1.想い出の歌と思い出せない校歌
H△Gという音楽ユニットについて教えてくれた、中学のクラスメイトの女の子。
放課後の音楽準備室で、ボクたちは二人きりだった。
彼女が、スマホにDLしていた「星見る頃を過ぎても」という曲を聴かせてくれた。
ボクは、すぐにその曲を自分のスマホにDLして、聴くようになった。
3年の秋の文化祭のときボクが口にした不用意な言葉のせいで、彼女とは絶交状態になってしまった。
そのまま迎えた卒業式。
廊下ですれ違った彼女がボクのほうに顔を向けた。
「悲しさ」でもなく「せつなさ」でもなく、「切実」という言葉でしか表現できない思いを訴えかけてくるような視線が、彼女から投げかけられた。
そして二人は言葉もなく別れていった。ボクたちは別々の高校へ進学して、もう会うこともなかった。
中学校の校歌は、メロディーは思い出せるけれど、歌詞は断片的にしか覚えていない。
同窓会に出席していれば、思い出すこともあるのかもしれない。
けれど、ボクは卒業以来一度も行ったことがない。
面倒くさいというのが理由だけれど、彼女と顔を合わすのが気まずかったこともあったと思う。
今から思えば初恋の相手だったかもしれない、彼女の卒業式の日の表情を思い出すのが嫌で、ボクは、H△Gを聴かなくなった。
再び耳にしたのは、司法試験の合格発表の直後。
「星見る頃を過ぎても」のメロディーと歌詞に乗せて、彼女と過ごしたシーン、交わした言葉、そしてあの最後の「切実」な表情までもが、美しい想い出となって一気に溢れてきた。
かれこれ9年の時が流れていた...
...「ねえ、シンジくんはどう思う?」
深まる秋に、センチメンタルな想い出に耽っていたボク。先輩弁護士であるヨッシーこと吉野未来さんのこの言葉が、司法試験の合格発表からさらに2年経った現在に、ボクを呼び戻した。202X年11月7日の天歌総合法律事務所。午前8時台。9時の始業までは、所員がお互いを愛称で呼び合う時間帯である。
「ええと...すみません。ボっとしてて。なんの話でしたっけ?」
「社歌ならぬ、事務所歌を作ってはどうかって話」と所長のルカさんこと浅山輝佳さん。
「作るんだったら、マイに相談してみましょうか?」と吉野さん。
「『ミクッツ』の坂上麻衣さん? 懐かしい名前だなあ」と副所長のケイさんこと内田恵一さん。
「ミクッツ」は吉野さんが高校在学中に、軽音部でキーボードプレイヤーとして所属していたバンド。
「マイちゃんはリーダーでギタリストだったよね」とルカさん。
「ええ。作曲もやってましたから、歌詞を作れば曲をつけてくれるかも、と思って」
「作曲はお願いするとしても、誰が作詞するのかな?」と内田さん。
「シンジくん、作れる?」とルカさん。
「ボクは...たぶん才能ないと思います」
「オレもたぶん、無理だなあ。現国は評論文で点数稼いでたから」と内田さん。
「でも、だいたい社歌とか校歌とかってパターンがあって、それさえ掴んじゃえば何とかなるんじゃないですか?」と吉野さん。
「じゃあ、試しに、キミたちの母校の校歌を歌ってみて」
ルカさんにそう言われた内田さんとボクは、出身校である県立天歌高等学校の校歌を斉唱しようとして、のっけからフリーズした。
「...ええと、『蒼天駆ける 白雲の』だったっけ?」と内田さん。
「それは二番の出だしじゃなかったですか」とボク。
「...だめだ、『天歌高校 ああ我が母校』しか思い出せない」
「メロディーならどうにか口ずさめるんですけど...」
「しょうがないねえ。キミたちには愛校心というものがないのかね」とルカさん。
「じゃあ、ヨッシー、いこうか」
そう言うとルカさんの「サン、ハイ」に合わせて、二人はルミナス女子高等学校・女子中学校の校歌を歌い始めた。ルミナスOGの「天使の斉唱」になるはずだった...
