2.弁護人選任届と「封印」
吉野さんの指示で、十海市役所で愛さんの戸籍謄本と住民票をとるための、職務上請求書を作成。
次はお母様名で作成する監督誓約書と身元引受書。勾留が不要であることの重要な疎明資料となる。
「今日は午後一で天歌警察署に接見に行って、弁選に同意の、あと委任状にも署名指印もらって、昨日聞き取れなかった事件の内容を聞き取るのと、取り調べについての助言などを行います」
「はい」
「そのあと、天歌署で弁選の提出行って、捜査員に面会を申し入れます。それが終わったら十海市に行って、私は家主にあたってみます。深町先生は市役所で謄本と住民票とってください」
「わかりました」
「そのあと、夕方にお母様との面会」
「一杯いっぱいですね」
「刑事事件は初動でどれだけ動けるかにかかってるから。そのつもりで」
吉野さんが警察署に電話して、午後1時からの接見に問題ないことを確認し、午後2時前後に刑事第二課知能犯係の捜査員に話を聞きに行くアポをとった。
ちょうどお昼になった。ケイさんこと副所長の内田さんが外出から戻ってきた。
「お弁当買ってきた。忙しいだろうけどしっかり食べてね」
「ありがとう~」と吉野さんが旦那さんである内田さんに言う。
「いただきます。あと、サポートしてた件...」
「大丈夫。至急の部分は僕がやっとくし、他は合間見てすすめてくれたらいいし」
「ありがとうございます」
ケイさん支給のお弁当での食事が終わり一息つくと、吉野さんんとボクは支度をして警察署へ向かった。
人口20万の天歌市全域を管轄する大規模署である天歌警察署は、事務所から駅とは反対方向に5分ほど歩いたところにある。
12時45分頃到着。1階のロビーの左側に、総合受付カウンターがある。吉野さんが「被疑者又一愛の弁護人として接見に来た」旨告げると、係員が電話連絡。ほどなく留置管理係の係員がやってきて、奥のエレベーターで3階に上り、留置管理係窓口へ。名刺を渡し、弁護士会員証と弁選を提示し、接見簿に記入すると、奥の接見室に案内される。10畳ほどの広さで、中央横向きにアクリル板の仕切り。接見室に入るのは、司法修習のとき以来である。
接見室に入って5分ほどしただろうか。吉野さんと同じくらいの背格好の被疑者、又一愛さんが担当者に付き添われて入ってきた。すぐに担当者は退出する。
突然、ボクの頭の中に、H△Gの「星見る頃を過ぎても」が鳴り出した。
愛さんは、すっぴんでも十分に美人。
それなりのメイクをしたところを想像したら、十海市のキャバクラの人気キャストだったことも不思議ではない。
中学の時のあの子とは、全然似てはいない。
ただ、あの、あのときの、「切実」という言葉でしか表現できない思いを訴えかけてくるような視線。
その視線が、そこにあった...
「...深町先生。どうしたの?」と吉野さんの大きめの声に、我に返った。
「す、すみません。あの、自己紹介でしょうか?」と素っ頓狂な返答。
「時間が惜しいから先進めますね」と吉野さん。
「愛さん。貴女の弁護人になることを引き受けました。ただ、昨日お話しした国選ではなく、私選弁護人としてです」
「え?だってわたし、お金ないですよ」
「貴女のお母様に連絡して、今日午前中にお会いして、お母様の名前で私たちを弁護人として選任しました」
そう言うと吉野さんは、弁選を愛さんに見せた。
「お母様に料金のことを説明して納得いただき、契約もすでに結んでいます。あとは貴女の同意をいただければ、正式に弁護活動を始めます」
「...そんな。いまさら母さんに会わせる顔ないし。怒ってんじゃないの?」
「お母様からの伝言はこれだけです。『早く会えることを待っている』」
伏し目がちだった愛さんの視線が、まっすぐ吉野さんに向いた。
「本当に、怒ってなかったの?」
「事件のことは別にして、とにかく貴女が元気でいることに安心した、とおっしゃってました」
「...わかった。じゃあ...弁護お願いします」
「では、こちらの弁護士選任届に名前と書いて、指印、わかるかな?右手の親指に朱肉をつけて、ハンコ代わりに名前の横に捺してください」
吉野さんは、アクリル板の中央の下にあるターンテーブルに弁選3通とボールペン、朱肉と指を拭くためのティッシュを置いてくるりと回した。
愛さんが署名指印して、ターンテーブル上に置くと、吉野さんが回して弁選を回収する。
「それから、今後の活動のために貴女の戸籍謄本と住民票をとる必要があります。なので、本籍地と、それから住所をもう一度聞かせてください」
