第4章 市中の罠
翌朝、晴明は早朝の静けさの中で宮殿の庭園を散策していた。
朝露が草木を濡らし、その一滴一滴が朝日を受けて宝石のように輝いていた。
朝の光景は、どの時代、どの場所でも変わらないものだ。晴明は、昨日あったの喧騒を離れて、少し安らいだ気持ちになっていた。
晴明が散策を続けていると、庭の片隅で、地面に刻まれた奇妙な模様に気づいた。
円形に配置された小さな穴が、まるで何かの儀式の跡のように見えた。かがみ込み、指先でその穴の一つに触れると、土の中から微かな振動が伝わってきた。
「何をしている?」
背後から響いた低い声に、晴明はゆっくりと振り向いた。そこには、シャルル公爵の側近ミハエルが立っていた。
朝日に照らされたミハエルの姿は、まるで闇から浮かび上がった影絵のようだった。
彼の長身は漆黒の宮廷服に包まれ、その輪郭線だけが金色に縁取られている。
白磁のように滑らかな頬に流れる一筋の傷跡が、朝の光を受けて銀色に光っていた。湖水のように澄んだ青い瞳は、その底に何かを隠しているかのように深く、鋭い鷲のような視線が晴明を捉えて離さない。完璧に後ろに撫でつけられた金の髪は、一本たりとも乱れることなく、まるで金属製の兜のように彼の頭部を覆っていた。
「公爵殿下の健康について懸念があります」
晴明は率直に言った。自分の言葉が相手にどう響くか、慎重に観察しながら。
ミハエルの唇が一瞬引きつったが、すぐに冷ややかな微笑みに変わった。
その表情の変化は、水面に投げられた小石による僅かな波紋のように、一瞬で消えた。
「見果てぬ国の魔術師殿」
ミハエルは言葉を選ぶように間を置いた。
「公爵殿下の健康を疑うとは…興味深い結論です。何がそのような考えに至らせたのでしょうか?」
「昨日の謁見の際、公爵の顔色が優れない様子でした」
晴明は静かに答えた。
「それに…」
彼は地面の模様に視線を戻した。
「この土地にはある種の気が満ちている。人の命を蝕むような」
ミハエルはゆっくりと晴明に近づき、その場に膝をついた。
彼もまた地面の模様に触れたが、その指先には皮の手袋が嵌められていた。
「東方の術者は敏感なようですね」
彼は晴明の反応を窺うように言った。
「殿下は単に日毎の公務の疲労が増しているだけです。この国の政は複雑で、その重みは並大抵のものではありません」
晴明は黙って頷いた。しかし彼の目は模様から離れなかった。
「もっとも…」
ミハエルは立ち上がり、声を低めた。あたかも木々にも聞かれたくないかのように。
「余計な詮索は控えください。貴方の力量は理解していますが、この国には貴方の知らない力が働いている。そのようなことが噂になれば、公都を不安にするだけではすまないでしょう」
ミハエルの青い瞳が冷たく光った。それは脅しというよりも、警告のように聞こえた。
「公爵の治療法をご存知なら、教えていただきたい」
晴明は静かに言い返した。
「姫様の依頼で来たのですから」
「姫様の客人であることは承知しています」
ミハエルは一歩下がり、晴明を見下ろした。
「だからこそ、忠告します。余計な詮索はやめておくべきです。貴方の安全のために」
その言葉に含まれた二重の意味を、晴明は見逃さなかった。
ミハエルは最後に意味ありげな微笑みを浮かべると、踵を返して去っていった。
その足音は朝の露を踏みしめてもほとんど音を立てず、やがて彼の姿は朝霧の中に溶けるように消えていった。
「人外族と人間が共存する街があるんですね!!」
晴明は、シャロンと共に市場を歩きながら感嘆の声を上げた。少年のような輝きを湛えた瞳で、あらゆる方向を見渡している。
ルクセリオンの大通りには、七色の虹が地上に降り立ったかのような光景が広がっていた。石畳の道は何世紀もの足音で磨かれ、雨上がりの太陽の下で宝石のように輝いている。両側に立ち並ぶ建物は、まるで積み木を積み上げたように様々な様式が混在し、尖塔や丸屋根、蔦の絡まる木造の家々が互いに寄り添うように建ち並んでいた。
