが残っている限り、あなたはまだ人間です」

 

 ハルメアスは黙った。

 

「俺はそれが恐ろしいんです」ハルメアスはゆっくり言った。「人間でなくなることが」

 

「知っています」

 

「あなたは怖くないですか」

 

「怖いですよ」アントワーヌは即座に答えた。「毎日怖い。妻の顔が少しずつぼやける。娘の声を思い出せない日が増えた。それが印の進行なのか、戦場で感情を使い続けた代償なのか、分からない。ただ、薄れていく」

 

「……そうですか」

 

「怖くない人間なんていません。ただ、怖いまま動くしかない」

 

 しばらく二人は黙っていた。ランプの炎が揺れ、影が壁に伸びる。

 

「大佐」

 

「なんですか」

 

「……なぜ、こういう話を俺にするんですか」

 

 アントワーヌは少し考えてから答えた。

 

「あなたが一人だからです」

 

「みんな一人です。この塹壕では」

 

「違います」アントワーヌは首を振った。「フリードリヒには仲間がいる。カルナーにも。でもあなたは——皇子で、刻印者で、ジュリアノス殿下の弟で。重なりすぎている。誰も近づけない」

 

 ハルメアスは何も言えなかった。

 

「私は刻印者です。あなたの事情の全部は分からなくても、印の声のことは分かる。だから話しかけた。それだけです」

 

「それだけですか」

 

「……最初は」

 

 アントワーヌの声が少し変わった。

 

「今は、それだけではないかもしれません」

 

 ハルメアスはアントワーヌを見た。アントワーヌは目を逸らさなかった。

 

「……どういう意味ですか」

 

「あなたのことが、気になっています」アントワーヌは静かに言った。「刻印者として、ではなく」

 

 沈黙が落ちた。長い沈黙だった。

 

「俺は……」ハルメアスは言葉を探した。「そういうことに、慣れていません」

 

「私もです」

 

「あなたには妻がいる」

 

「います」アントワーヌは頷いた。「それは変わらない。でも——今ここにいる自分の感情を、なかったことにするのも違う気がして」

 

「……正直な人ですね」

 

「嘘をつくのが苦手なんです」

 

 ハルメアスは少しの間、ランプの炎を見た。

 

「俺も……あなたのことが気になっていました」

 

「そうですか」

 

「初めて会った日から。普通に話しかけてきた。それだけのことなのに、妙に記憶に残った」

 

「普通に話しかけるのが、そんなに珍しかったですか」

 

「俺に対しては、大抵の人間が何かを含んで話します。兄の弟として、刻印者として、皇子として。あなたは違った」

 

「ただの刻印者同士として話しました」

 

「それが……よかった」

 

 アントワーヌは微かに笑った。

 

「私はただ、目の前の人間と話しただけです」

 

「それが、ここでは珍しいことなんです」

 

 

 夜が深くなった頃、ハルメアスは初めてマリーのことを話した。

 

 なぜその夜だったのか、自分でも分からなかった。ただ、アントワーヌが向かいにいて、ランプが揺れていて、雨の音がしていた。それだけのことが、何かを解かせた。

 

「さっき、婚約者がいたと言いました」

 

「ええ」

 

「三年間、ほとんど話しませんでした」

 

「……それは、なぜ」

 

「兄がいたからです」

 

 アントワーヌは黙って聞いた。

 

「上位の刻印者は下位を支配できる。兄はレベル2で、俺はレベル1だった。呼ばれれば行かなければならない。そしてジュリアノスは——俺が誰かと親しくなることを、極端に嫌った」

 

「彼女に近づくたびに、呼び出された」

 

「そうです」

 

「……それで、距離を置いた」

 

「俺が近づくほど、彼女が標的になる。だから近づかなかった。それだけのことです。それだけのことなのに——三年間、ずっとそれを繰り返した」

 

 アントワーヌは少し間を置いた。

 

「彼女は、なぜあなたが避けているか知っていましたか」

 

「卒業パーティーの夜に、婚約破棄を告げました。その時に——彼女は、知っていると言いました。印の構造上、俺が近づけなかった理由を、と」

 

