第5章 クリムゾン・オクスプリムの反撃
「失敗したのか」
公邸の一室——煌びやかな装飾の施された大理石の壁に囲まれた空間で、薄暗い燭台の炎だけが揺らめいていた。窓から漏れる月光が床に不気味な影を落とす中、ミハエルは氷のような青色の瞳でイルゼを射抜くように見つめていた。
彼の顔は怒りで引き攣り、その指先は革の手袋の中で小刻みに震えている。銀糸が施された黒い制服は月光に反射し、まるで彼自身が闇から生まれた存在のように見えた。
「あの見果てぬ国の魔術師...予想以上でした」
イルゼは歯を食いしばり、震える声で言った。彼女の青白い顔は汗で濡れ、漆黒の髪が顔にへばりついている。黒い修道女のドレスには埃と血が付着し、裾は戦いで焦げていた。
「屍霊兵すら一瞬で全滅させられました...」
イルゼが言葉を絞り出すと、ミハエルの表情がさらに険しくなった。彼の薄い唇が一文字に結ばれ、拳がギリリと音を立てるほど強く握りしめられる。
「奴の眼光は...まるで私の魂を見透かされているようでした...」
イルゼは顔を俯かせ、恐怖に身震いした。ミハエルは一歩近づくと、彼女の顎をグイッと掴み上げ、顔を強制的に上向かせた。
「ビクビクするな!」
その声は獲物を狙う猛獣のような低い咆哮だった。
「晴明に危険を察知されたか...」
ミハエルはイルゼの顎を乱暴に放すと、窓辺に歩み寄り、月明かりに浮かび上がる公邸の庭園を見下ろした。彼の瞳に鋭い光が宿る。
「もはや一刻の猶予もならん、こうなれば、実力行使あるのみ...!」
彼は背筋をピンと伸ばし、振り返った。イルゼは彼の目に宿った狂気を見て、思わず後ずさりした。
「ふふっ...」
ミハエルの唇が不敵な笑みに歪み、その白い歯が月明かりに浮かび上がる。
「覚悟はいいか、イルゼ?今夜、この城に血の雨を降らせようぞ...」
イルゼの表情が一変し、恐怖に歪んでいた顔が、次第に嗜虐的な笑みへと変化していった。彼女は濡れた唇を舐め、嗜虐的な喜びに目を細めた。
「はっ...心得ております、ヴァルター様...」
***
「ガッ...ハァッ...!」
廊下の静寂を破り、警護兵の喉から発せられた断末魔が響く。
壁に叩きつけられた兵士の体からは、鮮血が噴き出し、真っ白な壁に鮮やかな赤の飛沫模様を描いていた。
ミハエルは血に染まった剣を一振りすると、血しぶきがシュパッと音を立てて床に落ちた。その眼は今や完全に別人のもので、冷酷な殺意に満ちている。
「ど、どけ、邪魔だ...!」
豹変したミハエルの態度に戸惑う警護兵たちに、彼は容赦なく切りかかった。
「シャァァン!」
剣が空気を切り裂く音。
「ズブッ! ゴポッ...」
喉を突かれた兵士が血を吐き出す。
「ギャアアアッ!!」
腹を裂かれた兵士の悲鳴。
その背後では、イルゼが神秘的な呪文を詠唱していた。彼女の両手が暗い紫色のオーラに包まれ始め、床に広がる影から何かが這い出てくる。
「死者よ、目覚めよ...我が命に従え...」
「ガシャガシャ...」
骨の軋む不気味な音と共に、地面から腐敗した屍の手が突き出した。次々と屍霊兵が立ち上がる。朽ちた鎧を纏い、空っぽの眼窩から青い炎を燃やす骸骨の兵士たちが、ゆっくりと警護兵たちへと進み出た。
「キィィィン...」
錆びた剣が鞘から引き抜かれる音。
「ガシッ! グシャッ!」
屍霊兵の冷たい骨の手が、生きた兵士の首を掴み、握りつぶす音。
「た、助けてくれ...! ギャアアアッ!!」
次々と倒れていく警護兵たち。廊下は瞬く間に血の海と化した。
事態の異変に気づいて駆けつけたニュイは、その光景に息を呑んだ。ニュイは剣を抜くと、一番近くの屍霊兵に飛びかかった。
「ハッ!」
「カキン!」