愛さんが言った本籍地と住所を、確認しながら吉野さんがメモに取る。いずれも十海市。終わるとアクリル板越しに見せて、間違いがないか確認する。
「さて、どういうふうに弁護を進めるかという方針ですが、昨日もお話ししたとおり、あなたの罪状は刑法第246条第1項の詐欺罪に該当して、法定刑の上限は10年の拘禁刑です。ただし今お聞きしている限りでは、貴方の場合刑期はもっと短くなるでしょうし、執行猶予も十分にあり得ます」
「でも、裁判にはなるんでしょ?」
「そこなんですが、私は、裁判にならないよう、つまり検察官が起訴しないで釈放されることを目指したいと考えています」
「そんなこと、できるんですか?」
「犯罪の事実があっても、いろいろな状況を総合的に判断して、起訴をしないという決定をする権限が検察官にはあります。これを起訴猶予、といいます」
「きそゆーよ?」
「はい。検察官が起訴猶予と決定すると、即時に釈放されて、普通の生活に戻ることができます。ただ、あくまで「猶予」なので、別の重大な事実が明らかになったりすると、改めて起訴される可能性は残ります」
「そうなんだ...」
「心配しないで。とにかく貴女がやったこと、知っていることをすべて正直に話していくことで、今回の事件についていったん起訴猶予になったとすれば、決定が覆ることは、まずないでしょう」
「わかった」
「だから、諦めたり投げやりになったりしないで、一緒に頑張りましょう」
愛さんの視線の「切実」なものが、少し和らいだ気がした。
「ところで、今朝から取り調べはありましたか?」
吉野さんが少し前に屈む姿勢になって聞く。
「あった。わたしの部屋を調べて、おう...なんてったっけ、警察に持ってきたものがあるとか」
「押収ね。リストを見せられたんじゃない?」
「うん。たしか預金通帳とノートPCが書いてあった」
「そうか。スマホだけじゃなくてノートPCも使ってるんだ」
「通販で服とかコスメ買うときは、画面が大きい方が選びやすいから」
「じゃあ、キーボードは叩けるんだね」
「一応ね」
「なるほど。その他にはどんなことを聞かれたの?」
「しんじょう、だったっけ。生まれてからのことを聞かれたので、正直に答えた」
「身上書ね。その他は」
「昨日言われたとおり、黙秘しますって言った」
「了解。それでは今後の取り調べでは、黙秘はやめにして、犯行に関することも正直に答えるようにしてください」
「大丈夫なの?」
「起訴猶予を勝ち取るには、捜査に協力姿勢を見せることが重要。貴女の場合、現行犯で犯罪事実は揺るがせない。だから知っていることはすべて話すことで、捜査にあたる警察官や検察官の印象を良くすることが大事になります」
「わかった。ちゃんと話すようにします」
「聞かれた事項に正直に答えるのは当然だけれど、知らないことはちゃんと知らない、違っていることはちゃんと違っていると答えることも重要。知らないことや、やってもいないことまで貴女のせいにされてしまうと、逆に起訴猶予が遠のきます」
「わかりました」
「捜査の終わりに、供述調書という、貴女が話した内容を記したとされる捜査資料が示されて、署名を求められることがあります。示されたら必ずしっかりと全部読んで確認して、間違えがあれば訂正するように言ってください。事実とちがうことがそのまま訂正されない場合は、署名を拒否する権利が貴方にはあります」
弁護士になって3年。刑事事件に真剣に取り組んできた吉野さんの、頼もしい姿に思わず見とれそうなる。
いけない、ちゃんと集中しなくちゃ。
「ところで、昨日はSNSで見つけた闇バイトに引っかかって、受け子をやってしまった、というふうにお聞きしたけれど、詳しく聞かせてくれないかな?」
愛さんが話し始める。
収入を維持するためにはもう、風俗の世界に入るしかないかと考えていたとき、Xで物凄く条件のいいバイトの募集を見つけた。一昨日の夕方だった。「週1日から。月50万以上可能」って、わたしがキャバで一番稼いでいた頃と同じくらいの月収。なので、申し込もうと名前、住所、携帯番号をDMしてしまった。そうすると、Telegramでのやりとり指示されて、学歴、職歴、家族(母親)の連絡先(名前、住所、電話番号)を言われるままに知らせた。最後に身分証明書の提示を求められて、写メで送った。