「そうですか」

 

「怒らなかった。責めなかった。ただ、十三年間ありがとうと言って、出ていきました」

 

 ハルメアスは手袋の上から、左手を押さえた。

 

「俺はその時、何も言えなかった」

 

「何か言いたかったですか」

 

「……はい」

 

「何を」

 

 ハルメアスは少しの間黙った。

 

「避けていたのは、嫌いだったからではない。それだけです。それだけのことが、言えなかった」

 

 アントワーヌはしばらく黙っていた。ランプの炎が一度大きく揺れた。

 

「あなたは彼女のことが好きだったんですね」

 

「……分からなかったんです、当時は。好きとか嫌いとか、そういう言葉で考えたことがなかった。ただ——遠くから見ているしかなかった。それが三年間続いた」

 

「今は、分かりますか」

 

「今は」ハルメアスはゆっくり言った。「好きだったと思います。今更、ですが」

 

「今更ではないですよ」

 

「もういません」

 

「いなくても、気持ちは本物です」

 

 ハルメアスはアントワーヌを見た。

 

「……あなたは、なぜそういうことが言えるんですか」

 

「何がですか」

 

「傷つけない言葉が、すぐ出てくる」

 

 アントワーヌは少し考えてから言った。

 

「妻に鍛えられました」

 

 ハルメアスは思わず笑った。今度は止めなかった。

 

「……笑えましたね」アントワーヌが言った。

 

「あなたが変なことを言うから」

 

「変なことは言っていません。本当のことです」

 

「妻のことが好きなんですね」

 

「はい」アントワーヌは穏やかに言った。「だからこそ——あなたのことも気になっている自分が、少し不思議です。矛盾しているようで、でも両方本当なんです」

 

「……複雑ですね」

 

「そうです。でも嘘はつきたくない」

 

 二人はしばらく黙って、雨の音を聞いていた。

 

「一つだけ訊いてもいいですか」ハルメアスは言った。

 

「どうぞ」

 

「彼女が帝国を出たのは、正しい選択だったと思いますか」

 

 アントワーヌはすぐには答えなかった。

 

「あなたがいる帝国で、あなたに近づけば彼女が傷つく。あなたも傷つく。それが続く限り、彼女にとって帝国は安全な場所ではなかった」

 

「そうです」

 

「なら、正しかったと思います」

 

「……そうですか」

 

「あなたが近づけなかったことも、彼女が出ていったことも、どちらも間違っていない。ただ、状況が間違っていた」

 

 ハルメアスは目を閉じた。

 

 その言葉を、ずっと待っていた気がした。誰かに言ってもらうことを。間違っていたのは俺ではなく、状況だったと。

 

「……ありがとうございます」

 

「どういたしまして」

 

 雨の音が続く。印の声は今夜、遠かった。

 

 

 転機は、思いがけない形で来た。

 

 深夜、ジュリアノスがまた呼び出しをかけた。印の力が身体を動かす。拒絶できない。ハルメアスは通路を歩いた。

 

 途中でアントワーヌとすれ違った。

 

 アントワーヌはハルメアスの顔を見て、すぐに何かを察した。

 

「どこへ」

 

「……兄のところへ」

 

「呼ばれましたか」

 

「ええ」

 

 アントワーヌはハルメアスの腕を掴んだ。強くではなく、ただ確かめるように。

 

「終わったら、来てください」

 

「……部屋にですか」

 

「はい。待っています」

 

 ハルメアスは何も言えなかった。ただ頷いた。

 

 兄の部屋での呼び出しは、いつも通りだった。言葉で削り、支配を確認し、ハルメアスが自分のものであることを繰り返し刻もうとする。兄の「愛情」の形は、いつもそれだった。

 

「俺から離れるな」

 

「……離れることはできません。呼ばれれば来る」

 

「それでいい」

 

 だが今夜、ハルメアスの中で何かが変わっていた。

 

 兄の言葉を聞きながら、アントワーヌの顔が頭の中にあった。待っている、と言った声が。それだけで、胸の奥に、消えない何かが灯っていた。

 