剣と骨が激しくぶつかる音。ニュイは見事な剣技で数体の屍霊兵を薙ぎ払った。しかし、次々と現れる屍霊兵に囲まれ、徐々に追い詰められていく。
「ハァハァ...」
息を切らしながらも、ニュイはミハエルとイルゼに剣を向けた。
「ミハエル様、血迷われたのですか?」
「ミハエルは、とうの昔に死んだわ...」
低く冷たい声でミハエルが答える。彼の口角が不敵に上がり、顔つきまでもが変わりつつあった。
「!!」
ニュイの顔に衝撃が走る。
「シャドウ・ヴェール」
ミハエルがそう唱えると、彼の体を黒い霧が取り巻いた。うねる闇の中から、全く別の人物が姿を現した——黒い修道衣をまとった、鍵鼻の痩せた男。
「私の魔術シャドウ・ヴェールは、完全に姿形を変えることができる」
新たな姿になった男は、嗜虐的な笑みを浮かべた。その声はミハエルのものとは全く異なる、耳に突き刺さるような甲高い声だった。
「何人たりとも見抜くことはできない...」
「私は、クリムゾン・オクスプリムの助祭・万化変化のヴァルター!!」
その宣言と共に、彼の瞳が血のように赤く輝いた。
「クリムゾン・オクスプリムだと!!」
ニュイは震える声で叫んだ。
「ここは通さん!」
ニュイは全身に力を込め、ヴァルターに向かって突進した。
「お前ごとき、ものの数ではないわ!」
ヴァルターが鋭く笑うと、指先を掲げた。
「ヴァーミン・スウォーム!」
ヴァルターが詠唱し、ナイフで指先を切り裂く。
「チッ」
血が滴る音。一滴の血が床に落ち、そこから暗い赤い煙が立ち上った。
「腐肉の宴を始めよ...」
ヴァルターの言葉は呪いのように響き渡る。次の瞬間——
「ギャアアアッ! バサバサバサッ! キーキーキー!」
一滴の血が巨大な渦となって舞い上がり、その中から凶悪化したコウモリ、カラス、ネズミ、蛇などの害獣が現れた。それらは異様に大きく、目は赤く光り、牙は異常に発達していた。
「キシャアアッ!」
巨大ネズミが兵士の足に噛みつく。
「バサッ! ギャアッ!」
黒いカラスが兵士の目を狙って襲いかかる。
「ひっ...! うわあああっ!!」
ニュイ以外のほとんどの兵士は、害獣や屍霊兵の餌食となっていった。
***
「ドゴォォン!」
公爵の居室の扉が爆発音と共に吹き飛んだ。煙と破片が舞う中から、ヴァルターとイルゼが姿を現した。
「お揃いとは好都合だ、一思いに葬ってやる!」
そこには、玉座に座る痩せ衰えた公爵と、その傍らに立つマルグリットの姿があった。マルグリットの目が恐怖と決意に燃え、彼女は公爵の前に立ちはだかった。
「公爵殿下には指一本触れさせない!」
体の弱っている公爵に代わり、マルグリットは剣を構えて立ち上がった。彼女の姿は凛々しく、手に持つ剣が銀色に光っている。
「ふっ...」
ヴァルターは艶めかしい笑みを浮かべ、ゆっくりと指をピッと動かした。指先が青白く光り、そこから一筋の光が放たれる。
「シュウゥゥ...」
光は空中で曲がり、まるで生き物のように蠢いた。
「!?」
マルグリットが驚きの声を上げる間もなく、光は毒蛇に変化し、彼女の首筋に飛びついた。
「キシャアァァ!」
「きゃあっ!」
蛇の鋭い牙がマルグリットの白い肌に食い込む。
「ふるっ! はなせっ!」
必死に振り払おうとするも、蛇は食いついて離れない。彼女の顔から血の気が引き、青白くなっていく。
「ハア...ハア...」
息も絶え絶えになったマルグリットは、膝から崩れ落ちた。
「マルグリット!!」
公爵は絶望的な叫び声を上げた。しかし、彼にはもう立ち上がる力すらなかった。
「最後は貴様だ、ミシェル公爵」ヴァルターは冷酷に言い放った。
「大人しく、クリムゾン・オクスプリムの軍門に下れ」
ヴァルターが指を伸ばすと、カラスとネズミの害獣たちが一斉に公爵に襲いかかった。
「キーッ! キシャッ!」