人間だけでなく、風のように軽やかに歩く長い耳を持つエルフたちは、その髪に植物や花を編みこみ、空を映したような青い瞳で世界を見つめていた。ごつごつした岩のような肌のドワーフたちは、腰に巻いた鍛冶道具から火花を散らし、その太い指で精巧な装飾品を作り上げていた。獣人族は様々な獣の特徴を持ち、虎のような縞模様の毛皮に覆われた商人、鷹のような鋭い視線で露店の品物を選ぶ女性など、一つとして同じ姿はなかった。
空には翼のある種族が低く飛び、街の上層部に設置された着陸台と露店の間を行き来していた。建物と建物の間には空中橋がかけられ、そこを渡る人々の影が地上に細長く伸びている。
「あ、あれは浮遊する水晶ですか?市場の上に!」
晴明は指を指し、足を止めて見上げた。巨大な水晶が魔法の力で宙に浮かび、太陽の光を受けて虹色の光を市場中に撒き散らしていた。
「あれは『七彩の眼』と呼ばれている」
シャロンは晴明の興奮ぶりに思わず微笑んだ。普段の冷静沈着な様子から一変し、まるで初めて祭りに連れてこられた子供のように目を輝かせる晴明の姿は、彼女にとって新鮮だった。
「魔力の流れを整える装置でもあるのよ」
晴明は今度は獣人の行商人が売る見たこともない果物に興味を示し、躊躇いなく近寄っていった。
「これは何ですか?食べられるんですか?」
晴明は紫色の星形の果実を手に取り、香りを嗅いでいた。
シャロンは少し後ろから、そんな晴明の姿を見守っていた。普段は常に警戒を怠らない術者が、ここでは純粋な好奇心だけで動き回っている。その無邪気な探究心に、シャロンは思わず優しい眼差しを向けていた。
「こんな表情もするのね」と小さく呟いた。
「ルクセリオンは『交錯点』と呼ばれている」
シャロンは晴明が戻ってくると、誇らしげに説明した。
「異なる世界からの影響が混ざり合う場所。だから、東方の呪術も西方の魔法も、北方の召喚術も、みんな研究されている」
晴明は通りを見渡し、人々の活気ある姿に目を細めた。色とりどりの商品、言語の洪水、香辛料と魔法の材料が混ざり合う独特の香り。すべてが彼の感覚を刺激していた。
しかし、その視線は突然、一人の女性に固定された。白い宮廷服を着た若い女性。イルゼだ。イルゼは、市場の露店で何かを購入していた。彼女の動きには、どこか不自然な慎重さがあった。
イルゼは、細長い指で薬草の束を一本一本慎重に選び、爪先で葉の質感を確かめていた。彼女の瞳は常に左右に動き、明らかに周囲を警戒している。薬草を選び終えると、袖から小さな袋を取り出し、中身を確認せずに店主に手渡した。取引が終わると、彼女は薬草を白い布で丁寧に包み、胸元の隠しポケットにしまい込んだ。その動作は素早く、まるで長年の習慣であるかのように洗練されていた。
「あれは...宮廷の給仕ですね?」
「ああ、イルゼだ」
シャロンが答えた。
「公爵の食事を担当している」
「奇妙ですね」
晴明は眉をひそめた。
「彼女から嫌な臭いが感じられます」
「せーメー。こんな距離でも臭いがわかるのか?」
シャロンは、改めて、晴明の嗅覚の凄さに驚いた。
「微かですが、周囲の者とは違う臭いがするんです。硫黄と…何か腐ったような」
イルゼは次に香辛料の露店へと移動し、赤い粉状の物質を小瓶に入れてもらっていた。彼女の表情は、周囲からの視線を絶えず気にしているかのように緊張していた。
時折、まるで誰かに見られていることに気づいたかのように振り返る。次の瞬間、彼女と晴明の視線が交差した。彼女の瞳に一瞬恐怖の色が浮かび、イルゼは購入品を急いで袋に押し込むと、ショールを顔の前に引き上げ、人混みに紛れて姿を消した。
「追います」