風光明媚 天歌の
空海蒼く 輝きて
杜の翠も 涼やかに
集えルミナス 我らが母校
歴史を刻む 天歌の
祖先の英知 敬いて
温故知新の 言葉のまま
我らルミナス 学びの朋
片隅なれど 天歌の
一隅照らす 一条の光
明日に繋ぐ 想いを込め
灯せルミナス 希望の光
...校歌「斉唱」というよりは、ほとんど「独唱」だった。
完璧に歌ったのは高校からルミナスに入った吉野さん。中学からのルカさんは「天歌の」と「ルミナス」の件以外は、ほとんどハミングになっていた。
しばし一同沈黙の後、ルカさんが、咳払いしてから口を開く。
「ええと...所歌制定プロジェクトは...とりあえず来年度の検討案件ということに」
ふだんは頼もしい「我らが所長」であるルカさん。
たまに見せるポンコツな一面に、ボクは彼女のことがますます好きになってしまう。
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天歌総合法律事務所は設立4年目の若い事務所。新米のボクを除く3人の所員の中では、おおまかな担当分野が決まりつつある。
例えば企業法務関連は、内田さん。3ヵ月前にボクがメインで担当した「持株比率10%の少女」案件の縁で顧問先になったエムアイ産業株式会社の対応は、内田さんが中心に行っている。
吉野さんは、民事もこなすけれど、刑事事件に積極的に取り組んでいる。当番弁護士に登録して逮捕された被疑者へのサポートを行い、ボクが入所した後も何件か刑事弁護事件を手掛けている。窃盗事件の国選弁護で情状について粘り強く主張を行い、執行猶予付きの判決を先月勝ち取った。
自然とそれ以外の民事一般は、所長のルカさんが中心に担当するようになる。
もちろんどんな案件でも、全員でサポートできるようにしている。そして経験の浅いボクは、いろいろな案件のサポートをしながら、幅広く勉強させてもらっている。
「所歌制定」について話をした11月7日火曜日。吉野さんは、弁護士会から夕方に依頼を受け、当日夜間、冷たい空気の中を当番弁護士として天歌警察署へ接見に行った。被疑者は、吉野さんと同い年の29歳の女性。当日の午後3時頃に、特殊詐欺の「受け子」として指定場所で金銭を受領したところを、事前に被害者から相談を受けていた天歌警察署の捜査員に現行犯逮捕された。
翌日8日水曜日、朝一に吉野さんから報告。
接見した被疑者の名前は、又市愛さん。本人は当番弁護士との接見を希望していなかったそうだが、捜査員から「今後のことも考えて頼んでみてはどうか」と勧められて、依頼したという。
最初に被疑者ノートを渡し、被疑事実の概要を聞き、被疑者としての権利、特に黙秘権について告知されたことを確認したうえで、捜査員とのやりとりを聴き取った。予想される量刑と今後の刑事手続きについて説明し、できるだけ早く弁護士をつけるべきであることを話した。終始寡黙で、聞かれたことにポツリ、ポツリと答える程度だった又市さん。弁護士について「先生ではダメなの」と聞くので、「自分は現時点では一回きり。引き続き担当するには、私選弁護人として費用が発生する」と告げ、資力を確認すると、「預金残高が15万円くらい」とのことだったので、用意していた国選弁護人選任請求書と資力申告書に署名指印をさせた。最後に家族の連絡先を聞いたところ「できれば連絡してほしくない」と言うのを、「今後のことを考えると、ご家族に早めに連絡しておいた方がいい」と説得。母親の連絡先電話番号を聴き取って、接見は終わりとなった。
「では、国選で行くのかな」と内田さん。
「このあと母親が来ることになっていますので、そのときの話次第です」
「国選だと、勾留請求までは正式に活動できないからね」とルカさん。
吉野さんは接見から戻ると、すぐに母親に電話をし、「娘の愛さんが詐欺事件の被疑者として逮捕されている。弁護士を手配することを強くお勧めする。自分は、現時点では一回きりの当番弁護士の立場なのでこれ以上のことはできないが、自分の事務所で受任することも可能。よろしければ認印ご持参のうえ来所してほしい」と伝えたところ、翌朝9時半に来所されることとなった。
「そういえば、朝の新聞にこの事件の記事が載ってたよね?」
「はい。地方紙の三面記事と、全国紙2紙の地方面。どれも実名報道でした」
「テレビは?」
「私は見てませんが、ネットで確認した限りでは昨日のローカルニュースで報道されたようです。名前は出ていません」
「ところで深町先生。最近大きな仕事抱えてる?」
平日の朝9時から夕方6時まで。執務時間中はお互いのことを「先生」と呼ぶことになっている。所長である「浅山先生」も新米のボクのことを「深町先生」と呼ぶ。
「いえ、補助業務がほとんどですが」
「じゃあ、本件受任することになったら、吉野先生のアシストに入ってください」
「わかりました」
「刑事事件初めてだよね。吉野先生の教えに従って、しっかりやってね」