夜になって業務内容の連絡が非通知の電話で来た。指定された場所で現金を受け取り、報酬3万円を抜き取った残りを、天歌駅構内のコインロッカーに格納し、暗証番号を連絡すること。これってオレオレ詐欺みたいなヤツじゃね?と思ってバイトを辞退したいと言ったけれど、許されなくて。それでも断ったんだけど、「個人情報をばら撒く」とか「家族に危害を加える」と低い声で脅され、拒絶することは諦めた。指示があったら即座に動けるように待機するよう、念を押されて電話は終わった。
昨日、指示役からTelegramで、午後3時にAUショッピングモール駐車場の時計台の下で、やって来た人物から紙袋に入った現金を受け取り、即座にその場を離れ、すぐにTelegramで成功の報告をして、報酬3万を抜き取って、あとは指示通りに動くようにとの指示がきた。
そして5分前に指定の場所に行った。やってきた初老の女性が「あなたですね」と言うので頷いた。紙袋を受け取った瞬間、まわりの3台の車から捜査員が出てきた。身がすくんで動けないまま、現行犯逮捕された。
「わかりました。ありがとう。たぶん捜査員から『詐欺だとわかった時点で、なぜ警察に相談しなかったか?』と聞かれると思うの。そのことはどう思うかな」
「そうね...怖かったのと、なんか人生終わった、って感じがして、とても警察に駆け込むことは考えられなかった。今から思えば、なんでそうしなかったか本当に後悔している」
「OK.今までに話したことを覚えておいて、取り調べのときもそのまま話してください」
「了解」
「さっきも言ったけれど、特に供述調書には注意してね」
「わかりました」
「ところで、貴女の身分証明書はここにありますか?」
「運転免許証が、取り上げられたバックパックの中にあるはず」
「了解。それと...貴女の部屋の家主さんにお話を伺ってもいいかしら」
「隠したって、もう警察が行ってるもんね。構わないよ」
「お名前は?」
「大川さん」
「大川さんね。あと、また明日来ると思うけれど、なにか差し入れして欲しいものはある」
「うん...今のところない」
「今日はこれくらいにしておきましょう。貴女も疲れたでしょう」と吉野さん。
「ええ。けどいろいろお話しができて、少し気分が晴れた気がする」
「それならよかった」
吉野さんがボクに目配せした。ほぼ同時に立ち上がる。愛さんも立ち上がった。
「それじゃあ。ここだと。なかなか眠れないと思うけれど、できるだけ睡眠をとってね」
吉野さんに続いて、ボクが接見室のドアを出る。
チラっと振り返って愛さんの視線を見る。「切実」なものがさらに和らいでいた。
2時15分頃、留置管理係の窓口で終了したことを告げ、接見簿に退出の記入。弁選に指印証明を受けた。
刑事第二課知能犯係の場所を聞くと、2階のちょうど真下あたり。階段で1フロア下りて、刑事第二課のドアのところで来意を告げる。電話しておいた捜査員がやってきて、ドア入ってすぐの面談コーナーに案内される。名刺交換。
巡査長の益田さんというその女性捜査員に、弁選1通を提出し、残りのうち1通に受領印をもらう。
「家宅捜索が行われたのですね。預金口座とノートPCを押収されたとか」
「そうですね」
「預金口座の取引履歴取得は行われますか?」
「たぶん行うでしょう」
「押収品目録と令状の写しをいただけませんか?」
「確認してきます」と言って知能犯係の捜査員は、奥のデスクが並ぶ島に行った。
係長らしき捜査員に確認して、コピー機に行くと戻ってきた。
「押収品目録のコピーはこちらをお渡しします。令状はお見せするだけでご勘弁ください」
吉野さんが令状を確認。
「ありがとうございます」
「他に何か?」
「被害者とコンタクトをとりたいので、連絡先をお教えいただけませんか?」
「それは...ご本人に確認しないと」
「わかりました。ご確認をお願いしてもよろしいですか?」
「では、確認取れたら連絡します」
「あと、送致が決まったらご連絡いただけると助かります」
「確約はできませんが、可能なら連絡するようにします」
「以上です。ありがとうございました」
警察署から事務所への帰り道。吉野さんがふだんより少し低めの声で話す。
「あの、お願いがあるの」
「は、はい。なんでしょうか」
「さっきの接見の最初のときのようには、もう金輪際ならないようにしてほしい」
「え、ええ」
「刑事事件だからね。クライアントの人生をダイレクトに左右するからね」
「はいっ」
「だから、それができないなら、下りてほしい」