 戻ると、アントワーヌは本当に待っていた。

 

「大丈夫ですか」

 

「……慣れています」

 

「慣れていることと、大丈夫なことは違います」

 

 ハルメアスは椅子に座った。アントワーヌは向かいではなく、隣に座った。それだけのことが、今夜は違って感じた。

 

「兄は……俺を愛しているんだと思います」ハルメアスはゆっくり言った。「あの人なりの形で」

 

「そうかもしれません」

 

「でも俺には——それが愛なのか支配なのか、ずっと分からなかった。愛と支配の違いが、俺には分からなかった」

 

「今は、分かりますか」

 

 ハルメアスは少し考えた。

 

「あなたと話していると、少し分かる気がします」

 

「どういうところで」

 

「あなたは、俺に何かを要求しない。ただここにいる。それが……」

 

 言葉を探した。

 

「怖くない」

 

 アントワーヌは黙って聞いていた。

 

「兄のそばにいると、いつも次に何が来るか考えていた。どう答えれば傷つかないか。どう振る舞えば呼び出されないか。でもあなたのそばでは、そういうことを考えなくていい」

 

「……そうですか」

 

「それが、愛と支配の違いかもしれないと、最近思っています」

 

 アントワーヌは静かに言った。

 

「安心できる人のそばに、いてください」

 

「あなたのそばが、今一番安心できます」

 

 アントワーヌはしばらく黙っていた。それからハルメアスの手に、自分の手を重ねた。

 

「私も」

 

 それだけだった。だがその二文字が、今夜のすべてだった。

 

 

 ハルメアスがジュリアノスに反撃したのは、その十日後だった。

 

 呼び出しに応じながら、ハルメアスは初めて、印の力を意志的に逆方向に放った。兄の印に干渉する。訓練で禁じられていた行為。

 

 ジュリアノスの動きが止まった。青黒い光が噴き出し、兄は倒れた。

 

 ハルメアスは通路を走った。アントワーヌの部屋に向かった。

 

「兄を……攻撃した」

 

 扉を開けて、それだけ言った。

 

 アントワーヌは立ち上がり、ハルメアスの顔を見た。それから部屋の中に引き入れ、扉を閉めた。

 

「印の反動は」

 

「来ています。声が近い」

 

「座ってください」

 

 ハルメアスは座った。アントワーヌが向かいに座り、ハルメアスの両手を自分の手で包んだ。

 

「声に反論してください。今すぐ。声の言葉を言ってみて」

 

「……『選ばれし器』と言っています」

 

「それに答えてください」

 

「……俺は、ただの人間だ」

 

「もう一度」

 

「俺は、ただの人間だ」

 

「もう一度」

 

「俺は——ただの人間だ」

 

 声が、少し遠のいた。

 

「……遠くなりました」

 

「そうです」アントワーヌはハルメアスの手をまだ離さなかった。「印の反動は、一人で受けると深くなる。誰かが繋いでいると、拡散する」

 

「本当ですか」

 

「確かめたわけではありません。でも私は、そう信じています」

 

 ハルメアスはアントワーヌの顔を見た。

 

「なぜ信じているんですか」

 

「フランシアで、一度だけ、戦闘後に印の声が激しくなった夜がありました。その夜、隊の衛生兵が手を握ってくれた。何も言わずに。声が静かになった。だからかもしれません」

 

「……その衛生兵は今」

 

「死にました。その翌月に」

 

 短い沈黙が落ちた。

 

「ごめんなさい」

 

「謝らないでください。戦場ではよくあることです」アントワーヌは静かに言った。「でも——よくあることだからといって、悲しくないわけではない」

 

「……そうですね」

 

「ハルメアス」

 

 アントワーヌが、初めて名前だけで呼んだ。

 

「脱走しましょう」

 

 ハルメアスは目を見開いた。

 

「兄が回復したら、あなたは殺されます。反撃した代償として」

 

「……分かっています」

 

「一人で逃げますか」

 

「……あなたを巻き込む気はありません」

 

