第1話:言葉が世界を感染させる
空気が妙に甘ったるい日だった。
教室の窓際、三列目。御言式彼方はいつものように、口を閉ざして外の空を眺めていた。
「この国では、喋るたびに現実が変わるんだよ」
それは彼が幼いころ、母に言われた言葉だった。
誰も信じなかったし、今でも信じているのは彼方だけだった。
だが、彼だけは知っている。人が発する「言葉」には、ウイルスのような副次効果があることを。
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この世界では、ある時から《感情と言葉》がウイルス化した。
人が「嬉しい」と言えば、周囲の温度がほんの少し上がる。
「つらい」と呟けば、天気が曇る。
だが、それはまだ“軽度な感染”に過ぎない。
最も危険なのは、**「好き」**という単語だった。
それは、人の「現実スクリプト」を直接書き換えてしまう、構文型改変ウイルス。
喰らえば、人格が変わり、物語ジャンルさえ変わる。
ある者はギャグ漫画の主人公になり、ある者はサスペンスの被害者になる。
だが彼方は、“感情不感症”という稀有な体質の持ち主だった。
言語ウイルスが脳に届く前に、すべてをフィルターで無害化することができた。
だから彼は、今日も静かに息をしていた――あの日、彼女に出会うまでは。
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その日、転校生がやってきた。
「九頭見柚です。地球語、まだヘタだけど、よろしく、です」
彼女は白銀の髪に琥珀の瞳。だがそれ以上に、人間の“構造”から逸脱していた。
動作が滑らかすぎる。まばたきの間隔も異常。
そして何より、彼女が発した「好きです」の一言が――
教室の現実を書き換えた。
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「――き、きゃぁああああああっ!! 彼方くんがヒロインにっ!!」
叫んだのは担任だった。
教室がピンクのハートに染まり、窓の外には謎の王子が馬で駆けている。
黒板がピンク色に変わり、チョークが「今日の恋占い♡」と勝手に書き始めた。
そして、彼方の制服が……セーラー服に変わった。
「やめろおおおおおおおッ!!!」
叫んだが遅かった。
その瞬間、彼方の脳内に“第三の声”が響く。
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《——マキナ起動。対象構文:LOVE-S01、検出。言語感染レベル:宇宙規模。該当スクリプト:転移少女型 感情兵器》
「……誰だ、お前は」
《私は“言語自爆ウイルス・マキナ”。お前の脳内言語構造を再構築し、世界を書き戻す》
「……どうやって」
《簡単。お前の発話を一文字ずつ、宇宙方言に“再詠唱”すればいい。副作用は現実崩壊》
「副作用がデカすぎるだろ!!」
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だが現実は待ってくれない。
柚はさらににっこり微笑むと、もう一度言った。
「御言式くん、わたし、ほんとうに、好き」
ピキィィィン!!!
黒板が割れ、空からハート型の隕石が降ってきた。
生徒たちがどんどん“恋愛ゲームの登場人物”に再構築されていく。
誰もが彼方に向かって愛を叫び出す。
「彼方くん、私と契約して恋人になってください!」
「俺も彼方が好きだ!」
「彼方様、お慕い申しております!」
「落ち着けえええええええええ!!!俺はそんなジャンルに生きてないッッ!!!」
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《感染拡大率:130%。ジャンル崩壊開始》
教室の壁が消え、そこはもう「現実」ではなかった。
舞台は、言語がすべてを支配する異空間“エモクラフト”。
彼方は空中に浮かぶ文字に囲まれ、自分の名前がバグり始めるのを感じた。
「みこ……と……しき……? なぜ、“彼方”なんだ……?」
マキナが答える。
《お前の名前の意味は、“言葉の向こう側”。元々、お前の存在は……“世界の脚本そのもの”だ》
「え……」
《つまり、お前自身が“物語の書き手”だった。》
彼方の目に、見覚えのないキーボードが映る。
押せば、世界が書き換わるキー。
だがそこには、たった一つだけ押してはいけないキーがあった。
──「好き」キー。