「わかりました。き、肝に銘じます」
そう、この事件が片付くまで、「星見る頃を過ぎても」は封印することにしよう。
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11月8日水曜午後3時。逮捕から24時間経過。
吉野さんとボクは、警察署から事務所に戻った。
被疑者たる又一愛さんが同意したので、刑事弁護の委任契約が正式に発効した。ボクが母親の油田さんに電話して、その旨を告げると、これから着手金と預かり金を振り込むとのこと。
事務所全員で作戦会議。
「検察官送致は避けられないでしょうから、次は、勾留請求回避と勾留請求却下の意見書かな」とルカさん。
「そうですね」と吉野さん。
「勾留決定も避けられない可能性が高いなら、その先の準抗告に備えて動くことではどうだろう」と内田さん。
「意見書に添付する書面が準抗告に添付する書面と共通するので、手間はあまり変わりません。それに勾留に対する異議を早い段階から表明してくことで、後々の活動にもつながると思います」と吉野さん。
「OK。そうすると?」とルカさん。
「このあと十海市に行って、手分けして、家主へのコンタクトと、本人の戸籍謄本と住民票を取ってきます」
「それから、今日の夕方だね」
「はい。母親にさらにお話しを伺って、書面の作成にご協力いただきます」
降り続く冷たい雨の中、午後3時半に再び事務所を出て、天歌駅へ向かう。ちょうどやってきた列車で十海駅へ。
午後4時過ぎに十海駅着。吉野さんは住所と名前を頼りに、家主にあたるべくタクシンーに乗った。ボクは駅から徒歩10分のところにある十海市役所へ。2階の証明発行窓口に職務上請求書2通を提出して、身分証明書を提示する。番号札を渡されて、カウンター前の席に。結構混雑している。30分ほど経って呼び出しパネルに番号が点灯し、窓口へ。各3通交付され、手数料を支払い領収書をもらう。
午後5時過ぎ、十海駅から通勤・通学で混雑した列車に乗り、天歌駅へ。事務所に戻ると6時近くになっていた。
一足早く戻っていた吉野さんに、愛さんの戸籍謄本と住民票各3通を渡す。
「家主さんには会えましたか?」
「うん。愛さんの住所地のアパートの隣の家に住んでおられた。午前中に家宅捜索があって、その後刑事から質問を受けたが、やる気のない風で二、三質問しただけで帰ったらしい。改めて連絡したいと話したら、携帯の番号を教えてくれた」
「よかったです」
そうこうしているうちに、母親の油田さんが来所された。午前中と同じ会議室にお通しする。吉野さんとボクで応対。
ルカさんが運んできたお茶を一口含むと、吉野さんが接見時の内容を話し出す。
母親依頼による弁護人選任に同意したこと。最初「合わせる顔がない」と辞退しそうな雰囲気だったが、お母様の言葉を伝えたら、素直に納得した。起訴猶予を目指す方針について。そのために取調にどのように臨むか。犯行に至った詳しい経緯...
「そうですか。そんなに切羽詰まっていたとは...」と油田さん。
「愛さんがお話しになられた状況が事実であれば、情状面では有利な材料になると考えます。なので、申し上げた方針で弁護活動を行いたいと思います」
「わかりました」
「ここで、書面の作成についてよろしいでしょうか」
吉野さんはそう言うと、用意していた監督誓約書と身元引受書を油田さんに見せた。
「これは、釈放後に責任をもって監督・指導することへの誓約書と、安定した生活を支えることを約束する書面です。身元引受については、お母様のところに同居するという内容にしていますが、よろしければ、こちらに署名と捺印をお願いします」
「あの子はそれでよいのですか?」
「まだご意向は伺っていません。ただし、釈放後にまた一人住まいというのは、勾留を解くのに不利な方向に働きます。またお母様がお側にいて支えてくださるのであれば、当方としても安心です」
油田さんが2つの書面に署名、捺印をした。本人確認として運転免許証を預かり、ボクがオフィスの複合機で念のため2通、コピーを取る。
「あと、これから申し上げるのはあくまでも差し支えなければ、ですが、身元引受人の収入状況を確認できる、たとえばお勤めでしたら源泉徴収票のコピー、それからお住まいが持ち家でしたら不動産の登記簿謄本、賃貸でしたら賃貸借契約書のコピーをいただけると、身元引受について説得力が上がります」