「巻き込まれたいんです」アントワーヌはハルメアスの手を強く握った。「あなたを一人で行かせたくない」

 

「でも——」

 

「処刑される覚悟はできています。それよりも」

 

 アントワーヌはハルメアスを真っ直ぐに見た。

 

「あなたが一人で、印の声と戦いながら逃げていく姿を、想像したくない」

 

「……なぜそこまで」

 

「好きだからです」

 

 静かな声だった。誤魔化しのない声だった。

 

「妻のことも好きです。両方本当のことです。でも今ここで——あなたを一人にしたくないという気持ちが、私の中で一番大きい」

 

 ハルメアスは長い間、アントワーヌを見ていた。

 

「……俺も」

 

「ええ」

 

「俺も、あなたに一緒にいてほしい」

 

「なら、一緒に行きましょう」

 

 その夜、二人は塹壕を出た。

 

 フリードリヒが巡回の途中で、二人の背中を見た。青白い印の光が雨の中に滲んで消えた。フリードリヒは止めなかった。報告もしなかった。ただ、その背中を見送った。

 

「殿下……」

 

 雨の音が、言葉を飲み込んだ。

 

 

 廃村の教会の隅に隠れた夜、二人は壁に並んで座っていた。

 

「追跡が来ます」アントワーヌが言った。「三日後には」

 

「兄が来る」

 

「そうです」

 

 沈黙が落ちた。雨が屋根を叩く。

 

「怖いですか」ハルメアスが訊いた。

 

「怖いですよ」アントワーヌは答えた。「でも——ここに来て正しかったと思っています」

 

「なぜ」

 

「あなたの顔が、塹壕にいた時と違う」

 

「どう違いますか」

 

「塹壕では、常に何かを計算している顔でした。次に何が来るか、どう振る舞うか。今は違う」

 

「……そうですか」

 

「今夜のあなたは、ただここにいます」

 

 ハルメアスは自分の手を見た。印の線が微かに脈打つ。だが声は遠い。

 

「あなたのそばにいると、声が遠くなります」

 

「私もです」

 

「印同士が、打ち消し合うんでしょうか」

 

「分かりません」アントワーヌは微かに笑った。「でも悪くない」

 

「……俺が言った言葉だ」

 

「気に入ったので借りました」

 

 ハルメアスは少し笑った。それからアントワーヌの方を向いた。

 

「一つ、訊いてもいいですか」

 

「どうぞ」

 

「妻のことを、愛していますか」

 

 アントワーヌはすぐに答えた。

 

「はい」

 

「なのに、俺のことも」

 

「はい」

 

「……矛盾していると思いますか、自分で」

 

「思います」アントワーヌは静かに言った。「でも——矛盾していることと、嘘をついていることは違います。どちらも本当なんです。それが答えです」

 

「……俺には、よく分からないですが」

 

「分からなくていいと思います。ただ——今夜、あなたがここにいてくれることが、私には大切です。それだけは本当のことです」

 

 ハルメアスはしばらく黙っていた。

 

「俺も」ハルメアスはゆっくり言った。「あなたがここにいてくれることが、大切です」

 

 二人は並んで、雨の音を聞いていた。

 

 その夜、アントワーヌがハルメアスの肩に手を置いた。ハルメアスはそれを払わなかった。払う理由がなかった。ただそのまま、壁に背を預けて、雨が止むまで二人で座っていた。

 

 

 追跡部隊が来たのは翌日だった。

 

 広場にジュリアノスの声が響く。「ハルメアス!出てこい!」

 

 教会の裏口から逃げた。森の中を走った。だが追跡部隊の若い刻印者、ルーカスが前方に現れた。

 

 ルーカスはアントワーヌに印の力を向けた。アントワーヌの身体が硬直する。

 

「やめろ!」

 

 ハルメアスは印の力でそれを相殺した。アントワーヌは解放されたが、身体が揺れた。

 

 ジュリアノスが追いついた。

 

「戻ってこい」

 

「嫌だ」

 

「お前は俺のものだ」

 

「違う」ハルメアスは静かに言った。「もう、誰のものでもない」

 