無数の獣が公爵に迫る——しかし、それらは公爵の手前まで来ると、突如、見えない壁にぶつかったように地面にバタバタと落ちていった。
「ガチャン! ビシィッ!」
獣たちが落ちる音。
「なにっ!?」
ヴァルターの顔に驚愕の色が走る。
「間に合ったか...」
静かな声が部屋に響き渡った。入口に二つの影が現れる——晴明とシャロンだ。
晴明の瞳は琥珀色に輝き、その周りには淡い金色のオーラが漂っていた。彼の手には古代の書物に描かれたような神秘的な符が握られている。シャロンは剣を構え、その目はヴァルターを捉えて離さない。
「セーメー、どこまで俺の邪魔をするのか」
ヴァルターは歯ぎしりした。
「異国のお前が口を挟む話ではない!」
「生命に関わる問題に国の問題など関係ない」
晴明は冷静に答えた。彼の声は静かだが、その一つ一つの言葉には重みがあった。
「邪悪なものを排除するのみ!」
「愚問だな」
ヴァルターの顔に狂気の笑みが浮かぶ。
「私のヴァーミン・スウォームを思い知るがいい!」
「ヴァーミン・スウォーム!」
再びヴァルターが詠唱し、ナイフで指先を深く切り、今度は数滴の血を地面に落とした。
「ポタポタ...」
「腐肉の最大の宴を始めよ!」
彼が命じた次の瞬間、先ほどの数倍の害獣たちが出現した。天井から床まで、部屋中がうごめく獣たちで埋め尽くされる。
「ギャアアアッ! キシャアアッ! バサバサバサッ!」
獣たちが一斉に晴明たちに襲いかかる。
「セーメー、どうする!!」
シャロンが叫んだ。
晴明は静かに目を閉じ、両手を前に突き出した。
「式神召喚!!」
彼の周りに金色の光の渦が巻き起こる。
「出よ、我が12神将 前門の青龍、後門の玄武!!」
「ゴオオオォォォ!!」
晴明の叫びと共に、空間が裂け、そこから巨大な青い龍が現れた。翡翠のような鱗を持つその龍は、部屋中を覆うほどの巨体で、禍々しい光を放つ目で害獣たちを見下ろした。
「バッ! ゴオオオォォ!!」
青龍が口を開き、ものすごい炎を吐き出す。青白い炎は一瞬で害獣たちを焼き尽くした。
「ジュウウゥゥ...」
焼け焦げる獣たちの肉の匂いが部屋中に充満する。
「り、龍を出すのか...」
ヴァルターの顔が青ざめた。
部屋の後方では、巨大な亀のような生き物——玄武が現れ、屍霊兵たちを次々と押し潰していた。
「ズシャッ! バキバキバキッ!」
骨が砕ける音が部屋中に響き渡る。
「圧倒的な力の差が...このままでは勝てない...!」
一瞬のうちに圧倒されてしまったヴァルターとイルゼは、慌てて脱出を図った。
「逃がすものか!」
晴明の声が厳かに響く。次の瞬間、逃げようとしたヴァルターとイルゼの上から、玄武の大きく重い右前足が落ちてきた。
「ドゴォォン!!」
「ギャアアアッ!!」
二人の悲鳴と共に、床が大きく陥没した。
シャロンは、晴明が繰り出した圧倒的な呪力に唖然となった。彼女の目は驚愕と畏怖で見開かれている。
「マルグリット!!」
公爵の絶望的な叫び声が部屋中に響き渡った。
はっとして我に返り、シャロンと晴明はマルグリットのもとに駆け寄った。彼女は床に横たわり、呼吸は浅く、顔は蒼白だった。
「セーメー」
シャロンの声は震えていた。
「何とかならないのか?お前の力をもってすれば、マルグリット姫を助けられるのではないか!」
シャロンが必死の懇願をしたが、晴明は痛々しい表情で首を横に振った。
「申し訳ありません」
晴明は力なく答えた。
「すでに体全身に毒蛇の猛毒が回っています。私の術をもってしても施しようがありません...」
「姫様、姫様...」
シャロンが涙を流す中、マルグリットは意外なセリフを吐いた。
「さ、最後までお役に立てず申し訳ありません...」
本来、姫であるマルグリットがシャロンに向かってそう言った。