晴明は静かに言った。幼い好奇心を見せていた表情は一瞬で消え、鋭い眼差しに戻っていた。
「もちろんだ」
シャロンは晴明の意図をすぐに理解し、二人は、イルゼの追跡を始めた。
「本当にこんな場所があったんですか?」
イルゼを追っていた晴明とシャロンは、宮殿の地下深くにある古びた扉の前に立っていた。廊下を照らす松明の揺らめく光が、二人の影を壁に大きく映し出していた。
「『隠された回廊』...」
シャロンは小声で言った。
「子供の頃に噂で聞いたことがある。古代の王族が使っていた秘密の通路だと。でも今は廃墟のはずだった」
シャロンは力ずくで扉を開けようと試みたが、ビクとも動かない。
「鍵がかかっているようだ。一旦、城へ戻り、人手をつれてこよう」
晴明は扉に手を当て、目を閉じた。
「どうやら、そんな猶予はないようです」
「中に生命反応があります...それも一つではない、イルゼさん以外の何者かです」
晴明は懐から紙片を取り出し、指先に血を滲ませて文字を描いた。
晴明が、呪符を手のひらにのせ、軽く息を吹きかけると、呪符は宙を舞い、扉に張り付いた。
「開錠」
次の瞬間、ガタン、と重い音を立てて、何百年も開かれなかったであろう扉がゆっくりと開いた。彼らの前に現れたのは、迷宮のように入り組んだ古代の回廊だった。床や壁には、見知らぬ文字や図形が刻まれている。松明の光が届かない暗闇の奥から、微かな音が聞こえた。
「慎重に進みましょう」
晴明は小さな光の玉を掌に宿した。
「この場所、生者の臭いもしますが...死者の臭いもします」
彼らが十歩ほど進むと、床に刻まれた円形の紋様が突如として青い光を放った。
「罠です!下がって!」
晴明は咄嗟にシャロンを引き寄せた瞬間、床から無数の鋭い氷柱が飛び出した。
「冬霜の罠…」
晴明は魔法陣を観察した。
「これは魔術師でなければ仕掛けられない」
晴明は袖から別の符を取り出し、指で図形を描いた。
「解除」
符が青い光を放ち、床の魔法陣が徐々に薄れていく。
「これで安全になりました」
二人が回廊をさらに進むと、今度は壁に埋め込まれた彫像が突如として動き出した。石のガーゴイルが壁から飛び出し、二人に向かって石の爪を振り下ろした。
「シャロン様、左!」
晴明の警告に従い、シャロンは咄嗟に身をかわした。晴明は素早く護符を投げつけ、
「封印!」
と唱えた。符が石像に貼り付き、黄金の鎖のような光が石像を縛りつけた。
石像は身動きできなくなり、そのまま床に崩れ落ちた。
「これが二つ目の罠…」
シャロンは息を整えながら言った。
「誰がこんな…」
彼らは警戒しながらさらに前進し、細い回廊を抜けて大きな空間に出た。そこには古い橋が深い溝を渡っていた。橋の向こう側には大きな扉が見える。
「あそこに行かないと…」
シャロンが一歩踏み出した瞬間、晴明は彼女の腕を掴んだ。
「待ってください」
晴明は一枚の葉を取り出し、橋に向かって放った。葉が橋の上に落ちた瞬間、橋全体が炎に包まれ、木材があっという間に灰となって崩れ落ちた。
「三つ目の罠。業火の橋…」
晴明は眉をひそめた。
「この罠は解除できません。別の方法で渡りましょう」
晴明は両手を合わせ、古い呪文を唱え始めた。
「森羅万象、我が身に宿れ。風の道、開け!」
彼の手から緑色の光が放たれ、崩れた橋の上に薄い空気の道が形成された。
「急いで。この術は長くは持ちません」
二人は見えない道を急いで渡り、扉の前に辿り着いた。
しかし扉を開けようとした瞬間、床から何かが飛び出してきた。
灰色の毛に覆われた小型の生物たち。赤い目をギラつかせ、鋭い歯をむき出しにしている。ネズミほどの大きさだが、その口は異常に大きく、体からは紫色の霧のようなものが立ち上っていた。
「毒牙鼠!?」
シャロンは剣を抜いた。
「伝説の魔獣の一種だ。その牙に触れれば即死すると言われている」