 兄の目の色が変わった。だが傷が完全に治っていない。全力を出せないと悟り、ジュリアノスは撤退した。

 

「次に会った時は、決着をつける」

 

 霧の中に消えていく兄の背中を、ハルメアスは見ていた。

 

 アントワーヌが隣に来た。

 

「大丈夫ですか」

 

「……なんとか」

 

「声は」

 

「来ています。少し」

 

「反論してください。今すぐ」

 

「俺は、ただの人間だ」ハルメアスは言った。「ここにいる。逃げている。それだけだ」

 

「そうです」アントワーヌは頷いた。「それだけです」

 

 二人は森の奥へ向かった。

 

 

 五日後、アントワーヌの手が冷たくなり始めた。

 

 廃屋の朝、ハルメアスがアントワーヌの左手に触れて、気づいた。人間の体温ではない。

 

「あなたの手が」

 

「分かっています」アントワーヌは静かに言った。「印レベル3への移行が始まっています。前回の戦闘で受けた傷が、治癒しようとして逆に印を深くしました」

 

「俺のせいだ」

 

「違います」

 

「俺と一緒にいるから——」

 

「私が選んだことです」アントワーヌは遮った。「何度でも同じことを言います。私が選んだことです」

 

 ハルメアスはアントワーヌの冷たい手を、両手で包んだ。

 

「妻の記憶は」

 

「……完全に消えました」アントワーヌの声が揺れた。「顔が思い出せない。声も。娘の笑顔も」

 

「……」

 

「代わりに、戦場の記憶だけが残っています。死んだ人たちの顔が、消えない」

 

 アントワーヌは自分の左手を見た。青黒い色が、指先から手首まで広がっている。

 

「一つ、お願いがあります」

 

「何ですか」

 

「レベル3に完全に達する前に——人間でいられるうちに、終わらせてください」

 

 ハルメアスは息を呑んだ。

 

「……できません」

 

「ハルメアス」

 

「できません」

 

「レベル3になれば、私はもう人間の形を保てない。あなたを傷つけるかもしれない。あなたに傷つけられたくない」

 

「だから俺に頼むんですか」

 

「あなたにしか頼めません」アントワーヌはハルメアスを見た。「信頼しているから、頼んでいます。信頼できない人には、こんなことを頼めません」

 

 ハルメアスは震える手でアントワーヌを抱きしめた。

 

「……消えないでください」

 

「できる限り、そばにいます」

 

「できる限りでは嫌だ」

 

「……ごめんなさい」

 

 二人はしばらく、そのまま黙っていた。

 

「あなたのことが、好きです」ハルメアスは言った。「誰かにそう言ったのは、初めてです」

 

「私も」アントワーヌはハルメアスの背に手を回した。「あなたのことが、好きです。この塹壕で出会えて、よかった」

 

「よくない状況ですが」

 

「そうですね」アントワーヌは微かに笑った。「でも——あなたと話せて、よかった。あなたの笑顔を見られて、よかった。それは本当のことです」

 

「……俺も」

 

「眠れない夜に隣に立っていてくれて、よかった。婚約者の話を聞いてくれて、よかった。声が遠くなる感覚を、一緒に感じてくれて、よかった」

 

「……全部覚えているんですか」

 

「全部です」

 

 ハルメアスは目を閉じた。

 

「俺も全部覚えています」

 

「なら、それで十分です」

 

 翌朝、アントワーヌの左腕から細い触手が一本、皮膚を突き破った。

 

「今です」

 

 アントワーヌの声は穏やかだった。

 

「ハルメアス。頼みます」

 

 ハルメアスは震える手で短剣を取った。

 

「愛しています」

 

 この言葉を、生きている間に言えてよかったと思った。

 

「私も」アントワーヌは微かに笑った。「愛しています。あなたと過ごせた時間が、私の宝物です」

 

 刃を押し込む瞬間、アントワーヌの顔に苦痛はなかった。あったのは、安堵だった。

 