しとしとと降る冷たい雨の中、9時20分頃、被疑者の母親である油田真須美さんが来所した。天歌市在住の50台半ばくらいの細身の女性。
会議室にお通しし、ルカさん、吉野さんとボクで応対する。挨拶して名刺を渡すと、席に着く前に母親が聞いてきた。
「娘は、ど、どんな様子でしたか?」
「はい。まあ、こういうことなので表情は複雑ですが、お体は健康な様子です」
「...よかった。とにかく愛が生きていてくれて、まずは安心しました」
愛さんは18歳で家を出て、それ以来、言葉を交わしたことがなかったという。住所も、5年前頃に転居して以来わからなくなり、まさに音信不通になっていた。
「ただ、投げやりな風に感じられたのが心配でした」と吉野さん。
「娘はこの10年ほど、どのような暮らしをしていたのですか?」
内田さんが運んできたコーヒーを飲みながら、吉野さんが話す。
吉野さんが昨日聞き取った内容を話す。18歳になって家を飛び出した後、しばらくコンビニや飲食のバイトをしていたが、より給料のいい水商売の世界に入った。ガールズバーから始めて、もっと稼げるキャバクラに。一時は店の売上上位に入るくらいの人気キャストになったが、25を過ぎたころから指名が入らなくなり、最近は一般バイトと同じくらいしか稼げなくなっていた。貯金が少なくなって、風俗の世界に足を入れるか考えるほどに焦っていたところに、SNSで高額バイトの募集を見つけた。それが今回の特殊詐欺の受け子だった。
「それで、娘はどうなってしまうのですか?」
席に着いてからも、居ても立っても居られないという風に油田さんが訊く。
「お嬢さんは、刑法第246条第1項の詐欺罪で逮捕されています。有罪なった場合の法定刑、つまり法律で決められた上限は10年の拘禁刑、つまり監獄に入ることになります」と吉野さん。
「じゅ、10年ですか?」と驚いた顔で油田さん。
「あくまでこれは最悪の場合です。お嬢さんの場合、現時点で判明していること以外に、なにか重大な事実がない限り、起訴されて有罪になっても、法定刑の上限までいくことはない、と考えます。執行猶予がつく可能性も十分あります」と、諭すようにルカさん。
「執行猶予は、決められた期間穏便に過ごせば、監獄に入らなくてすむということですね?」
「おっしゃるとおりです。さらに、娘さんの場合、そもそも起訴、つまり検察が裁判所に刑事裁判を提起することですが、起訴を回避すること、つまり不起訴にできる可能性もあるのではないか、と考えています。いわゆる特殊詐欺事件ですので、かなり難度は高いと思われますが」と吉野さん。
「もしそうなれば、娘は出てこられるのですね」と縋るような声で油田さん。
「はい。当所で弁護をお受けする場合、今回の事件の当面の弁護の方針は、不起訴を勝ち取ることとしたいと考えています。お嬢さんの場合、犯罪事実がなかったとか人違いであったということは、状況からありえません。ですので、起訴猶予という形で不起訴を勝ち取ることを目標にしたいと考えています」
「かしこまりました。ぜひ、お願いしたいと思います」
「受任関連の手続きのあと、当面は、勾留阻止と接見禁止の解除の準備にとりかかります。逮捕から72時間以内に検察が請求して裁判所が勾留、つまりさらなる身柄の拘束を決定すると、起訴か不起訴かが決まるまで、10日間、さらに1回延長があるので最長20日間勾留されることになります」と吉野さん。
「72時間と20日間の話は聞いたことがあります」と油田さん。
「接見は面会のことで、接見禁止が命じられると、弁護士以外は面会ができなくなります」
「できる限り早く、顔を見せてやりたいです」
「今回の事件は組織的な犯罪ですので、勾留の決定と接見禁止は避けられないと思われますが、できる限り早くに解消できるよう努力します」
「それでは、費用についてお見積りでご説明させていただきます」
そう言って吉野さんは見積書を油田さんに提示し、説明を始める。
「これまで刑事弁護を委任したご経験はありますか」
「いえ、ありません」
「では。大きく言って、着手金と成功報酬、接見日当と、交通費、郵便代などの実費からなります。私選弁護ですので相当な額になりますが、実は昨日、愛さんから国選弁護のための書面を預かっています。お聞きした本人の資力からは、国費で弁護費用を賄う国選弁護も可能かと考えられます」
「どのように違うのでしょうか?」
「国選弁護が可能になるのは、検察官が勾留を裁判所に請求し、裁判所が勾留を決定する段階からになります。最初の72時間に該当する間は、表立って活動することはできません。それ以外は変わりはないとお考え下さい」