「了解しました。私、十海市内の会社に勤務しておりますので、源泉徴収票を用意します。あと、住居は、離婚の際に慰謝料の見返りに私の単独名義に変更したマンションですので、登記簿謄本を用意します。いつまでにお渡しすればよろしいですか?」
「できれば、明日中にいただけると助かります。明日も午後6時頃にお越しいただくことは可能ですか。お勤めでしたら、そんなに頻繁に...」
「時間は比較的自由になる仕事なので。リモート主体でオフィスに行くのは週に2回くらいでしょうか」
「それでは、情状の資料として、愛さんが幼少のころからの愛さんとご家族のお話をおきかせいただけますか」と吉野さん。
油田さんが一呼吸おいて、話し始めた。
幼いころから利発で元気な子だった。両親ともに仕事を持っていたが、小学校の頃までは育児も家事も分担して、仲のいい家族だった。中学はルミナス女子中学合格して入学した。
「ええと、私と愛さんは同学年ですから、高校はルミナスで同じ学年だったんですね」と吉野さん。
「在学中に接点はなかったんですね」
「『またいち』という名前には引っかかるものがあったんですが。今度ご本人に確認してみます」
愛さんが中学に入って少しした頃、父親が勤務先で昇進して部長待遇になった。収入も増え、忙しさも増したことから、母親に仕事を辞めて家庭に入ってくれないかと言うようになった。母親は仕事を辞める気はなかった。両者の間に隙間風が吹き、愛さんが中学2年の頃には、離婚を考えるようになった。娘が大学に入るまでは我慢しよう、ということにしたが、愛さんが中学3年のとき、父親に交際相手がいることが発覚した。協議離婚が成立し、愛さんが大学を卒業するまでの学資は、父親が負担することになった。
「中学3年のお正月が明けてしばらくしたときでした。ダイニングテーブルで二人で愛に向き合って、離婚して父親が家を出ていくことを告げました。最初は何のことかわからない、という表情だったのが、話を進めるうちに恨めしいような悲しいような表情に変わっていったのを、いまでもありありと思い出せます」
父親が出て行き、愛さんの性格はガラッと変わった。いつも伏し目がち。業務連絡以外はほとんど話さなくなった。ルミナス女子高校の一般コースに進学して、しばらくはちゃんと通っていたものの、次第に休みがちになった。なんとか2年には進級できたが、夏休み明けからは、ほとんど通わなくなった。
「高2の終わりころに、退学すると言い出したときは、とにかく翻意させようとしました。留年は必至でしたが、学資の心配はないからやり直すように、と説得しました。それでもルミナスを辞めたい、という気持ちは変わらず、退学届を出しました」
その後、通信制高校に転校したり、高卒認定試験を受けるなりして、せめて高卒の資格だけはとっておくようにと言ったが、近所のコンビニでバイトを始めて、特に遊ぶでもなく1年間貯金して、18歳の春に家を出た。
1ヶ月ほどして住所だけは伝えてきた。こちらから連絡しても電話にもメールにも応答なし、住所をたよりに部屋に行ったが、何度行っても出てこない。そして5年ほど前に何も言わずに転居した。前の部屋の家主に転居先を聞いたが、本人の了承がないと答えられないとのこと。
「居所を探す方法が、まだあったのかもしれませんが、その時点で諦めました」
「お父様にはお話されたのですか」と吉野さん。
「『戻ってきたときのために、大学卒業までの学資に相当する額は送り続ける。愛も成人しているのなら、自分の判断に任せるしかないだろう』と、つれないというか関わりになりたくない、という雰囲気でした」
「詳しいお話をありがとうございます。お聞きしたことを整理して、情状資料として使わせていただきますが、よろしいでしょうか」と吉野さん。
「はい。愛のためになることでしたら、いくらでも」
「もちろん、愛さんご本人の了承はいただきます。それから...」
「はい」
「今回の件、お父様には、もうお話をされましたか?」
「いえ、まだ話しておりません」
「ご連絡いただいて、ご協力のお願いをしてください」
「承知しました」
翌日も午後6時頃に来所していただくことを確認して、今夜のところは終わりとなった。
吉野さんの指示で、ボクが反省文の案、吉野さんが被害者への謝罪文の案を作成した。明日接見時に愛さんに渡し、これらをもとに愛さんによる自筆の分として作成してもらう。
午後10時頃、事務所入り口の鍵締めをして、吉野さんとボクは帰宅する。雨は上がっていた。