 アントワーヌの身体から力が抜けていく。その瞬間、印が激しく光り、ハルメアスの印に流れ込んだ。左腕に青黒い斑点が浮かんだ。レベル3の兆候。

 

「あなたこそ選ばれし器——」

 

「黙れ」

 

 ハルメアスは言った。アントワーヌを抱きしめたまま。

 

「俺はただの人間だ。愛した人がいた。それだけだ」

 

 声が、遠のいた。

 

 ハルメアスは泣いた。一人で、声を出さずに、泥の床に座ったまま。

 

 

 ジュリアノスとの最後の対峙は、霧の深い廃村の広場だった。

 

 ハルメアスが廃屋から出てきた姿を見て、追跡部隊の全員が息を呑んだ。左腕が触手に変わり、顔の半分が青黒い。だが目だけは人間のままだった。その目の奥に、苦しみがある。

 

「ハルメアス……」

 

 ジュリアノスが呟いた。兄の右腕にも、青黒い斑点が広がり始めていた。

 

「もう終わりにしましょう、兄上」

 

「お前は俺のものだ」

 

「違います」

 

 二つの印の力がぶつかり合い、ジュリアノスの印が暴走した。皮膚が裂け、青黒い光が噴き出す。身体が変貌していく。

 

 そして触手の塊の中心から、声が聞こえた。

 

「……ハル……メアス……愛して……いた……」

 

 その声は小さく、儚く、重く響いた。次の瞬間、塊が地面へ崩れ落ちた。

 

 ハルメアスは兄の死体を見つめた。

 

 愛していた。兄にとっての愛は、支配と同じ形をしていた。それでも最後の瞬間、それは本当のことだったかもしれない。

 

 右腕にも触手が生え始めた。時間の問題だ、とハルメアスは思った。

 

 

 山奥の洞窟で、皇帝が来た。

 

 古い本を差し出した。レベル5。人間の姿を取り戻し、印を制御する側に立つ。

 

「断ったら」

 

「ここで死ぬ」皇帝は隠さなかった。

 

「受け入れたとして、俺は何をすればいいのですか」

 

「戦争を終わらせる」

 

 ハルメアスは目を閉じた。

 

 アントワーヌの声が聞こえた気がした。

 

「記憶は過去だけにあるわけではない。これから作ればいい」

 

 アントワーヌはいない。だがその言葉は残っている。

 

「……受け入れます」

 

 本に触れた瞬間、光が溢れ出した。触手が縮んでいく。人間の色が戻っていく。声が遠くなる。命令を待つ声に変わる。

 

「これが……レベル5」

 

「帝国は皇太子を待っている」皇帝は言った。

 

 

 謁見の間。廷臣たちが頭を下げる。誰も目を合わせようとしない。

 

「挨拶はいい」

 

 声は低く、感情がない。

 

 戦況の報告が始まった。ハルメアスは聞きながら、胸の奥に手を当てた。空洞がある。アントワーヌがいた場所に、穴がある。

 

 でも。

 

 アントワーヌの声が、遠くで聞こえた気がした。

 

 眠れない夜に、隣に立っていてくれて、よかった

 

「以上か」

 

「は、はい」

 

「下がれ」

 

 廷臣たちが去った。

 

 一人残ったハルメアスは、玉座に座ったまま、窓の外を見た。雨が帝都の石畳を叩いている。遠く、静かな雨だ。

 

 印の声が問う。「命令を」

 

 ハルメアスはすぐには答えなかった。

 

 胸の奥の空洞が、痛む。埋まらない。たぶん、ずっと埋まらない。

 

 でも、それでいいと思った。

 

 埋まらないということは、そこに何かがあったということだ。アントワーヌがいた。声が遠くなる夜があった。雨の中で笑った夜があった。愛していると言えた朝があった。

 

 それは消えない。

 

「命令を」

 

 印の声が、もう一度問う。

 

 ハルメアスは目を閉じ、開いた。

 

「戦争を、終わらせる」

 

 それだけ言った。

 

 雨の音が続いていた。

貴重なお時間を使ってお読み頂き、本当に有難うございました。

興味を持って頂けたならば光栄です。


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