シャロンの顔に混乱の色が走る。
「ロザリー」
マルグリットは弱々しく微笑んだ。
「もう心配しなくていい。私の代わりをずっと勤めてもらってすまなかった...」
「お役に立てたなら...私にとって何よりの栄誉です、マルグリット姫様...」
そう言うと、ロザリーの命が静かに絶えた。彼女の顔には安らかな表情が浮かんでいた。
「シャロン様...」
晴明は、今ひとつ事態を把握しきれていなかった。
「判っただろうセーメー」
シャロンは涙をぬぐいながら立ち上がった。
「私が、エルムフィールド公国の正真正銘の王女・マルグリット・フォン・ローゼンベルクだ。ヴァレンティア王国の諍いに巻き込まれ、刺客が度々送り込まれていた。事態を重く見た私と父上...公爵殿下は、私が隠密に動けるようにロザリーと入れ替わったのだ」
シャロンの瞳は決意に満ちていた。
「おかげで全国各地を動き、動乱を未然に防ぐことができた。しかし最近、クリムゾン・オクスプリムの活動が目立ってきて、今回は、ロザリーを連れて大賢者の元へ向かったのだ」
「そうでしたか...」
晴明は静かに頷いた。
「だが、そのせいで、ロザリーが...」
シャロンは、これまでこらえていた気持ちが溢れ出し、ロザリーの亡骸に縋りついて崩れ落ちた。その肩が激しく震える。
「黙れ!」
突然の大声が室内に響いた。
床の陥没した場所から、突如として叫び声が上がった。瓦礫を振り払い、ヴァルターが立ち上がる。彼の顔は半分が血に塗れ、右目は閉じられていたが、残された左目は狂気に満ちて光っていた。
ヴァルターは突然、長い杖を取り出し、晴明に向けて振りかざした。杖の先から赤い光が放たれ、晴明に向かって疾走した。
「シュバッ!」
光が空気を裂く音。
「急急如律令! 魔力還元!!」
晴明は素早く呪文を詠唱した。
「キィィィン!」
結界が赤い光を防ぐ盾のように広がる。赤い光は結界に当たると、まるで鏡に反射したかのように方向を変え、ヴァルターに向かって飛んでいった。
「なっ...!?」
彼は驚いた表情で光を避けようとしたが、間に合わなかった。
「ドッゴォン!」
「ぐああっ!」
ヴァルターは胸を押さえて再び膝をついた。その瞬間、瀕死のイルゼは悲鳴を上げながら居室から逃げ出そうとした。
「キャアアッ!」
しかし、シャロンが素早く動き、彼女の前に立ちはだかった。
「もう逃げられない!」
シャロンは剣を抜き、イルゼの喉元に突きつけた。
「なぜだ...」
マルグリットが震える声で尋ねた。
「なぜ父上に...」
「『クリムゾン・オクスプリム』...」
倒れたヴァルターが苦しそうに呟いた。
「あれが、完成さえすれば...この国を...支配できる...」
そのいい放つとヴァルターは、イルゼの方に右手を向け、空をギュッと握った。
「あっ!!」
シャロンが言葉を発した瞬間、イルゼは一瞬苦しんだが、カクッと頭を垂れて、絶命した。
それを見届けたヴァルターも不敵な笑みを浮かべ、息絶えた。
「それだけではないでしょう」
晴明は冷静に言った。
「彼らの背後には、もっと大きな存在がある。この儀式は単なる始まりに過ぎない」
晴明は窓の外を見やった。空には満月が近づいていた。
「本当の戦いはこれからです..」
外では、雷鳴が遠くで響き、暗雲が月を覆い始めていた。ルクセリオンの夜に、新たな闇が忍び寄ろうとしていた...
そして、誰も気づいていなかった。
ヴァルターの口から、一匹の甲虫が出てきて、何処かへ消えた。
***
数日後、シャロンは事態を解決すべく、王都へ向かうことにした。ロザリーの死は隠して、マルグリットは、シャロンのままで王都へ向かう——そう決めたのだ。引き続き、晴明も同行することになった。
晴明たちの行手には、何があるのかは、誰にもわからない。