「わかりました。ある程度の費用は覚悟しておりました。あの子には...本当に悪いことをしたと思っています。あの子の気持ちも考えずに、両親の勝手な都合で離婚し、父親と会うこともできなくなった。私たちの離婚がなければ、高校を中退して家を飛び出すこともなかったと思うと...もちろん父親の責任もありますが、親権者となった私がもっとしっかりとしていさえすれば...」と言って顔を下に向ける油田さん。
「お気持ち、お察しします。いろいろとご事情があったのですね」とルカさん。
「...あ、関係のない話を長々としてしまいました。申し訳ありません」
「いえ、重要なお話しです。今回は、どれだけ情状を主張できるかが弁護活動を左右します。愛さんの生い立ちに関わることについても、もっと詳しく教えていただくことになります」
「ありがとうございます。愛のためにできる限りのことをしたいと思います。国選ではなく、私選弁護で、費用をお支払いします」
「かしこまりました。それではお見積りの話を続けましょう」とルカさん。
吉野さんが続ける。
「この見積もりは、現時点から勾留期間中、そして第一審、つまり最初の裁判の判決が出るまでをカバーするものです。着手金が2つ設定されていますが、安いほうのばあい、勾留期間中から弁護士による接見の、人数に関係なく回数に応じて接見日当をいただくことになります。高いほうは、勾留期間中の接見日当が含まれています。その場合、接見日当のご請求は、起訴されて以降に発生します」
「どちらのほうがよろしいでしょうか」と油田さん。
「今回の事件の場合、勾留期間中、かなり頻繁に接見することが予想されますので、日当込みのほうが結果的には安くつくかと思います。日当込みだからといって必要な接見の回数を減らすというようなことは、絶対にしませんのでご安心ください」
「承知しました」
「あとは成功報酬。不起訴になった場合と、執行猶予付き判決になった場合。無罪の場合の報酬も設定されていますが、今回は、よほど特別な事情が出てこない限り、無罪はないと思います。従って、不起訴か執行猶予の場合のいずれかとお考え下さい。その他、勾留を阻止した場合や、起訴された後に保釈許可を得た場合は、それぞれ別に、こちらに記載の報酬をご請求することになります」
「だいたい想定していたレベルです」
「よかったです。着手金と、実費費用の預かり金を最初の時点でお支払いいただきます。着手金は基本的にお返しすることはありませんが、実費費用については事件終了後に精算させていただきます。成功報酬は内容に応じて、事件終了後にお支払いいただきます。以上、よろしいでしょうか」
「かしこまりました。こちらでお願いします」
吉野さんが、委任契約書と弁護士選任届(弁選)を作成すべく会議室を退出した。
ルカさんが油田さんに話す。
「吉野が、実は、お嬢さんと同い年なんです」
「随分と若くていらっしゃるのですね」
「弁護士になって当所に入って3年目です。うちで受任する刑事事件は、ほとんど彼女が担当しています。先日も、かなり難度が高いと思われた執行猶予を勝ち取った事件がありました」
「そうですか。それは心強いです」
「人並外れた努力ができる人間です。ルミナス女子高校はご存じですよね」
「はい。愛は中学からルミナスでした」
「吉野は、高校から一般コースで入って、2年に特進、3年に国立に進み、現役で天大法学部に合格したんです」
「...あの、愛さんもルミナスということは、吉野さんと同級生だったかもしれませんね」とボク。
吉野さんが、委任契約書2通と弁護士選任届3通、弁護士法人の実印、吉野さんとボクの職印、朱肉を持って戻ってきた。
契約書の条文、特に報酬の部分を確認してもらい、問題なしで住所、氏名、捺印をいただく。今度は弁護士法人の欄にルカさんが捺印し、各1通を手にして契約締結。
「ここにも書かれていますとおり、この契約は、愛さんが私たちを弁護人として選任することを拒否した場合は、効力を失います」と吉野さん。
「今日このあと接見に行って、こちらの弁護士選任届に同意をもらうようにします。着手金と預かり金のお振込みは、愛さんの意思確認ができてからお願いします」
「ないとは思いますが、万が一愛さんが拒絶したら。どうなりますか」とボク。
「その場合は、本日の相談料と接見日当1回分をご請求することになります」と吉野さん。
弁選3通にも、それぞれ署名捺印。
「それでは、このあと接見に行って、愛さんに弁護士選任届への同意をとります。それからいろいろと準備して、今日の夕方には状況をご報告していろいろご相談できると思います。午後6時頃お越しいただくことはできますか」と吉野さん。
「かしこまりました。愛の同意がとれたら、すぐに最初のお支払いを振り込みますので、ご連絡ください」と油谷さん。
「接見の際になにか愛さんにお伝えすることは?」
「早く会えることを待っている、とお伝えください」
「承知しました」
3人でオフィスの外までお見送りした。11時を回っていた。
「じゃあ吉野先生、あとは頼みますよ」
「はい。報告は随時します」