毒牙鼠の群れは一斉に二人に飛びかかった。シャロンは剣を振るい、何匹かを切り払ったが、次々と新しい鼠が現れる。
「星火燎原!」
晴明は右掌から、小さな炎が現れ、次々と、毒牙鼠に襲いかかっていく。炎を襲われた強烈毒牙鼠たちは悲鳴を上げ、煙となって消えていった。しかし、まだ数十匹が残っている。
「このままでは埒が明かない」
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前 結界発動!!」
晴明は、九字を唱え、強力な結界を展開した。襲いかかってくる毒牙鼠は、結界にぶつかり、次々と地面に叩きつけられた。
「シャロン様、扉を開けてください!」
シャロンが扉を開け、晴明たちは、そこへ駆け込んだ。
「ものすごい数の毒牙鼠だったな」
シャロンは息を切らしながら、そう言った。
二人は静かに前進した。回廊は徐々に広がり、やがて円形の広間に到達した。そこには七つの石柱が立ち、床には複雑な魔法陣が刻まれていた。
「これは...」
晴明は床に膝をつき、指で床の刻印をなぞった。
「蠱毒の儀式の跡」
晴明は、確信を持って言った。
「蠱毒だと、セーメーが言っていた暗殺術か」
シャロンの顔が青ざめた。
「でも誰が...ま、まさか…イルゼが?!」
ガラガラ...
突然、背後から不気味な音が響いた。振り返ると、骸骨の兵士たちが剣を構えて立っていた。その空洞の目からは青い炎が揺らめき、錆びた鎧は血のような赤さで染まっていた。
「屍霊兵!?」
シャロンが叫んだ。
「こんなところに!?」
「奴らは『滅びの門』を守っているのよ」
イルゼの声が暗闇から響いた。彼女は広間の隅に立ち、その瞳は異様に輝いていた。白い宮廷服は何かの儀式のために着替えたのか、今や黒と赤の装飾が施された魔術師の衣装に変わっていた。彼女の手には骨で作られた杖があり、その先端に埋め込まれた宝石が不気味に脈打っていた。髪は風もないのに宙に舞い上がり、まるで生きているかのように蠢いている。
「イルゼ…公爵殿下に仕える者ではなかったのか」
シャロンは剣を構えながら言った。
イルゼは薄ら笑いを浮かべ、指先で空中に何かの印を描いた。
「私は主に仕えている…公爵ではない、もっと偉大な存在にね」
「それは、クリムゾン・オクスプリムか!」
イルゼは、シャロンの発した問いかけに不敵なえみで応えた。
「イルゼ!あなたがシャルル公爵に蠱毒を施したのですね...」
晴明がイルゼに問いかける。
「言葉は無用!」
イルゼが手を振り上げると、屍霊兵たちが一斉に動き出した。
彼女の指から紫色の糸のようなものが伸び、それぞれの屍霊兵に繋がっているのが見えた。
「私の操り人形たちよ、彼らを始末しなさい!」
「シャロン様、下がってください!」
晴明は懐から複数の呪符を取り出し、指先に霊力を集中させた。
「散れ!」
呪符が空中で燃え上がり、炎となって広がった。しかし、屍霊兵たちはその炎をものともせず、剣を振りかざして迫ってきた。シャロンは剣を抜き、一体の頭部を切り落とした。しかし、頭のない骸骨はなおも動き続けていた。
「通常の攻撃は効かない!」
シャロンが叫んだ。
「死霊も操るのか…ならば!!」
晴明は、指を組み、天井の方向に向けて詠唱した。
「天照耀光!」
天井から、次々と光が放たれ、ピンポイントで、屍霊兵を直撃していく。直撃された屍霊兵,瞬間的に溶けるように跡形も無く、消滅していく。
「ま、まずい」
予期しない晴明の術の前にイルゼは焦り出し、その場から立ち去ろうさろうとした。
「逃がさない!」
シャロンが叫んだが、行く手を残っていた屍霊兵が立ちはだかった。天井からの光条が
最後の屍霊兵を直撃した後には、イルゼの姿はもうそこには無かった
「早くここから。脱出しましょう。公爵殿下が危ない!」
晴明の言葉にシャロンは頷き、公邸へと向かった。